文章表現Ⅱクラス   自由テーマによる小論文  

日本におけるハムスン文学の受容

 

中国語中国文学  徐 暁紅(中国)

 はじめに

2009年、クヌート・ハムスン(1859-1952)の生誕150周年を記念するため、ノルウェーにハムスン・センターが正式にオープンし、彼の肖像付きの切手や記念銀貨の発行、文集の出版などといったイベントが盛んに行われた。この年をノルウェーの政府は「ハムスン年」と名付けた。

 日本では、ハムスン文学は読者のみならず、文学研究者からも次第に忘れ去られつつあるのが現状だが、明治時代においてはドイツ文学研究者によって盛んに翻訳・紹介されており、昭和初期までに数多くの代表作が訳出されている。当時、ハムスンは「私小説」、「身辺小説」、「抒情散文詩」の名家として高く評価され、その独特な文学的センスは林芙美子、平林たい子等の作家に示唆を与えた。また、文芸誌『国際戦線』に、ハムスンが「世界左翼文化戦線の人々」の一人として挙げられたこともあり、『飢え』をめぐる熱い議論が行われたこともある。

詩趣に富む文体や、近代産業文明に対する批判意識など、ハムスンの作品は今日でも読むに値するところがある。ハムスン文学はなぜ忘れ去られたのか。小論では、ハムスン文学の受容のプロセスを辿り、ハムスン文学およびその研究の衰退の背景を探ることにする。

 一、ハムスンの生い立ち

ハムスンは185984日、ノルウェーのグードブランズダール州のロムという、陽光にあふれた山間の農家に生まれた。極めて食欲が旺盛であり、兄弟の中でも一番の体力と健康の持ち主であった。4歳のとき、親と一緒に欧州の北国と言われるノルトラントに移住し、この地方の自然と人事より深い印象を受けた。8歳の頃から数年間、小売店の叔父のところに寄食し、苛烈な労働に追われていた。食堂や墓地などを好み、外界の刺激に対して最も感じやすい、反応の鋭敏な神経を持っていた。荒涼たる自然の中で、当時の生活を詩趣豊かな筆で描写した「ノルスク・ファミリイ・ジゥルナル」を書いている。17歳で靴屋の弟子となり、ビョルンソンを模倣し、多くの試作を書いた。1877年に長詩『再会』、貧しい農家の孤児の物語『ベルゲル』(Berger『謎めくもの』)を自費上梓したのが第一作となる。生計をはかるため、1882年にアメリカへ渡り、販売員、車夫などいろいろな職業を転々とした。後に帰国し、長篇論文「近代亜米利加の思想界」(「Fra det modern Amerekas aands liv,1889」、宮原晃一郎訳は『近代亜米利加の精神生活より』)を発表。1890年、友人の助けで、デンマーク文芸誌に「飢え」を発表。後に単行本を出して一躍作家の仲間入りをした。後年、『神秘』、『パン』、『ヴィクトリヤ』(Victoria)などを出版。1898年には、半農民生活を送り、夢想と創作とに耽り、戯曲三部作も上梓した。1920年に、『土地の恵み』を以てノーベル文学賞を受賞したが、第二次大戦時にノルウェーの作家でただ一人ナチズムに協力したことが原因で、戦後はその罪を問われて「売国奴」の汚名をうけた。また、戦争裁判にかけられ、財産も没収されるが、老齢のため刑を軽くされた。精神病院で孤独な看守生活を送り、国民の支持を失って、1952年5月5日に自宅で亡くなった。

ハムスンは70年ほどの創作歳月を送っており、長篇小説22部、短篇小説3部、詩集1部、戯曲6部、エッセー集4部、自伝1部などの作品が残っている。『飢え』、『パン』、『ヴィクトリヤ』は作品を基に数回にわたって映画が製作された。ハムスンはロシア、ドイツ、フランス語圏で「モダニズム文学」の祖と見なされている。

 二、ハムスン文学の紹介・翻訳

日本では、ノルウェー文学は一つの独立した文学ジャンルとなっておらず、最初はドイツの文学の中に収斂され、紹介された。日本の作家は、ドイツへの留学をきっかけに初めて北欧文学に触れるチャンスを得、その清純な牧歌性、浪漫精神、理想主義などの独特な魅力に感動したという。石上玄一郎の指摘によると、森鴎外もドイツ留学の折に、新進作家ハムスンの名前ぐらいは耳にした[1]という。当時、鴎外はオーストリアの作家シュニッツラーに関心があり、翻訳活動を精力的に行っていたが、そもそも、シュニッツラーの師匠はハムスンであり、鴎外のシュニッツラー文学への関心から見れば、間接的にハムスン文学への触発もあっただろうと考えられる。

もう一つの北欧文学の受容は、日本国内にいるドイツ文学研究者を通して行われた。ハムスンの作品は自国での出版とほぼ同時にドイツ語訳がすぐ出回るほど人気があった。そこで、日本のドイツ文学研究者がドイツ語の重訳本を通じてハムスンを知り、関心を持ち始めた。その一人は片山孤村(別称、片山正雄)である。彼はハムスンの文壇デビュー作『飢え』をドイツ人アルベルト・ランゲンのドイツ語訳から日本語に重訳し、後に『早稲田文学』(1909)『飢え』の梗概、「『飢え』の詩人――ハムスン」として発表した。

