口頭表現Bクラス  専門について述べる

1011世紀の日本と高麗の関係について

 

韓国朝鮮歴史文化  スミルノフ パベル(ロシア)

 

 今日は私の研究テーマ「1011世紀の日本と高麗の関係」についてお話しさせていただきます。10世紀から11世紀の日本と高麗の関係に対する史料は数が非常に限られています。したがって、その史料の中の情報のみを根拠にして、両国の関係について論じるしかありません。高麗によって作成された資料は『高麗史』だけですし、しかも10世紀の両国に関する記事は一つしかありません。しかし、幸い日本で編纂された記録や日記の数は予想外に多いので、それを使えば、情報の足りない部分を補うことができます。

 この研究の目的は、次の通りです。

1 先行研究の成果に基づいて、高麗と日本の見方ではない第三者の立場から両国の関係を徹底的に考察して分析すること。

2 日本と高麗の関係がロシアの歴史学界ではあまり研究されてないため、現在未知である両国の関係をロシアで明らかにすること。

3 先行研究で注目されていない両国関係の特徴、または研究されてない分野を調査して、修士論文を執筆すること。

 研究方法として、まず、日本と高麗との関係に関する先行研究や論文、日本の平安時代と高麗の紀伝体・日記・歴史書・公文書等について文献調査を行います。次に、文献に記されている情報を収集し分析します。

 私の研究の焦点は、10世紀の日麗関係、11世紀の日麗関係における刀伊と呼ばれる女真族の入寇および高麗の医師派遣要請という三つです。これについて少し詳しくお話しします。

110世紀の日麗関係

 新羅に替わった高麗は918年に成立した後に、外交関係を締結するために牒状を日本に送りましたが、日本の消極的な対応により、高麗との正式な外交関係が築かれなかったと考えられています。しかし、正式な外交関係が結ばれる12世紀以前も、日本と高麗の間では民間交流が活発的に行われていたことがわかっています。すなわち、平安時代の日本の貴族は、九州の大宰府と、その外交上の出先機関である博多での民間貿易には強い関心を寄せていました。これらの場所を通じて、高麗から日本に穀物、漢方薬として使われる高麗にんじん、書籍、日本から高麗へ硫黄、水銀等が入っていました。博多湾にある大宰府に、中国商船と高麗商船が来航し、九州北部に進出する形で両国の交流と交渉が行われていたのです。

 また、多くの日本人が高麗に帰化しました。10世紀に関しては日本人が高麗へ渡った記録はたった一つしかありませんが、11世紀に入ると、このような出来事が増えてきたことが史料から確認できます。

2.刀伊(女真族)の入寇

 1019年、女真海賊が高麗の東海岸を通って、3月末に九州の対馬や壱岐に侵攻し、4月初旬には九州北部に上陸しました。ここで約1280人の日本人が捕虜となりました。しかし、彼らが牛などの財物を略奪して再び対馬や高麗の東海岸での略奪を繰り返しながら本拠地に帰る途中で、高麗軍が元山付近の鎮溟で女真海賊の8艘を手に入れて、捕虜にした日本人の男女の259人を救出しました。その後、高麗人は日本人を介抱し、彼らを日本に送還しました。

3.高麗の医師派遣要請

 高麗国王の文宗(即位:10461083)が風疾にかかったために、高麗は日本に国書を送り、医師を派遣してくれるよう要請しました。この国書は、高麗で外交を担当する礼賓省が、贈り物とともに高麗に往来する日本商人に託して大宰府に送ったものです。この要請に対して日本は、医師を派遣した前例がないこと、また国書で高麗が皇帝の命令を意味する「聖旨」という表現を用いており、外国としての礼儀を守っていないことを理由にし、これを拒否し、贈り物を返却しました。

最後に今日、お話ししたことをまとめておきましょう。10世紀に朝鮮半島に新たに登場した高麗は建国してから、数回にわたって日本と外交関係を締結しようとしましたが、毎回日本に拒否されました。しかし、史料から確認できるように民間レベルで両国間の貿易が行われていたのです。また、11世紀には漂流民の送還問題が発生したため、それを司る両国の官僚も登場します。刀伊の入寇により、高麗に対する日本の警戒心が増したと思われますが、同様に女真族から被害を被った高麗は彼らと戦ったり、捕らわれた日本人を救出して日本に送還したりしました。さらに、高麗の医師派遣要請の件に関しては、両国の冷静な立場が確認できます。

以上で、私の発表を終わります。ありがとうございました。