文章表現Ⅱクラス  自由テーマによる小論文  

技術美について

 

                               美学芸術学  劉  佳(中国)

 

要旨

 本稿では技術美について検討した。方法としては、技術と芸術および技術美と芸術美と自然美とを比較した。その結果、技術美が自然美を基礎とし、また効能的力動美をその本質とすること、芸術美は技術を模倣するための付随的位置にあるということが明らかになった。また、効能的力動美は技術の内在的構造として生じるもので、更に言えば、これは一種の精確性及び規律性であることも分かった。 

キーワード 技術美 力動美 精確性 規律性

 序論 

 技術と芸術の概念、及びそれらの関係は美の種類に影響を与える。技術が発達するにつれて、元来の自然美と芸術美の他に、新たな技術美が加わってきたことが注目される。技術美の本質とすべきものはその効能的力動美だろう。そこで、本稿では、技術美を考察し、その効能的力動美とは何かについて論述する。まず、技術と芸術を比較し、次に技術美と芸術美と自然美を比較する。

 本論

  古代ギリシャでは「技術」という概念は“techne”と呼ばれ、その中には「芸術」の概念が含まれていたが、現代英語の technology”という語は「芸術」とは区別され、独立的に「技の術」の意味で用いられる。技術は自然に対する加工や操作という、人間の基本的な行為と結びつく。ここでいう「技術」とは建築や工業デザインなどを指しており、その結果は対象に対する改造及び新商品の制作を意味する。  「芸術」は古代ギリシャ語において“ars ”と言い、すべての職人活動を指していた。また古代中国の伝統的「六芸」[1]も芸術と技術を同一にとらえている。ダ・ヴィンチは「芸術は自然の鏡だ」と考えていた。すなわち芸術は自然の再現であり、自然を模倣した産物であった。しかし、現代表現主義が現れた後、自然に対する態度は一変し、例えばクライヴベルは「芸術は意味深い形式だ」と主張している。
 科学は自然の真理の探索であり、芸術及び技術を包含しているが、現代中国の発展時期においては、それは「科学技術」と狭義的に定義され、「科学技術は第一の生産力」と考えられていた。このことが技術の作用を拡大した。言うまでもなく、外在目的を達成する手段として、または有用性あるいは効能的合目的性を実現しうることから、技術はすでに産業革命以来一種の社会的主流になっていた。蒸気機関の出現後、人間の生活様式は変貌し、個々の選択の自由が増加した。生産性が向上するにつれて人間はより多くの余暇時間を獲得し、人と人との交流の範囲も一層拡大してきた。こうして自らの効能性を通して人間の生存需要を満足させたことが、一種の審美需要と誤解されたのである。また効能という唯一の技術本性の特性だけで他の一切を代替できるのかという疑問も生まれた。
 今日に至って、技術はその強大な生命力で主導権を握るようになった。その魔力は人間の創造精神に由来し、人間の創造的発明に適応してきたが、人間の知力の発展が相対的に滞ったため、人間と技術との交錯状態に陥り、人間の意識に従って発展することはできなくなってしまった。
 それでは、美とは何か。プラトンは、「美は難しいものだ」と言っている。そのため、ここではあえて討議しないことにする。
 次に技術美と芸術美と自然美との関係を見てみよう。
 日本現代美学家竹内敏雄は『塔と橋:技術美の美学』の中で「技術美」という概念を確立し、自然美と芸術美とを区別した。
 自然美及び芸術美は美的体験の構造においては、相通ずるところがある。それに対し、技術美はその使用対象は自然の材料であるが、人為的な成分が必ず加わるため、人工物である。また、芸術的要素も加わるが、実用品として使用されるため、自然美と芸術美と技術美との区分の基準は主題によって解釈されてきた。
 自然の産物は、人間にとっての使用対象であり、効能的価値があるが、価値があるかどうかに関わらず、それ自身は美である。それ故に、効能だけが自然美の本質要素ではなく、人類の発展と共にあるが、独立性を持つ。それに対して、技術美は使用という目的を持っており、技術の付属品である。効能の合目的性こそが技術の本質及び追求すべきものであり、それは技術美の本質ではない。そして、技術美の本質とは効能的力動美のことであり、従って、効能を有しない技術もしくは時代遅れの技術は一種の無用的技術美になるだけである。建築を例とすれば、芸術史の発展は建築の時代、彫刻の時代、絵画の時代を経て、建築に戻った。建築は人間生活に必要な技術であり、その美は内在性的表現にあるのではなく、形式が比例及び対称の規律に従うゆえにある。技術は直接に感性的現象として表現されると同時に、審美的対象として注目される。従って、技術美は合目的性だけにあるのではなく、効能性を含む力動的表現にある。
