文章表現Ⅲクラス  日本人とメディア
 

恐るべし情報社会

―メディアと現代人のあり方―

 

現代文芸論    丹(中国)

 

記憶によると、生まれて初めてコンピュターを目にしたのは小学校三年生の時で、ク

ラスメートの家に遊びに行った時だった。
彼女の父は貿易商をしていたので、家には

当時の私たちの目にとっては、とても新奇なものが置かれていた。「なんて奇妙な機

械なんだろうと」いう思いは、今でも鮮明に残っている(因みに、私がパソコンを買っ

てもらったのは大学一年生の時だった)。そして初めて携帯電話を手に入れたの

は、高校卒業後、北京の大学に旅立つ時だった。家族との連絡がいつでも保てるた

めに父から渡された。振り返って思えば、自分が生きてきた人生の中で、現代メディ

ア(コンピュータや携帯など)が占める割合は意外と小さいのだが、毎日使い慣れて

いる今では、もう欠かせないアイテムだと言っても過言ではない。自らの経験を通し

てよく分かったのだが、現代人のメディアに対しての依存症はもはや病的と言えるだ

ろう。

そして、それらのメディアが登場してからは、確かに、通信や通話などは驚くほど便

利なものになった。
しかし、昔時間をかけてやっていたことが突然簡単にできるよう

になると、人々はかえって交流の大切さを忘れるようになる。例えば、中学校の時、

学校の交流プログラムで、一年間ハワイの公立高校の子と手紙を交わしていた。

返事が来るのには大体二、三ヶ月ぐらいかかるが、手紙が来るのがとても待ち遠し

かったし、実際に来たときはとてもうれしかった。こちらもたっぷり時間をかけて、返

事を書く時には文章を何度も書き直して、手書きして、おまけに便箋のデザインまで

自分でしていた。効率の点から言えば、便利とは言えないが、掛け替えのない青春

の思い出にもなった。逆に、今の
Eメールなどは、どんなに離れていてもその日のうち

に届けられるとても便利な通信の仕方だが、パソコンのキーボードで打った字がみん

な一緒で、とても乾いて平板である。私は今でも個性の溢れる手紙のほうを好む。メ

ディアが知らないうちに、人々の間の人間らしい温もりを奪っていた。

そのうえ、現代メディアは人々の思考力をもこっそり奪っていた。しかも、昔と違って

怖いのは、それをあまり意識させないことである。つまり、人々に自分でものを考え

る振りをさせて、操られていることにまったく気付かせないことである。テレビをはじ

め、ラジオ、新聞、雑誌、インータネット、携帯サイトにはいつでも情報が溢れてい

る。しかし、それらは決して生の真実性のある情報ではなく、必ずと言っていいほど

誰かに処理された情報である。現代社会では、情報とともに、溢れているのは専門

家である。知的な雰囲気を漂わせて、切れのいい言葉を口にし、人々を魅了してい

るが、よくチェックしてみると、この所謂「専門家」たちには「一貫性」というものが

いつも欠けている。少し前の自分のコメントを裏切る発言を平気な顔で次の日に言

う、それを聞く人々はただ感心するだけ。しかし、そうなるのもしかたがないことであ

る、洪水のように流れてくる情報をすべて把握することは、一人の人間にとっては無

理だろう。思わず結論だけを丸ごと呑み込むのも仕方のないことである。

現代社会を作り出したのはあくまで我々人間だが、生まれたての頃はまだ人々の手

のひらにあった、この現代というモンスターは今はもう徐々に一人歩きし始めている。

「メディア」という綺麗な衣をかぶるそのモンスターは、我々を一体どこまで連れてい

くのだろうか。