文章表現Ⅱクラス  自由テーマの小論文

唐前期呉興沈氏について

 

アジア史  付 晨晨(中国)

 

氏族研究は、魏晋南北朝隋唐史の研究において極めて重要なテーマであり、かなりの蓄積があるが、これまでの氏族を対象にした研究では、ほぼ中古時代の高名な氏族、例えば、琅琊王氏や、陳郡謝氏や、博陵崔氏などに関心が集まる傾向があった。しかも、史書の中に名を残した人物、つまり、有名人を中心としており、華族ではない氏族を対象にした研究はあまりない。この時代に残されている資料が少ないという制約があるとは言え、これらの研究は氏族の一面だけに留まっているという事実は否定できない。

幸いに、近年、次々と発見された墓誌からは史書と違い、各階層、各領域で生きていた人々の生活が窺え、史書が有名人だけに関心にあるという欠点を補う格好の材料と言える。

そこで、本稿では、呉興沈氏の四つの家族の墓誌を利用して一般の氏族の生存環境について検討したい。

本稿で主に取り扱う材料は、河南省千唐誌斎蔵墓誌であり、『唐代墓誌彙編』に所収されたものである。具体的には、『唐故右金吾衛胄曹參軍沈君墓誌銘』[1]、『大周故左衛翊衛沈君(浩)墓誌銘并序[2]、『唐故右金吾胄曹參軍沈君夫人朱氏墓誌銘并序』[3]、『唐故中散大夫行汾州長史沈府君(浩豐)墓誌銘并序』[4]という四つの墓誌を主体にする。

呉興沈氏は六朝時代における有名な武家氏族として知られる。入唐後、地位が下がったが、晩唐には、沈氏から皇太后が出て、一時的ではあるが、再び花火のような燦爛期を迎えた。それ故、従来の研究では、南朝の沈氏と晩唐の沈氏に関しては論文が数多くあるが、その間の唐前期の沈氏に関するものは少ない。上に挙げた墓誌を使った研究はあるが、ほとんど手がつけられておらず、専論もないようである。

したがって、本稿ではこの四つの墓誌を取り上げ、唐前期における呉興沈氏の生存実態を検討し、以前の研究のブランクを補充したい。そして、これを基に、唐前期における一般的な氏族の状態についても推察したい。

周知のように、氏族といえば、まず、本氏族における地位、つまり、本家か否か、そして、氏族の「婚」と「宦」を究明しなければならない。

そこで、以上の墓誌を使い、史書も参考にしながら、家主の沈斉文を中心にして次のような家系図を作成した。

この図の中には、墓誌に登場する名前の他、「沈浩僊と「沈浩源」、また「沈浩」の妻の「姚氏」の家柄が書かれているが、それらは史料を参照して補足したものである。以下でその詳細を説明する。

 家主の沈斉文は史料には名が見当たらないが、沈斉文の父である沈伯儀は、『新唐書』の中に伝があり、歴史の中で無名だとは言えない。しかし、本伝は短く、武則天時代に明堂についての発論だけであり、新旧唐書の中にも、同じような記録しかない。したがって、あまり政治的影響がない人だと言えよう。幸いに沈伯儀をキーワードとして『元和姓纂』を調べたところ、沈氏の事項として、以下のものを発見した。

國子祭酒、修士學士沈伯儀、稱彥後。孫浩僊、浩源。浩僊、殿中丞。浩源、武功尉。生廙、庠。廙生周、明、琚,珂。珂、京兆功曹(正七品下)[5]。庠、監察御史(正八品上)。生瑱、比部郎中(從五品上)。[6]

これによって、三つのポイントが明らかになる。

第一点は、沈伯儀が自身を沈氏の「沈」の子弟と称していたことである。つまり、本当に沈氏の子孫であるかどうかは疑問である。しかし、沈伯儀の祖父の沈孝恭が陳の時代に本郡の主簿を務めたことをくわえて考えると、沈伯儀の一族は呉興の沈氏であることは確かであろう。ただし、本家ではない可能性が高い。

