文章表現Ⅱクラス  自由テーマの小論文

火災と防火について

-植民地初期台北における火災とその対応-

 

建築学  黄 天祥(台湾)

序論

 

 

 
 台北消防組の出初め式(台湾日々 新聞社、1916)

「火の用心」という言葉が普及して久しい。それは、日本の都市で火事がよく起きるからである。火事に対応し、それを防ぐため、日本では防火の対策や技術が昔からなされており、独特な防火文化が生み出された。台湾の都市部にも、日本政府の植民地時代に作られた防火に対する対策がある。一般的に、それは1902年の「台北消防組」の設立から始まったと考えられている。しかし、最初の消防組は台北の消防機関とはいっても、民衆が日本の防火伝統にしたがい、自発的に集まった団体にすぎず、専門的な消防機関だとは言いがたい。台北では、1922年になってはじめて「常備消防手」十二名を任命し、職業的消防士として勤めさせるという改革がなされた。これによって、台北の専門的な消防は、1922年からスタートしたことが分かる。

 
台北消防組の義勇消防手と常備消
防手(台北州警務課、1926)

 しかし、台北では、なぜ既に1902年に消防組が成立していたにもかかわらず、1922年まで消防の専業化がなされなかったのか、それと同時期の台北都市で起きた火事と関わりがあるのか、ということについては、いまだに解明されておらず、調べる価値があると考える。そこで、本稿では、1895年から1925年までの植民地初期の30年間に台北で起きた火事の記録を検討することによって、台北消防の改革と火災との関係を解明する。

 研究方法としては、まず、植民地時代台湾の新聞紙・『台湾日々新報』や年表記録・『台湾大年表』に記載されている台北の都市大火の事例を対象に調査した。次に、調査の結果に基づき、いくつかの項目に分類し、それを『表一』(巻末)に示した。『表一』には、それぞれの火事について、発生時点、発生場所、被害規模、損害額、家屋の構造などの項目が記載されている。以下では、調査結果からいくつかの項目を取り上げ、分析を試みる。

 

 本論

 

(一)火事発生の時点と場所

 

 
北門街及び府前街の火災の被害情形(六谷文一、1915)

それでは、まず火事が発生した時点とその場所について分析する。『表一』の火事の「発生時点」の項目を見ると、1896年から1910年にかけて、いくつかの大きな火事があったことがわかる。これらの火事はほとんどが官公庁や工場施設の失火であり、民家の火事は18966月「北門街並み興仁街大火」の一件にすぎない。しかし、1910年になってから、火事の数は増えはじめる。1910年から1918年にかけての火事記録を見ると、1911年の火事の数は一回であったが、1913年は二回の大火があった。さらに、1917年には年間三回に達している。なお、対象とした30年間の火事記録のうち、1911年から1918年にかけての7年間の火事が七回で、全体の二分の一を占めている。また、「発生場所」の項目を見ると、「北門外街」、「北門街」、「府前街」、「撫台街」、「八甲庄」といった市街地では、火事が繰り返し発生する傾向が見られる。中でも、「八甲庄」では、1918年一年間に三回の火事があり、火事発生の頻度がかなり高いことがうかがえる。すなわち、1910年代になると、台北における火事の頻度は大幅に増加しているが、火事の発生場所はいくつかの市街地に集中しており、火事再発の傾向があることがわかるのである。つまり、1910年代には、火事が起きやすく、安全性に問題がある市街地が台北にあったと考えられる。

 

 
 1921年府前街大火(台湾日々新報社、1921)

(二)火事の被害規模と損害金額

 ここまでは、火事の発生時点と場所について見てきたが、次に、火事の被害規模と損害金額を見てみよう。「被害規模」の項目を見ると、全体の火事記録のうち、191411月の「北門街・府前街大火」が全焼86戸と最も多く、つづいて18966月の「北門外街並み興仁街大火」が全半焼合せて70戸、19217月の「府前街大火」が全半焼13戸であった。これによって、1910年代の台北では、火事がよく起き、被害の規模もかつてないほど大きな火事が多かったことがわかる。

