文章表現Ⅱクラス  課題に即して書く

サロメ」のテキストとイメージ

―ワイルドのシナリオとビアズリーの挿絵の差異について―

美術史学  陳 藝婕(中国)

 1893年、オスカー・ワイルドのフランス語シナリオ『サロメ』がパリとロンドンで出版された。オーブリー・ビアズリー(Aubrey Vincent Berdsley, 18721898)はこの本を読んで、劇のクライマックスを表現する挿絵(図1「お前に口づけしたよ、ヨハネ」)を描いた。この作品によって、彼は出版業者に才能を買われ、1894年に出版された英語版『サロメ』の挿絵を描いた。   

多くの人々が、ワイルドのシナリオにビアズリーの挿絵がぴったり合っていると思っている。しかし、実際には、シナリオと挿絵から受けるサロメのイメージは大きく異なり、ワイルド自身もこの挿絵に対して非常に不満であった。               

シナリオと挿絵の違いは二点挙げられる。第一に、挿絵では時間・空間が乱れており、一部はテキストとまったく関係がない。ワイルドは「僕の劇はビザンチン的なのに、ビアズリーの挿絵はあまりに日本的だ」と述べたが、ビアズリーもこの点は認めている。例えば、図1で、サロメの後ろのバブルは、日本の型紙「唐草菊」からの文様である。画面のサロメはヴィクトリア時代のしゃれたドレスを着ていており、本棚には18世紀フランスや19世紀イギリスの禁書がぎっしり入っているというように、問題が数多く見られる。

第二に、ビアズリーはサロメの人間像も作り直してしまった。シナリオに描かれているサロメのイメージは、ビザンチン風の弱弱しい王女である。ヨハネを殺したいと思っているが、これは彼女の罪ではない。シナリオでは、最初から最後まで、サロメはどんな権力も持たず、人々の視線に凝視された弱者である。ヨハネを殺し、サロメも殺すという権力は、ヘロデ王に属している。彼女の行いは潔く、ヨハネの罵りは誹謗にすぎない。茫然とした精神状態にいるサロメは、自分の行動をコントロールできない。ワイルドが『ペン、鉛筆と毒薬』で論じているように、美は道徳と関係がない。サロメのイメージはワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』のドリアンと同じように、どんな残酷なことをしても、汚れないのである。

一方、挿絵のサロメのイメージは、シナリオのサロメと完全に対立している。ビアズリーのサロメは、日本風の背景に立ち、気ままに振舞う「女王」のような人物である。彼女は自分自身の意志によってヨハネを殺したがっている。プロットの男性たちはすべて弱化されている。彼女は注視される対象ではなく、他の人を注視している権力者である。つまり、挿絵のサロメは権力を握っており、意志の強い人物なのである。そのイメージは、シナリオより鮮明で、力強い、現代的な女性の姿を表現している。

ワイルドはビアズリーの改竄に怒ると同時に、自分の文章が「挿絵の挿絵」に成り果てるのではないか、すなわち、ビアズリーの挿絵のほうが彼のシナリオより有名になるのではないかと心配していた。

20世紀初期の中国文学界におけるサロメのイメージの受容状況を検討すると、その心配はすでに現実となっている。郭沫若・梁実秋・田漢といった作家たちが、自分の詩あるいは文章の中でサロメに言及する時、題目からイメージまで、いつも挿絵から受けるサロメの印象を表現している。また「中国のビアズリー」と自認する葉霊鳳に至っては、はっきりと自分はシナリオより挿絵のほうが好きだと言っている。さらに、張愛玲の小説『小団円』では、女主人公は空襲の時、『サロメ』という本から挿絵だけをはがして、「西洋芸術の粋」として保存しようとした。

ここで、サロメのイメージの流れをざっと振り返ってみよう。そもそも『聖書』には短い記述しかなく、14世紀までサロメは「ヘロディアの娘」と呼ばれ、母親の殺人道具にすぎなかった。ルネサンス期からバロック期にかけては、リッピやティツィアーノといった画家たちによって、美しく純潔な少女のイメージで描かれた。1841年に書かれたハイネの詩、『アッタ・トロル』では、ヘロディアはヨハネに恋して発狂し、皿の中の頭とくちづけするなど、ワイルドのシナリオと同じ内容がすでに登場している。後に、文章や絵画で、この力強いヘロディアのイメージと彼女の柔弱な娘、サロメが対照的に描かれるようになる。ギュスターヴ・モローの油絵『幽霊』は、その代表的な作品である。モローのサロメは、ビザンチン風の服装やアクセサリーをつけて、遥かな神秘の国で生きている幻想的な存在である。『幽霊』は1876年のサロンおよび1878年のパリ万博で好評を博した。このサロメは、ワイルドのイメージに近いという説もある。 

こうしたサロメのイメージの流れから見ると、ワイルドのシナリオにおけるサロメは昔の伝統と緊密に繋がっており、特別で新たな要素は見当たらない。ところが、ビアズリーの挿絵は逆に、世紀末に誕生する「悪女」、あるいは強烈な自己意識を持つ、独立した現代女性のイメージを表現しており、その鮮明な時代性によって、人々に強い刺激が伝え、シナリオのイメージを覆ってしまった。

以上に述べたように、シナリオを無視した挿絵から、ビアズリーは「いい挿絵画家」だとは言えない。しかし、その創造的なサロメのイメージによって、ビアズリーは「一流の芸術家」として世に認められたのである。

以上に述べたように、シナリオを無視した挿絵から、ビアズリーは「いい挿絵画家」だとは言えない。しかし、その創造的なサロメのイメージによって、ビアズリーは「一流の芸術家」として世に認められたのである。