読解Ⅲクラス  「接吻」

大人と子供の境界線

―イノセンスに守られたかどうかについて―

 

現代文芸論  邵  丹 (中国)

 

三浦哲郎の短編作品「接吻」を読んで、一番面白かったのは「キワ」という東北の田

舎の女の子が大人の都会である東京を見るという視線だ。ロシアのフォル
マリズムに

よると、文学というのは我々が慣れ親しんだものを異様なものにする
ことで、我々の認

識を刷新する。まさにその通りで、子供のキワちゃんが見てき
た「東京」の異様さこそ

が、この物語の魅力である。

そして、全編を通してキワちゃんに関する直接的な描写が少なく、他人との会話や

方言などをリアリスティックに描くことによって、東北の田舎から来た世間
を知らない

純朴な少女像が自然に浮き上がってきた。小説の行間から、キワちゃ
んが両親に捨

てられた子であることや、東京に出稼ぎに出ているお父さんが、家
族を捨て、愛人と

共に暮らしていることなどが分かる。大人の目からみれば、一
つの家族の崩壊であ

り、残酷なことだが、キワちゃんの目からみれば、その残酷
さが薄れてゆき、一種の

不思議ささえ帯び始めるのである。どうやって子供の目
に、元々残酷であるはずの現

実がそんな風に映ったのだろう。それは子供がまだ
「イノセンス」によって守られてい

るからだ。特に、田舎の子供は今時の都会の
子ほど敏感ではなく、まだ素朴のままで

いられる。「イノセンス」はまさに境界線
となって、子供と大人の各自の領域を定めた。

そして、言い方は違うが、欧米の
「イノセンス」は中国の「童心」、日本ではたぶん「無

邪気」に等しいかもしれな
い。つまり、「イノセンス」の概念は世界共通なのだ。

そもそも「イノセンス」はどこから生じたのかと問うと、それは子供の世界認識がま

だ不完全であるところから生じたものだと私は推察する。白紙同然の子供
だからこ

そ、自分の感情に素直になれ、またそれらと正面から向き合える。彼ら
の目には、世

界は不思議に満ちて理解しきれない風に映っているに違いない。ド
イツ語を全く分か

らない人が字幕なしでドイツの映画を見るのと同じように、物
事の進行が見えるもの

の、そこに含まれている意味を見出すことができない。

ところで、その「認識の不完全さ」を賞賛する代表的な人物は、アメリカ文学史上の

SD・サリンジャーである。彼のベストセラー作品『キャッチャー・イン・
ザ・ライ』(野崎

孝訳では「ライ麦畑でつかまえて」)の主人公ホールデン少年は、
子供から大人になる

過渡期(いわゆる思春期)にあり、言い換えれば境界線に立
っている状態なのだ。彼

は大人の世界に対して徹底的に批判的な態度を取るが、
それは彼に大人の世界の

「インチキさ」が見えてきて、子供の時期の「イノセン
ス」を懐かしく感じたからであるか

らかもしれない。なぜ彼はそこまで子供の「イ
ノセンス」を守りたかったのか。「接吻」を

読めば、その切実さがなんとなくわか
るような気がする。もしキワちゃんが物事の暗示

することをちゃんと分かってい
たら、自分が今いかに悲惨な状況にあるのかをも痛感

するだろう。そして、家族
に捨てられた記憶はすぐに心の病になりかねない。そうなる

くらいだったら、む
しろ彼女に一生分からないでいてほしい。

話がちょっと逸れるが、ゴールデンウィークのとき、東北にボランティアとして向かっ

た友達の話を聞くと、被災地の人々は、あの地震から二ヶ月が経った今
でも不眠症と

PTSDなどに悩まされているそうである。心の傷がいつになったら
治るものなのか自

体、決まりがない。では、子供はどうなるのか。「イノセンス」
に守られていたらいいと思

う。悪夢のような出来事ではあるけれど、一日も早く
忘れれば、精神の衛生にもなる。

「無知」であることは同時に「イノセンス」を指し、ある種の幸福とも言えるかもしれな

い。