現代文芸論研究室主催シンポジウム世界解釈としての文学

 柔らかい月が本郷にかかる11月の夜、現代文芸論研究室主催企画である「世界解釈としての文学」を覗いてみることにした。作家池澤夏樹の責任編集による『世界文学全集』が二期に分かれて刊行されることになり、現代文芸論の柴田・沼野・グーセン教授を交えたシンポジウムが開催されたのである。始まってみればすぐに会場は満員になり、開始から一時間たっても次々に人がやってくる、しかし立ち見の人は出ないという不思議な空間に居合わせることになった。

 僕はそもそも全集の類が苦手で、その手のシリーズを読み切ったことなどないので、最初に全集と聞いて気持ちは二歩半ほど後ずさりしたのだが、作品のリストを見て、魅力的な作品が並んでいるのは確かで、残雪やダニロ・キシュといった気になる名前が並んでいるので身近に感じた。今まで目にした全集の外典といったところだろうか。とはいえ、この全集のラインナップを眺めてまず感じたのは、「読んでないなあ」ということだった。自分の不勉強が露呈したような気がして少々気まずくもあった。

 しかし、実際シンポジウムが始まって話を聞くにつれ、今回の全集には、僕が常日頃苦手としてきた「これくらいは読んでおかないと……」という教養主義ではなく、「読んでみたら面白い」という視点が根底にあることが分かって、ちょっと安心した。中でも勇気づけられたのは、いい本を選んで行く基準は読書をしていく中でできていくということだった。これがいいから読みなさいというガチガチの尺度ありきではなく、読み続ける中で自分なりの尺度が出来上がっていく、という柔軟さが会場で共有されていると感じたせいだろうか。あれもこれもまだ読んでいない、と萎縮するのではなく、気になる本に夜を賭けてどんどん読んでいけばいいのだ、という前向きな気持ちになれたのである。

 ともかく世界中の文学が基盤となるわけだから、当然議論は尽きない。選定にあたって意識された視点(フェミニズムとポストコロニアリズムが挙げられていたが、そのうちクイア・スタディーズだって入ってくることになるかもしれない)だけでなく、実にいろいろな話を聞くことができた。「大統領小説」なんていう概念や、全集の主人公たちの多くが移動しているというのは新鮮だったし、世界文学全集と日本文学全集が別にあるという話などでは、奇妙なねじれを垣間見たような気がした。朗読という体験も、それぞれの朗読者の個性が窺えて楽しいものだったし、何よりも作品の一部を会場にいる全員で共有する時間は独特の集中した雰囲気を作り出していて、朗読っていいなあと勝手に感心していた。

 四人の話を聞いていくうちに、「自分なりの全集を作るとしたら……」という妄想が膨らんだのは僕だけではないだろう。自分の読書歴(当然お話にならないくらい短く、しかも偏った巣穴なわけだが)を洗い直してみれば、自分がささやかながら培ってきた尺度が見えてくるだろうし、それを池澤版全集と突き合わせてみることで、また新しいものに開かれるかもしれない、そんな気がしてきてわくわくしてきた。シンポジウムでも指摘されていたように、今回の全集は氷山の一角のようなものなのだから、その先にはめくるめく世界があると期待していいのだ。当然そこでは時との戦いも待っているわけだが……。 

 最後になるが、やはりこうしたイベントは裏方さんの努力なくしては成立しない(僕は彼らの代書人のようなものである)。事前の準備から当日の進行までの世話係というべき毛利さんと島袋さん、それに当日影たちのように動いてスムーズな進行をサポートしてくれた研究室の学生のみなさん、ありがとうございました。                       

(文責:藤井 光)