文章表現Ⅲクラス  日本的感性

日本人とロシア人の感性

 

美学芸術学  ザベレジナヤ オリガ(ロシア)

 

 感性というのは確かに、私の中の刺激の反響であるため、それを明確にするのは非常にむずかしい。その「感ずる」過程は個性によって違うし、自分の感性についても言えないところがあるかと思えば、他人の感性を我々はどこまで知ることができるかと考えることもある。そして他人とだいたい同じ感性であると思っていても、それを分析してことばで表すのはさらにむずかしいから、感性の哲学にはいつまでも未知の面が残ると言えるだろう。

 それでも、感性をできるところまで考える試みとして一番いい方法は、詩文ではないかと思う。なぜかというと、自分の詩を作る経験からも分かることだが、詩の形はほとんど直接感性から成り立つからである。詩そのものが人間に見えるところで現れてくるのはまずその詩形であり、最終的に私達が読むのは詩の形になった組み合わされた単語の総合体である。が、ことばがどのように結合するかによって詩の価値が決まるため、単に言葉を詩の形(例えば、ロシアの詩の場合は韻の形)にしても、詩にならないことがあるから、それ以上の働きが要求されるのであるが、それこそが感性の働きである。その働きによって内容が成立した瞬間、形も無意識に浮かんでくる。日本の詩もそうであるのではないだろうか。

そうであれば、特に和歌が日本人の感性を小説、音楽などにもましてよく表しているのではないかと思う。和歌から確かに分かってくるのは、日本人の感性の特徴である対象の一体化で、例えば、次の和歌ではそれが明らかである。

  見わたせば 花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ

中世文学の最も有名な和歌の一つであるが、この歌では風景をながめている主体はどこにいるのか分からない。周りの自然と一体になって区別がつかなくなっている。

もう常識になっているアジアとヨーロッパの感性の違いだが、ロシアの詩では主体は周りのものと明らかに区別される。「私」ということばを使わなくても、作者(詩の場合は作者の表象になるが)がとにかく独立した存在として見えてくる。

主体があってもなくても、いずれにせよ、日本の詩もロシアの詩も、その意味ではなく、その気持ち、雰囲気が外国人には完全にはわからないのは、詩が作者の感性をことばにした文であることの証拠ではないかと思う。

よく言われているが、外国語で詩が書けるようになったらその文化が分かったということだというのは本当であると思う。私は俳句を作ることは作れるが、それは5-7-5の形に合わせたことばに過ぎない。日本人もロシア人の詩が大好きだし、それを訳したり研究したりする人も多いが、作れるほどそれをマスターできるのだろうか。その点で、日本とロシアの国民がお互いの感性をどこまで理解できるかという問題は、詩の世界で探っていけばおもしろいのではないかと思う。