第二点は、沈伯儀の後に直接記録してあるその孫の名前と所帯を見れば、沈斉文はやはり官職が低く、そのため、知られなかったと思われることである。しかし、孫の「浩僊」と「浩源」は、墓誌の「浩豐」と「」と同じく名の中に「浩」を持つことから、兄弟であることが予想される。

第三点は、ここに登場する名前を史料で探したところ、沈の子の沈明だけ、史料で同じ名前の人物を発見できたことである。『新唐書』巻八三に以下のような記録がある。

長林公主,下嫁衛尉少卿(從四品上)沈明。貞元二年具冊禮,德宗不禦正殿,不設樂,遂為故事。薨元和時。[7]

この沈明が、上に挙げた沈明か否かは確認できないが、ほぼ同時代であるから、同じ人物である可能性もある。

又、「沈浩」の妻である「姚氏」の家柄については、墓誌の中にはただ「夫人呉興姚氏、虢國刺史之第九女也。」とだけ記録されているが、『唐刺史考』を引けば、虢國刺史を務めた姚氏の人物は、姚珽しかいなかった[8]。時代も合うし、出身も呉興姚氏であるから、「沈浩」の妻の「姚氏」は姚珽の娘と判断できる。

以上のように墓誌の内容を手がかりにして、史料を参照しながら、家系図を作成したのである。以下では、この図を主な資料として、節を改めて、沈氏の生前の状況を分析していきたい。

先に述べたように、氏族といえば、「婚」と「宦」は重要な指標である。すなわち、氏族を維持し、氏族の地位を高める要因は、婚姻関係、つまり姻族の力、と当代での官職、つまり祖父輩からの官位である。

まず沈氏の婚姻関係をみよう。ここで注意しておきたいのは、沈氏と姻戚関係を結んだ氏族は同じく南地方の呉郡出身の朱氏と某氏、呉興の姚氏であったことである。

初めに、沈斉文の婚姻関係を検討する。

六朝時代において、江南著姓と言えば、僑姓の琅琊王氏、陳郡謝氏など、呉姓の「朱張顧陸」の土著の四姓である。この「朱」は即ち呉郡の朱氏である。

それでは、沈斉文と結婚した朱氏はどうだろうか。図の中で、朱子奢は史料の中に名を残しているが、「沈伯儀」の場合と同じく、本伝には有用な手がかりがあまりない。『元和姓纂』には以下のように書いてある。

呉郡】漢功臣有都昌侯朱畛、至買臣、會稽太守。呉有將軍朱桓、生異。唐諫議大夫朱子奢,云異後。[9]

よって、朱子奢は呉郡の朱氏と称する。言い換えると、本家ではないことが判断できる。呉興沈氏も史書には「江之豪、莫強周沈」[10]と記されており、呉興の著姓であるが、「沈伯儀」の沈氏も本家とは言えない状況である。

沈氏と呉氏との関連としては、まず地縁が挙げられるが、二氏の文化上の共通点も要因と考える。沈氏にしても、朱氏にしても、儒学の人であり、礼に詳しい人であることが各人物の本伝から読み取れる。

次に、沈浩と妻の姚氏との関係を見てみよう。姚氏も呉興の著姓である。敦煌唐写本『貞觀姓氏録』残巻[11]には、

呉興郡 七姓 胡、州、姚、明、丘、紐、聞、施、沈

と書いてある。

ここで、姚氏ははるかに沈氏の前にいる。これは上の図にある姚氏の官職と沈氏の官職とも相応する。これによって、氏族の地位は当代の官職により定まるという点が再確認できる。それ故、この婚姻関係はやはり、地縁関係と官職から考えなければならない。明らかに、沈浩の父の沈斉文はその婚姻関係に力を及ぼすとは考えにくい。官職の対応性から考えると、沈伯儀しか考えられない。沈浩は祖父が従三品の武康縣開國男であるから、同じく従三品の姚珽の娘を娶ったのであろう。もちろん、嫡女ではなく、第九番目の娘であった。

