文章表現Ⅱクラス   自由テーマによる小論文  

自殺について

―デュルケムの『自殺論』と宗教的視点に基づく考察―

宗教学宗教史学  金 大榮(韓国)

0.序論

厚生労働省の人口動態統計によれば、日本では、1998年から2010年までの年間自殺者数は3万人を超えており、一日に約100名が自ら命を絶っていることがわかる[1]。また、私の母国、韓国はOECD加盟国の中で自殺率1位を占めるほどで、韓日ともに自殺が大きな社会問題となっていると言えよう。

そこで、本稿では自殺をテーマとして取り上げ、微力ながら問題の解決に貢献したい。ここでは、社会学の巨匠であるデュルケムの『自殺論』およびさまざまな宗教を通して、自殺について考察する。  

自殺はよく個人の問題、精神的問題(うつ病など)として扱われる。しかし、デュルケムの『自殺論』の特徴は、自殺を明白に社会と人間関係の問題と捉えている点である。人間が社会活動をする以上、自殺を社会的問題から切り離すことはできないとするのである。

宗教もまた、一般に個人信仰の問題、霊的問題として、個人の自由により選択・決定したものと思われているようである。しかし、宗教は単に個人の信仰というだけではなく、そのほとんどが信仰共同体という社会集団を背景に持っている。

研究方法としては、まず、社会の状況・環境要因が自殺に深くかかわっているとするデュルケムの理論を通して、自殺の原因と理由を考察する。ただし、紙幅の関係から、デュルケムの理論に関しては、その特徴を述べるにとどめる。次に、社会とは切り離せないさまざまな宗教における自殺に対する見方を述べ、最後にそれらを基に私見を述べたい。

1.デュルケムの理論の特徴

多くの古典がそうであるが、古典には独自の特性がある。その特性は、一般常識とはかなり異なる視点を持つものである。デュルケムは、自殺を捉える際、自殺の当事者である個人ではなく、自殺統計と社会環境から捉えようとする。

このような彼の研究方法は、自殺に関する定義にも表れている。彼は「死が、当人自身によってなされた積極的・消極的な行為から直接・間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」のである[2]。これによると、自殺は死のうとする‘自らの意志’というものがなくても、自殺と名づけられることになる。すなわち、デュルケムは、自殺は個人の意志とは関係がなく、社会環境による問題だと考えていた。

それでは、なぜデュルケムは、自殺を社会問題と捉えたのか。彼は、社会というものは、客観的なものでありながら、主観的なものでもあると考えていた。社会を客観的にとらえることはそれほど難しくはない。たとえば、人口密度、死亡者数、出生者数、一人当たり年間所得など、社会を客観的指標によって捉えることができる。しかし、これと区別される主観的社会は、そう簡単には捉えられない。『自殺論』を訳した宮島喬の表現をかりると、主観的社会は‘生きられた生活’である[3]。社会のなかで、生きていきながら感じること、たとえば、上司との人間関係、政府に反する感情など、主観的に経験されることは主観的社会と言ってよいだろう。この主観的に経験される社会、その社会が人々に与える意味こそデュルケムにとって、非常に重要であった。したがって、デュルケムは自殺のような社会問題をとらえる際、社会環境と個人との関係から把握しようとしたのである。

デュルケムによると、自殺の原因は四つに分類される。利己的自殺、利他的自殺、アノミー自殺、宿命的自殺である。박병철<バクビョンチョル>は、デュルケムの自殺理論は二つの次元に基づくと述べている。社会的統合(integration)と社会的調整(regulation)がそれである[4]。社会的統合とは、社会の構成員が自分の住んでいる社会にどれだけ根付いているかである。根付きの程度が低い場合は、利己的自殺が、逆に高い場合は利他的自殺が発生する。社会的調整とは、社会構成員の欲求や欲望が社会規制や法則にどれだけ抑制されているかである。調整が低い場合はアノミー的自殺、逆に高い場合は宿命的な自殺が行われる確率が高い。デュルケムはこの四つの分類を通して、社会と個人の関係から、自殺を捉えている。

 2.宗教の視点から見た自殺

それでは、次に宗教における自殺の捉え方について考察する。一般的に「宗教は自殺を正しい死の行為とは認めておらず、神に反する行為、すなわち正しくない死として捉えている」と考えられている。しかし、場合によっては、ある自殺をすばらしい行為と認めることもある。実は、それぞれの宗教は自殺に関して、さまざまな視点や態度をとっているのである。なぜ、このように多様な自殺の捉え方があるのだろうか。そこにはいかなる理由があるのだろうか。

一般的に、宗教が自殺を罪もしくは罪悪と規定していると考えらえているのは、西洋のカトリックの影響だと言っても過言ではない。カトリックははっきり自殺を罪だと言っている。自殺の当事者がどんな環境におかれているにせよ、自殺は罪だと考えている。それは、カトリックの唯一神教的生命観とつながっている。人間の命は神に任されており、死ぬことも生きることも神のご意志によるとする。だから、自殺は命を主管する神に反する行為であるということになる。

しかし、同じく唯一神教的生命観を持っている宗教でも、ユダヤ教では、自殺を罪悪とまでは考えていない。しかも、世界の多くの宗教で、人間の生命は天()によって与えられているとされているにもかかわらず、カトリックのように自殺を罪と捉えている例はむしろ珍しい。