 力動美は技術自体に内在するもので、芸術的内在性及び自我目的性を有している。例えば、分子の内部構造は、それ自身が審美価値を持つ一種の形式序列を有するが、これは完璧な構造で、変動しないものである。技術の内在構造が力動美をつくり出しているというよりも、むしろそれ自身の精確性及び規律性だろう。例えば、ソニーが生産した電子商品はその精確性が重要であり、個々の部品がその存在する価値を有し、効能性を達成する。精確性を持っている故に権威性があり、人間の審美的愉快感になりうる。西洋近代芸術は科学の上に成り立つものだが、「数の神秘主義」を規則とし、精確的「黄金分割比例」を用いて美的芸術を創造する。同様に、精確性を有している技術もその美を表現できる。同時に、それも物理、人体工学及び審美の規則に対応するのである。例えば、キーボードの位置や大きさや色や効能など、客観的規律に応じている。その規律性、すなわち自然的規律はリズム及び音楽性を表現している。万物が規律に応じ、自然も自然それ自身が存在すべき規則に適応している。芸術はその造形および色の規律に応じ、各自の領域のうちの規律性に応じて初めて美が生じる。美とは何か。美とは調和である。技術美もかかる調和の基礎上に形成される。
 だが、本質の効能的力動美を有することだけが技術美のすべてとみなすことはできない。技術美は自然美及び芸術美の側面もしくは要素を含んでおり、単純な複合ではないだろう。
 産業革命後、蒸気機関、鉄道、船及び工業製品がマーケットに出現したが、そのデザインは相対的におくれをとっていた。芸術家がまだ工業製品に参入していなかったためである。工場のオーナーは単純に生産ライン、生産質量及び利潤を追求した。
 このような背景のもと、ウィリアム・モリスは「アーツ・アンド・クラフツ運動」を発動し、「本当の芸術」の追求を目指した。彼は機械美学に反対した。1851年にロンドンの水晶宮で第一回万国博覧会が開かれた。水晶宮はイギリスの建築家ジョセフ・パクストンが鉄骨とガラスで設計し、作られた巨大な建物であり、効能的力動美を表現していた。展覧後、ジョン・ラスキンは芸術と技術を結びつけるべきだと主張した。技術の発展が審美意識を技術化し、芸術は以前のような自然の模倣から技術の模倣に変貌したのである。例えば、ある中国の現代芸術家は化学分子の構造を描くことで効能的力動美を表現する。現代メディアアートの発生及びその発展も技術のおかげであろう。
 今日、技術美は以前のように芸術美と同一のものから、今日の工芸芸術の一部に見られるように、独立して同時に自然及び芸術美を兼ね備えたものまで、さまざま見られる。私見を述べれば、技術美は自然美及び芸術美をともに持つべきである。ただし、自然美が技術美の基本的な美であろう。技術美においては技術が主導であり、芸術美は技術の模倣であるがゆえに、一種の付属的な美であると言えよう。

 結論

 本稿では、技術美について検討した。その結果、技術美は効能的力動美をその本質とし、自然美を基礎とするもので、芸術美は技術を模倣するため付随的位置にあるのではないかということが表示された。
 しかしながら、技術が客観的な人類の技能として人間を超えるか、その場合も、技術美としてまだ存在するのかという問題については考察できなかった。
 これらを考える際には、現代アート及び美についての新たな観点にも注目することが必要になるだろう。これは今後の課題としたい。

 参考文献: 竹内敏雄(1971)『塔と橋:技術美の美学』文堂

本雅明著王才勇(2006)《机械时代的艺术作品》人民出版社

Herbert Read(1956) Art and Industry: the principles of industrial design London:Faber


[1]「六芸」は礼、楽、射、御、書、数のことであり、『周礼』には士に必要なものと規定され、中国の古代芸術思

想に大きな影響を与えた。