口頭表現Bクラス  専門に関連のあるテーマによるスピーチ

坪内逍遥の紹介

 

現代文芸論  マヤ・レンチョフスカ(ポーランド)

 

 皆さんこんにちは。今回は、自分の研究分野、文芸についてお話ししたいと

思い
ます。私が特に興味を持っているテーマは二つあります。第一は演劇で、

第二は
(いわゆる欧米諸国との関係やお互いの影響です。ですから、この発表

のトピック
を選ぶに当たって、坪内逍遥という日本の学者を選択しました。今

日は逍遥の生活
や遺産をご紹介させていただきます。どうぞよろしくお願いし

ます。

このスライド(省略)をご覧になると、坪内逍遥について二つの大事なこと

が分
かると思います。最初は、逍遥が生きていた時代(18591937)に関する

ことです。

日本の歴史においてとても大切な明治時代でした。この時代の日本人たちは自

分た
ちのアイデンティティについて様々な質問を持ち、その答えを探していた

と考えら
れています。坪内逍遥は、この「アイデンティティ・クライシス」に

対して、非常
に落ち着いた態度をとったと思います。スライドの二つの写真か

ら、それがわかる
でしょう。左には、伝統的な着物を着ている逍遥がいて、右

には欧米風の洋服を着
ている逍遥がいます。まるで違った人間のように見える

でしょう。この
二元性は私にとってとても興味深いものです。

今日の発表は、逍遥の少年時代、大学教授時代、重要な作品、逍遥に対する

評価、
の順に従って行います。

まず、坪内逍遥をよく理解するために、彼の出身地と育った環境について、

少々
説明させていただきたいと思います。逍遥の本名は坪内雄蔵と言いました。

生まれ
た町は大田宿という、現在の岐阜県にある小さい町でした。岐阜県の位

置は右の地
図をご覧ください。この写真には坪内兄弟が写っていて、逍遥はこ

こにいます。ご
覧のように、伝統的な家族でした。逍遥はそんな、伝統的な教

育を受けて、日本の
歴史や昔の文学を大切にした若者だったそうです。

やがて、逍遥は東京大学に入学し、新しい教育も受けました。その後、東京

専門
学校という学校で教授になりました。この学校は、1902年から皆様がよく

ご存知
の、早稲田大学になりました。逍遥は大学で様々な活動をしました。

『早稲田文
学』という雑誌を創刊して、「文芸協会」という演劇サークルも始

めました。こち
らの写真に「文芸協会」のメンバーたちがいます。この人たち

の中からは、後に、
有名な俳優や演劇監督たちが出てきました。

次に、皆さんに紹介したいのは逍遥の最も重要な作品です。第一は『小説真

髄』
というエッセーです。これは新しい日本の小説を書くルールを作ろうと思

った逍遥
の宣言でした。第二はウィリアム・シェイクスピア全集の翻訳です。

1874
年に、
「ジュリアス・シーザー」を翻訳しましたが、逍遥はシェイクスピ

アの日本語翻訳
を最初に行った人物でした。1932年に完成したシェイクスピア

全集の翻訳は本当
に素晴らしい成果だと思います。

このように、明治時代に生まれた逍遥は日本の演劇史や文学史にとって不可

欠な
人物でした。他の明治文学者と比べると、逍遥は日本の伝統的な舞台芸術

の重要さ
がよく分かっていたと言えます。その上、日本で最初にシェイクスピ

ア劇を翻訳し、
日本にさまざまな演劇のスタイルを紹介して、演劇を新しい時

代に進ませました。
そうした理由から、彼は演劇界の革命家と呼ばれるととも

に、保護論者とも呼ばれ
ています。

現在、早稲田大学にはエリザベス朝の劇場のような建物に、坪内逍遥の演劇

博物
館があって、日本人によく知られている、この「保守的な革命家」の作品

やアイデ
ィアが保管されています。いつか時間があったら、ぜひこの珍しい博

物館を見学し
ていただきたいと思います。

これで、私の発表を終わります。ありがとうございました。