読解Ⅲクラス  読解感想文

猫の目を通してみた明治時代の社会と日本人の世界観

―『吾輩は猫である』を読んで―

 

宗教学宗教史学  朴 炳道(韓国)

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』は猫の目で見たこの世界を描いている。この世界というのは、明治時代の日本を生きていた日本人の世界とも言えるだろう。この小説の主人公は確かに名前も持っていない猫であるが、猫の話を通して現れる現実は、ただ猫の世界とは言い切れない。その世界の主人公は猫というより猫を養う主人とも言えるからだ。中学校で英語教師として勤めながら、家では一家の家長でもあったこの人物は、この作品の作家である夏目漱石自身をモデルにしたとされている。この点を考慮すると、猫の目を通してみた当時の世界は、夏目漱石が、動物である猫の中に入り込み、自分が生きていた当時の日本を、まるで文化人類学者が見知らない世界を観察しているような観点で、観察している、そういう意味で、民族史ともいえる小説だろう。

とくに日露戦争前後の知識人社会が、この小説の中では猫の目を通し、風刺的にそして多少皮肉に描かれている。猫の主人である先生は言うまでもなく、猫が出会うあらゆる人物がその対象になっている。その中でも先生の場合、彼の行動、言葉のすべてが、猫の目には理解できないほど変なことばかりである。書斎に入り込んで、いつも何かしようとしているが、うまくできることは一つもない。先生として、そして知識人としての体面を重視しているが、それほどの知識はない。家庭の中でも父として、夫として上に立とうとするが、自分の責任とか義務はちゃんと守っていない。猫の目に見える主人という人物は、人間という動物としては面白いが、どうしても理解はできないものである。彼と関わっているほかの人物も同じである。迷亭という先生の友人もいつも嘘をつきながら、それを人生の楽しみにしている変な人間である。こうした人間たちの姿は、普通の人間の目になかなか見えないものだ。人間が人間である以上、同じ種類の動物の言動の特徴はわかり難いからだ。

猫の観点からの話であっても、いつも人間を皮肉に見ているわけではない。人間が人間だから、そして日本人が日本人だから持っている特徴が、猫を通して表面に浮かび上がってくる。たとえば、「愛」という感情と「死」に対する思想がそれである。私がこの小説の中で、もっとも印象的だと思うところは、主人公の猫の愛している三毛子という猫が出てくる場面である。主人公の猫が三毛子の姿を描写している部分は、まるである男が美しい女と初めて出会い、一目で惚れた時に感じるような感情がうまく表されている。しかし、この三毛子は病気になって死んでしまう。「死」ということを知らないこの猫には、愛していた猫の死をどうやって受け止めてよいかがわからない。死を経験したことがないからと猫は語っているが、それは人間も同じである。

人間は死を経験してから人間の人間としての限界を理解する。いつかは死んでしまう人生の真理を。だが、この小説の中で猫はそこまでは考えていない。むしろ、死に対する当時の日本人の考えは、三毛子の主人と下女の対話を通して表現されている。三毛子の主人と下女は、現代からみても不思議に見えるくらい、三毛子の死を悲しむ。そして猫が「浮かばれる」ように戒名と仏壇まで作って念仏を唱える。彼らは三毛子の死の原因が主人公の猫にあると思い、「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事は御座いませんよ」と主人公の猫を呪う。この部分は、当時の日本人の死生観がよく現れているところである。人は死んでからどうなるのか、日本人はこれを「浮かばれる」と表現している。罪がある者でも念仏によって浄土に行けるというのが、江戸時代の代表的な仏教である浄土真宗の思想である。ここで「浮かばれる」ということは、死んでも霊魂が怨みを抱かないで、あの世、つまり浄土に行くことを意味する。 この思想が明治時代でも生き残り、この小説では、人ではなく猫の死を通して現れたのである。

この小説には、ほかにも人間社会と明治時代を改めて考えさせるところがたくさん入っている。夏目漱石は自分自身と人間、そして自分が生きていた明治時代を猫の目で率直に描き、現代でもいろいろな意味で解釈できる作品を残したのである。自分を、自分の世界をそこまで客観的に見ることができたということに、夏目漱石の素晴らしさがあると思う。