 

 
台北城内に火事がよく出る場所(台湾日日新報社、1911)

しかし、注目すべきことに、被害規模の大きさと損害金額の高さにはズレがある。「損害金額」の項目を見ると、86戸の焼失に至った191411月の「北門街・府前街」が15万円であるのに対して、13戸焼失の損害を受けた19217月の「府前街大火」は、62万円の損害金額に達しており、過去最多であった。火事の被害規模が損害金額の数字に比例しないのはなぜなのか。これに関しては、『表一』の「家屋構造」の項目を見れば、わかる。レンガ構造の家屋の被害は、19217月の「府前街大火」一回だけであり、それ以前のものは茅葺き屋根のある家屋や木造建物などの燃えやすい家屋の被害である。このことから、19217月の「府前街大火」による損害額にもっとも影響力があったのは、被害規模ではなく、家屋の構造や材料であったと考えられる。

 

(三)植民地初期台北の火災における特徴 

以上の分析により、植民地初期台北の都市にはいくつかの特徴があると推察される。これらの特徴を以下に示す。

第一に、1910年代の台北では、火災に弱い市街地が形成されていた。火事の記録を見ると、北門外街、北門街、撫台街、府前街などの市街地では、1910年代になると、火事がよく起きていたことに加えて、いずれも木造の建物や茅葺き屋根のある家屋から火が出ていたことが分かり、危険な地域だったと言えよう。

第二に、家屋の構造の変化によって、台北の火災の問題はさらに大きくなった。台北では1910年代には火事がよく発生しており、しかも最大規模の大火も経験したにもかかわらず、実際に最多の損害額であったのは、19217月の「府前街大火」であった。なぜ以前より被害の程度が低いこの火事が最も損害額が大きかったのかというと、高価なレンガ造りの建物が市街地に出現したからである。したがって、家屋の構造が変化するに伴い、火災の問題もひどくなったと判断できる。

以上述べたように、火災の記録によって台北都市部のいくつかの特徴が捉えられた。それでは、

1922年台北消防の改革に対する決定的要因は、何であろうか。おそらく前年に当たる19217月の「府前街大火」に直接の関連性があると推測される。1921年は台北における火事の損害金額が最多であった。13戸焼失のこの大火を経て、台北消防組は「常備消防人員」の設置に踏み切った可能性が高い。しかし、火事発生の時点と損害額の判断による結果には、まだ疑問が残る。それは、火事が頻繁に発生している1910年代に、台北消防はなぜ何の対策もとらなかったのかということである。これに対する筆者の考えを示したい。台北消防の1922年の改革は、火事の発生率には直接の関連がなく、市街の建築の変化につれ、火事の損害額が大きくなることへの配慮によるのではないか。つまり、台北消防の改革の要因は、台北の都市発展の過程にあると推測される。

 

 

結論

 

本稿では、植民地初期の台北における火事を調査し、それと台北消防の改革に関わりがあるかどうかについて考察した。その結果、1922年台北消防の改革が都市の家屋構造の変化によるのではないかということが示唆された。

しかしながら、本稿は、植民地初期の台北で起きた火事に注目しただけであり、同時期の都市や建築の発展がどのように進められていったのかという点については考察できなかった。

このことを考える際には、台北における都市発展の過程にも注目することが必要になるであろう。これは今後の課題としたい。

 

参考文献

台湾日々新報社(1898)、『台湾日々新報』1898-1925年分、台北:五南出版社復刻、1994-1995

台湾経世報社(1938)、『台湾大年表:明治28年-昭和13年』、東京都:緑蔭書房復刻、1992.

台湾消防協会(1924)、『台湾消防』雑誌昭和9年-昭和16年分、台北:台湾消防協会。