それでは、カトリックにおける、自殺=罪であるという教義はいつできたのか。そして、なぜ罪としたのか。理由はいろいろあると思うが、歴史的状況を見ると、中世初期には、命をかけてキリスト教を伝えた殉教者たちの情熱はすでになく、また来世(天国)に対する熱望も失われてしまったため、殉教と自殺を区別し、自殺を罪と捉えはじめたようだ。その時、あの有名なアウグスティヌスは十戒の第6に当たる‘殺人を犯してはいけない’に基づいて、自殺も十戒に違反する行為だとした。その後、西暦452年に、自殺は神権に対する挑戦であり、神権の剥奪であるという教義になった。このような特殊な状況から、自殺=罪ということになったのである。

それでは、他の宗教では自殺をどのように考えているのだろうか。大変興味深いことに、自殺を罪悪・正しくない死ではなく、より優れた死、聖なる死として追求する傾向もある。宗教史を振り返ってみると、このような宗教は決して少なくない。こういう自殺はデュルケムの表現に従えば、利他的自殺と定義される。

宗教的な利他的自殺は김윤성キムユンソン>によると、自己犠牲、治命守志、求道的自殺の三つに分類される[5]

第一は、自己犠牲は、あらゆる宗教が求めている愛と慈悲の実践である。たとえば、プロテスタントでは、イエスによる人類の罪をあがなうための死は今日も信者たちの模範となっている。また、仏が飢えている虎のために、自分のからだ身体を食わせたという逸話も慈悲行為として模範とされている。

第二は、治命守志である。 治命守志は‘恥を避け、名誉を守る’ことが核心である。たとえば、儒教には、恥ずべき人生を過ごすよりも、死を通して名誉を守る「殺身成仁」という精神がある。また、日本の武士道には、切腹がある。切腹はまるで静謐な宗教儀礼のように、森厳で厳粛な雰囲気で行われ、高度の美であるように見える。儀礼化した切腹は、空しい生とはかない死に対する日本特有の死生観と自殺観を‘生の完成’にまで引き上げた美と言ってもよいだろう。

第三は、求道的自殺である。宗教では道を求めるために、自分を極限な状況に置き、それによって死に至ることがある。たとえば、インドの修行者たちは悟るために、わざわざ飢えたり、雪山に登ったりしたが、結局、飢えて死んだり、凍え死んだりした。

このように考えると、宗教には多様な死生観があり、宗教や社会、場合によって自殺に対する捉え方が異なるということがわかる。自殺を罪悪と捉える場合、最高の聖なる行為と捉える場合など、自殺に対して同一の観点を持っているのではないということがわかるであろう。罪悪になる場合も、聖なる行為になる場合もあるのである。ただし、こういう類型は正確ではないし、人為的である。しかし、こういう類型を通して、自殺に対する宗教的な態度がわかりやすくなる。その宗教が置かれた状況・環境・地域や社会によって、いかに異なるかを理解することによって、自殺に含まれる複雑さを少しは解くことができるのである。

 3.結論

以上、本稿ではデュルケムの自殺論の特徴と宗教の多様な死生観から自殺についての考察を試みた。

デュルケムは、社会学の巨匠として知られているが、宗教社会学者としても、彼の存在感は大きい。彼が西洋の宗教と近代社会の関係を明らかにした成果が『自殺論』(1897)である。デュルケムは、後に人類社会全般から宗教が持つ位置を明らかにしようとした野心的な考察として『宗教生活の原初形態』(1912)を著わしてもいる。本稿においてまずデュルケムの『自殺論』を取り上げたのも、彼が宗教とも密接なかかわりを持つからである。

デュルケムの『自殺論』より、自殺は単に個人の問題ではなく、社会と個人の関係の問題として捉えるべきことがわかった。また、宗教では、多様な環境と状況において自殺に対する態度が形成されるということがわかった。とくに、地域や時代という特殊な社会要因が大きくかかわっている。これらを考察した結果、自殺は単に個人の問題ではなく、複雑で多様な要因がかかわっていることが明らかとなった。したがって、自殺を捉えるには個人から社会へと目を移し、また、個人と社会の関係に目をむけることが大切である。

今後の課題は社会問題として自殺をさらに詳細に研究し、そこに含まれる宗教的な死生観・態度を明らかにすることである。韓日の自殺率の実態把握、両国の自殺観の考察を近・現代の宗教を通して試みたい。

近年、特に韓国では自殺率は急増し、芸能人、故大統領など有名人が次々と自殺し、社会は情緒不安に巻き込まれている。こういう状況だからこそ、自殺の原因を明らかにし、対策を立てることが大事であろう。自殺の研究を進めることで、少しでも社会に貢献できることを願っている。

  参考文献

日本語文献:  デュルケム、『自殺論』、1897、 宮島 喬訳

宮島 喬、『デュルケム「自殺論」を読む』、岩波セミナーブックス291989

阪本俊生、『デュルケムの自殺論と現代日本の自殺』、2011

 

韓国語文献박병철자살의 사회적이해(自殺社会的理解),한국자살예방협회(韓国自殺予

防協会),2008p96

김윤성、「자살은 죄악인가 미학인가(自殺罪悪なのか、美学なのか)」、『종교읽기의

자유(宗教読みの自由)』、청년사p362~363



[1] 1989年から1995年までの7年間は自殺者数が約2万人で、両者の間にはかなり大きい差があるというのがわかる。これが社

会問題として、話題になる理由である。

[2] デュルケム、『自殺論』、1897、訳p22

[3] 宮島喬、『デュルケム「自殺論」を読む』、岩波セミナーブックス291989、p7

[4] 박병철자살의 사회적이해(自殺社会的理解)』、한국자살예방협회(韓国自殺予防協会)2008p96

[5] 김윤성、「자살은 죄악인가 미학인가(自殺罪悪なのか、美学なのか)」、『종교읽기의 자유(宗教読みの自由)』、청년사p362~363