さて、沈浩豐と妻の呉郡某氏のカップルを見よう。墓誌の中には苗字が見当たらないため、「故惲州刺史□□為績之女」という言葉だけから家柄を推測するしかない。唐代には、「惲州」はなかったから、恐らく「惲」と同じ発音で字形も似ている鄆州の「鄆」の誤りであろう。史料の中には、「為績」という名前はない。『唐刺史考』を調べると、「鄆州刺史」條に、この墓誌を利用し、「(陸?)為績」と書いてある[12]。なぜ郁浩賢が「陸」と推測したか分からないが、もし「陸」であるとすれば、やはり呉郡の「朱張顧陸」の「陸」氏の可能性が高い。とすれば、また著姓間の婚姻による結びつきである。

以上、氏族の「婚」を検討した。次に「宦」について考察しよう。

まず、沈伯儀は父の資蔭を受けられず、自分の力で高位に上ったと言えよう。沈斉文は国子明経で入仕し、息子の沈浩豐と沈浩禕は資蔭によって起家した。

墓誌によると、沈浩豐の起家官位は「太廟斎郎」であり、沈浩禕は「左衛翊衛」であった。

『旧唐書』巻四二には、以下の内容が述べられている。

有唐已來,出身入仕者,著令有秀才、明経、進士、明法、書算。其次以流外入流。若以門資入仕,則先授親勳翊衛,六番隨文武簡入選例。又有齋郎、品子、勳官及五等封爵、屯官之屬,亦有番第,許同揀選[13]

よって、門資で入仕する道は、親勳翊衛や、齋郎などがあり、沈浩禕の「左衛翊衛」は、その道によって入仕したことが分かった。また、『旧唐書』巻二十五には:「太常博士楊孚奏言:太廟斎郎承前只七品已下子。今崇恩廟斎郎既取五品子、即太廟斎郎作何等級?上曰:太廟斎郎亦准崇恩廟置。」とある。つまり、太廟斎郎は、沈浩豐の時代に七品已下子であるから資格があった。沈浩豐の「太廟斎郎」は、父の右金吾衛胄曹參軍(正八品下)という官職を利用して申し込んだと想像するのは難しくない。

以上述べてきたことを整理すると、以下の三つの論点が帰結された。

 唐の時代に入ったにもかかわらず、唐の前期において、南部の氏族は北の首都で官僚を務めた。しかし、依然として氏族の間では元の地の地縁結婚を重要視している。また、同様の文化的背景が結婚の要因と考えられる。

 二つの家族が婚姻関係を結ぶ時、地縁要因のほかに、地位のバランスも考える。その際、父の官職だけではなく、祖父や当世の家族の中で一番高い官職を持つ人の官職を標準とする可能性がある。

 唐の後期と異なり、唐の前期には科挙は未だ隆盛ではなく、氏族は門資を利用して入仕するのが普通であった。

 

参考文献

[] 林寶『元和姓纂』北京:中華書局1994年。

[後唐]   昫等舊唐書北京:中華書局1975

[] 歐陽修新唐書北京:中華書局1975

[] 王欽若『冊府元龜』北京:中華書局、1960年。

 

郁皓賢『唐刺史考』南京:江蘇古籍出版社、1987年。

周紹良 主編『唐代墓誌彙編』上海:上海古籍出版社1992

 


[1] 周紹良 主編『唐代墓誌彙編』上海:上海古籍出版社1992第一冊、垂拱〇六一771頁。

[2] 前引『唐代墓誌彙編第二冊、久視982頁。

[3] 前引『唐代墓誌彙編冊、神龍二四、1056-1057頁。

[4] 前引『唐代墓誌彙編第二冊、開元五三六、1525-1526頁。

[5] 官品は筆者が史料に参考して補足した。

[6] [] 林寶『元和姓纂』北京:中華書局、1994年。『元和姓纂』巻七、1141頁。

[7] 『新唐書』巻八三、3663頁。

[8] 郁皓賢『唐刺史考』南京:江蘇古籍出版社、1987年、第二冊、807頁。

[9] 前引『元和姓纂』巻253

[10] [] 王欽若『冊府元龜』北京:中華書局、1960年。卷四百四十、將帥部、1087頁。

[11] 敦煌唐写本『貞觀姓氏録』残巻 北京:國家圖書館藏BD08679号。

[12] 前引『唐刺史考』第二冊、837頁。

[13] 『旧唐書』巻四二、1804頁。