文章表現Ⅱクラス  自由テーマの小論文

明朝中後期の経済と生活

 

美術史学  秦 啓蘭(中国)

 

キーワード: 明朝 経済 奢侈 変化 進歩 

はじめに

明朝は14世紀に成立した王朝である。1356年に、明の太祖、朱元璋は南京を攻略し、元を北へ駆逐し、ついに1368年に明王朝を打ち立て、1378年に南京を都に定めた。1402年に靖難の変で、朱元璋の四男、朱棣が帝位を簒奪し、政治の中心は北京に移った。明朝は1368年から1644年まで、276年にわたって続いた。

明朝は面白い時代である。今の中国に似ていると言われる。この王朝の影響は今日の中国のいたるところに見られる。いわば、現代の基礎は明朝にあると言っても過言ではない。

 

本論

 4世紀も前に当たる明は現代の人々にとって、なじみがない時代かもしれない。しかし、明代に生み出された文物の典型を例としてあげればすぐ「なるほど」と感嘆するであろう。中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。これら、現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、『西遊記』は唐が背景である伝奇、『唐詩選』は唐の文化のピーク、『水滸伝』は北宋のストーリーである)はほとんど明代にできたものだと言える。言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。

 明朝は変化の激しい時代であった。明代中期から、中国の社会構造は新しく変化した。その最も重要な前提となったのは、為政者による経済の活性化である。朱元璋および後継者は、元朝の立ち後れていた社会構成要素を取り除き、農業生産を奨励し、明代の経済を急速に発展させた。この経済の成長がその後の社会変化の物質基礎となったのである。また、明代初期、大規模な人口移動が発生したため、閉鎖的な封建統制が動揺した。

経済的な変化は次の三点にまとめられる。第一に、農業産業の補助であった手工業が独立した産業となり、生産量も大規模になった。第二に、伝統的な農業の経営方法とサービスの対象が集約型、経営型になった。第三に、中国封建社会独自の生産成長が出現した。ここで、着目すべきはこの時期の人々の消費内容の重点が物質面から精神面に変わったことである。例えば、現代でも人気がある中国の古典劇の崑曲は元末明初に顧堅によって創始され、明の嘉靖年間、魏良輔という音楽家によって改良されて、軽やかで甘美な清唱になり、明末清初に隆盛にいたった。祝允明の『猥談』によると、当時江南地域では、家楽(金持ちの家族が抱えた劇団)も流行っていた。

 しかしながら、経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。万歴(万歴元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。つまり、江南地域は他の地域より6070年ほど早かったのである。

 具体的に奢侈が見られる場面は4つである。つまり、「衣」「食」「住」「行」という日常生活の中の人間の行為である。

 まず、「衣」は明初期に素朴だったが、明中後期になると、経済の飛躍的な発展にともない、江南地域の人々は高級な衣料品を求め始めた。夏は薄絹、紗、絽など高級的な絹織物を愛用し、冬は狐、貂などの高価な毛皮を着ていた。綿、麻などは全く眼中になかった。材料の上品さだけではなく、衣服のスタイルもよくなった。「時世装」、つまり流行ファションという言葉も出現した。

 「食」の奢侈傾向は宴会に現れた。明初期には食材にこだわらず、種類も量も少なかった。しかし、明中後期になると、ツバメの巣、フカヒレなどもよく食卓に上った。主人や客は演劇を見ながら、珍味をあじわい、美食を乗せる器にもこだわった。

 「住」では庭園の例をあげたい。明朝は私人庭園が非常に盛んであった。今日、景勝地となっている蘇州の拙政園、上海の豫園などは明朝の傑作である。拙政園は明嘉靖年間に王献臣という役人が造り、豫園は同じ嘉靖年間に潘允端という役人が父親のために18年を費やして造営した。明初期には、役人が庭園を造営することは禁止されていたが、明中期になって、社会経済の発展によって生活が豊かになり、個人造園ブームが沸き起こったのである。

 「行」は交通の意味である。明朝の高級な交通手段は「轎」と「画舫」であった。もともと、轎に乗れたのは高級官吏だけであったが、明中期以降、轎の使用は一般にも普及した。下級官吏だけではなく、一般庶民も使った。「画舫」は華麗な装飾がある屋形船である。当時の役人は通勤・旅行の手段として購入した。

 明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。需要供給原則により、一定の量の商品に対して、欲しい人が多ければ多いほど、価格は下がるので、贅沢品に対する社会的需要が多ければ、贅沢品の価格が下がるのは当然である。最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。庶民は官僚、命婦[1]、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。

 当時の金持ちは経済力を通じて、社会流動を企て、身分の上昇を目指した。一方、家庭の経済力は交際、環境に対する適応に主に表れるので、金がない人も金持ちのふりをしていた。こうして、奢侈の風気はますます強まった。

 しかしながら、奢侈がもたらしたよい面もあった。紡織業、手工業、食品加工業、製陶業、製紙業などの工業に進歩が見られた。江南地域の絹織物業を例としてあげると、生産規模、産業分業、品種、質量などが新しい段階に入った。しかも、機戸[2]と機工の間に、賃金契約関係が成立した。言い換えると、江南の紡織業に中国歴史上初めての資本主義の萌芽が見られたのである。食品加工業、成衣業なども商業化、専門化した。工業のほか、第三産業サービス業でも大きな発展があった。市民に仕事の機会を提供し、庶民に利益を獲得させた。

 

おわりに

 明朝はその後期に大きな社会変化があった。商業経済は大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。それにともない、様々な問題も出てきた。奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。しかし、歴史は仮定できないことである。明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。

 

参考文献

稲畑耕一郎 『図説中国文明史―明・在野の文明』創元社、2006

牛建強 『明代中後期社会変遷研究』文津出版、1997

巫仁恕 『奢侈的女人―明清時期江南婦女的消費文化』三民書局、2005



[1] 命婦:身分のある女性、皇帝から称号をもらった婦人

[2] 機戸:民間で自分の紡織機を持って、紡織業に従事した人々