読解Uクラス  クローンと生命
 

生命倫理的観点から見たクローン技術

 

韓国朝鮮歴史文化  金 東煕(韓国)

 

歴史がはじまって以来、人間による科学技術の革新の頂点は、ほかの生命体だ

ではなく、人間自身を複製可能にしたクローン技術だろう。しかし、ほかの生命体の複

製は社会的にある程度許される雰囲気になっているが、人間にクローン技術を適用す

ることについては依然として議論が多い。いったいクローン技術による人間複製には

いかなる問題があるのだろうか。

ここでは、その問題を生命倫理的観点から考えてみたい。まず、テキストの筆者が

堅持している生命倫理観はどのようなものかを明らかにすることが必要だろう。この生

命観は二つの原理によって構成されている。一つは、人間のみならず、自然を含んだ

生きとし生きるものは、人為的に変形させるべきではない、本来の価値を持っていると

いうものだ。もう一つは、「死」は「生」の一部だということだ。この二つの原理がこのテ

キストを貫通している。

まず、一つ目の原理からクローン人間に関して考えてみたい。ほかの生命体の複製

は許されてもクローン人間を作ることは厳しく規制されるべきだ、という意見は社会的

に当然のように受けとめられているようだ。こういう意見には、人間にだけ特別な尊厳

性があるという論理が入っている。しかし、これは人間が自然の主人だという近代の人

間中心的な思考にそまっている論理である。この人間中心的思考により、自然の本来

的価値は、人間の必要に従ってその価値が決められる、人間の使用目的による価値

へと転換されてしまった。言い換えると、自然とその中に生きているあらゆる生き物が

人間のための商品になってしまったということだ。そのせいで、自然に生きている他の

生命体の遺伝子を人間が勝手に操作し、商品化する産業が盛んになった。現象として

は遺伝子操作によって食卓が潤ったように見えるが、これは結局、人間の食べ物まで

も壊してしまうことになるだろう。たとえば、遺伝子操作によって作られた餌を食べて狂

牛病にかかる牛がその代表的な例である。もし、自然とそれを構成する有機体の本来

の価値を深く理解したなら、人間の尊厳は自然に対する尊厳から生まれたという厳然

たる事実を悟れるはずである。

二つ目の、「死」は「生」の一部だという原理からクローン人間の問題をみると、人間

の「病」や「死」を他の角度から見つめることができると思う。いつからか、人間の「病」

や「死」は人間が征服すべきものとして扱われてきた。人間中心的思考にしたがって人

間が自然を商品化しようとするのと同様に、「病」や「死」もまた人間の征服対象と思わ

れてきた。確かに、クローン技術は先天的遺
伝病や不妊症などの治療に一大革新を

もたらすにちがいない。しかし、このよう
な目的でクローン人間づくりに賛成する流れ

を、望ましいとは言い切れない。そ
れは遺伝子を劣性と優性に分けて、劣性遺伝子よ

り優性遺伝子を優位に置く、優
生学的な立場を前提にする傾向があるからだ。これに

対して、人間の生を決定さ
せるのは生まれ付きの遺伝子だけではなく、後天的な環境

も重要だと答えること
ができる。そして、人間を遺伝子にしたがって劣性と優性に分け

る優生学的な立
場は、非人間的だと非難することもできよう。だが、私が優生学的な

立場を問題
視する最たる理由は、その立場の根底に隠されている、「病」や「死」に対

する敵対意識である。すなわち、「病」や「死」が、取り除いて破壊させるべき征服対象

とみなされていることである。しかし、「病」や「死」を「生」の一部として見つめれば、そ

れらは征服対象ではなく、人生の同伴者となるだろう。

 技術の進歩が人間にとって有用な場合もある。ただし、自然に反する遺伝子の

作、遺伝子決定論に基づく優生学的立場によるクローン技術は、私の生命倫理
的観

点から見れば、人間の傲慢さから出たものである。したがって、究極的には
人間のた

めにはならない技術と言っても言い過ぎではない。