下宮忠雄が「わが国における北欧語北欧文学研究」[2]で述べているように、北欧文学への関心は、独語独文学の分野において、語学的立場から寄せられた。北欧原語から読む傍ら作家業を行っているのは宮原晃一郎である。日本で初めてハムスンの作品をノルウェー語から訳出し、先駆的な功績をつくった一人である。大正10年、新潮社から出された「泰西最新文芸叢書」に収録されている『飢え』は彼の最初の訳書である。宮原訳の『飢え』は中国上海の日本人内山完造の経営する書店「内山書店」にも置いてあり、魯迅も購入した[3]ことがあったとされ、その影響力は決して小さくはない。

  三.日本の作家とハムスン

 大正、昭和初期は、ハムスン翻訳の全盛期であった。ハムスンが一躍脚光を浴び始め、『飢え』だけでも少なくとも5種以上の翻訳版本が出回っている。その頃、ちょうど日本では自然主義文学が流行しており、ハムスン文学に現れる「退嬰的思想」に日本の自然主義との共通点が指摘できる。

さらに、1920年にハムスンがノーベル賞文学賞を受賞したのをきっかけに、『新潮』などの文芸誌でハムスンの紹介が多数なされた。柴田勝衛はハムスン文学を三段階に分けており、それぞれの特徴を述べている。ハムスンの受賞作『新しき土地』に現れる「文明の文化的価値に極度の疑問を投げかけている」[4]とに同感し、称賛をおくっている。

昭和期に入ると、単行本、北欧作家選集、近代劇選集、世界文学選集など、さまざまなシリーズものにハムスンの作品が所収されるようになり、広く読まれていることが判明する。芥川龍之介は当時ハムスンの『飢え』のドイツ語訳を手にとって読んだことがあり、ハムスンを「食欲の中から詩を発見する作家」[5]として称賛した。また、書簡、エッセーのなかでもしばしばハムスンに言及したことがあるが、崇拝の気持ちのあらわれであると言えよう。

新潮社から出た「世界文学全集」の『北欧三人集―ハムスン、ラーゲルレー、ビュルンソン』は世の中の大きな注目を浴びた。林芙美子はこれを読みあって大きな刺激を受けたというが、『放浪記』は直接にその刺激から生まれた作品であろう。

ところが、昭和後期に入ると、北欧文学の研究と紹介は中断された。その原因の一つは、関東大震災を境にした日本の思潮界の激変によって、イプセン、ハムスンらを中心にした北欧文学の個我の追求がほとんどその意味を失ったこと、また一つはその頃顕著になってきたヨーロッパ文学の翻訳における原語主義というべきものの成立であろう。それで、重訳によってでも北欧文学を紹介しようとすることがなくなり、それにふさわしいだけの翻訳も研究も行われなくなった。

  四.現在のハムスン文学の研究状況

  そして現在、北欧語北欧文学に関する学科の日本の大学への設置も少ない。管見の限りでは、東海大学のみが北欧文学専攻を設置している。このような環境が恐らく日本での北欧文学研究が進まない第一の原因であろう。研究が進まないことで、紹介も持続的系統的になされず、英米独仏等の文学と比べて文学の持つ重みが相対的に弱くなる。また、北欧関係の雑誌は種類も少なく、『北欧』しか見当たらない。これらが現在ハムスン文学の研究が不振であることの原因として考えられる。

 それに比して、隣国の中国においては、ハムスンの恋愛小説『パン』、『ヴィクトリア』などは一般読者にも人気があり、民国期から現在までに数種の訳本が出回っていることが興味深い。また、ハムスン文学をテーマとする学術論文も近年増えつつある。2009年にはハムスン生誕150年に当たり、『ハムスン文集』四冊がもっとも権威的な人民出版社から出された。また、同年外国学院北欧文学研究者の第一人者である何成洲氏の力で、南京大学に「北欧文学センター」が設置され、オスロ大学との連携でハムスン文学の国際シンポジウムも開かれた。残念なのは日本からの参加者がいなかったことである。また、日本においては2009年にハムスン関連の記念活動は一切行われなかった。

  おわりに

ノルウェーの作家、ハムスンの文学の魅力は数え切れないほど多い。今日の世界文学の名著においてもハムスン作品は一席を占めると言っても過言ではない。しかし、具体的な作品分析は別稿に譲りたい。

今後、日本に留学した中国人留学生が、もし比較文学の視点からハムスンの中国・日本における受容を研究テーマとしたら、遣り甲斐があるだろう。少なくとも、ハムスンを日本の一人でも多くの人たちに紹介するチャンスになるだろう。



[1] 石上玄一郎「ハムスンと私」、『世界文学全集31』(学習研究社、1978年)43頁を参 照。

[2] 『近代文学』1949年第11月号に掲載。

[3] 何成洲『対話北欧文学』(北京大学出版社、2009年)135頁を参照。

[4] 「世界文壇の大勢と日本文学の現状」、『新潮』第38巻第5期、1923年5月。

[5] 『芥川龍之介全集』(筑摩書房、1971年)332頁を参照。