ヴィスワヴァ・シンボルスカ(クラクフ)

 私の住んでいる国は、これほど恐ろしい天災に苦しめられることはありません。日本列島に住み、地球の自然の持つ力の攻撃に常にさらされている皆様が、どのような気持ちでいるのか、辛うじて思い描くことができるだけです。将来、いつの日か、きっと、科学がそういった攻撃を前もって予見できるようになることでしょう。いや、ひょっとしたら、予防することさえできるようになるかも知れません。しかし、こんなにも重い悲しみに包まれた皆様には、そんなことを申し上げても何の慰めにもならないでしょう。
 皆様の勇気と忍耐力に対して、共感と驚嘆の言葉をお送りします。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ

クラクフ、2011年4月

Żyję w kraju nie nękanym przez tak straszliwe kataklizmy. Mogę sobie tylko z trudem wyobrazić, co czują mieszkańcy japońskich wysp, bezustannie narażeni na ataki ziemskich żywiołów. Kiedyś, w przyszłości, nauka zapewne będzie w stanie takie ataki w porę przewidzieć, a może i nawet jakoś im zapobiec. Ale żadna to pociecha dla Was, okrytych tak ciężką żałobą.
Przesyłam Wam słowa współczucia i podziwu dla Waszego męstwa i wytrwałości.

Wisława Szymborska

Kraków, kwiecień 2011 r.

(詩人、1996年ノーベル賞受賞者)


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山崎佳代子(ベオグラード)

 このたびの大震災、津波、そして福島の原子炉の事故、悲しみがあまりにもおおきく言葉を失っています。
 お亡くなりになった方々おひとりおひとりのご冥福をいのるとともに、被災地のみなさまのご無事をいのります。
 私もちょうど地震を東京で体験いたしました。あれほどまでの揺れは、はじめてのことでした。
 郵便局から沼野先生にお手紙をお送りして、四時間ののちに、地震がはじまったのでした。高層ビルに住む従兄弟の夫妻を訪ねるために、エレベーターのとまった三十三階まで、歩いて上りました。普段は、言葉を交わさない人たちと、旧い友達のように声をかけあい、互いの無事を祈りあうのは、私たちが旧ユーゴスラビアのNATOの空爆で体験した情景を思い起こさせました。
 翌日の成田への移動は、ひとつの物語でした。人々の流れのなかに感じたのは、厳かなまでの静けさです。満員の総武線のなかでは、千葉の一人暮らしの父親のもとに帰るという家族といっしょになりました。たいへんな混みようでしたが、お父さんが支えるベビーカーの二歳の坊やを五歳のお姉さんがいっしょうけんめいに守るようにしていました。坊やはりょうまくん、お姉さんはみずきちゃんという名前でした。若いカップルは、このトランクに座りなさいと女の子に声をかけます。いいの、私立ってると女の子は言ってベビーカーの弟に笑いかけています。ふたりの笑顔が、いまも目にうかびます。その家族の姿は、なんという救いだったでしょうか。ふしぎなことに列車のなかは、まだ日本人がそれほどお金持ちではなく、列車も質素だったころの、人々の優しさがあったのでした。「銀河鉄道の夜」のように。
 空港は、大変な混乱でした。私も予定した飛行機に乗れず、夜を空港で明かすことになりました。そこにも、悲しみのしみこんだ静けさがありました。そのなかで、お店の人たちは、きびきびと親切でした。なにもなかったように、ではなく、なにかがあったのにもかかわらず、なにかを失うことをしずかに拒むように。
通路には、家を失った人のようにして、ボール箱をつぶしたものを敷き、そこに毛布や寝袋をしきつめてすわり、ペットボトルの水を並べ、ラップトップの画面をみつめているヨーロッパの若者、白いマスクで顔を半分かくして、ベンチで毛布に包まる若い日本女性。
だれもが何かを待っていました。私がねむるペンチの横で、人々がまるで旧い友だちのように、話をしていました。
 そして翌日、なんとか飛行に乗ることができました。乗ることができず、途方にくれている人もありました。飛行機が離陸し、私は窓に額をつけて、しだい小さくなっていく日本を見つめていました。それから小さな画面で地震のニュースを見た私は、多くの人々が命を失い、家を失ってしまい、また原発が大変に危険な状態にあること、それがやっと本当にわかり、涙がこぼれてきました。それから、さまざまなことを考えました。
 世界はもうどこにも安全な場所はない。しかし、だからこそ、私たちは声をかけあわなくてはならない。
 恐ろしいことは恐ろしいと、駆け引きなしに、遠い友につげ知らせなくてはならない。悪いことは悪いと、人の命は重いと、誰かにささやかなくてはならない。そのために、世界にはさまざまな言葉があるのだと。
 チュルノブィリ原発事故、内戦、国家解体、ナトー空爆、ベオグラードでさまざまなものを見つめてきた私たちにいえることは、ふたつ。闇のなかにも、かすかな光があること。そして、あなたはひとりではない、と。
 かぎりなく厳しい時代の序章、だからこそ私たちは耳を澄まし、目をこらして、たがいの言葉をききあうことを続けるほかはありません。
 この地震の後、世界はもう昨日の世界ではないのですから。

(詩人・翻訳家・ベオグラード大学教授)


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ダリボル・クリチュコヴィチ(ベオグラード)

 被災地からやや遠くてご無事でお過ごしの方、自ら被災者でも九死に一生を得て一命を取り留めた方も多いと思いますが、亡くなった方、大切な人を亡くした被災者も大勢いらっしゃいます。遠い国にいながらも、私は毎日パソコンの画面にくっついた状態で、大震災関連の状況の二転三転ぶりを見守っていました。
 日本に降り掛かった災害を、幾つかの理由から、私はやはり他人事のようには思えません。テレビで見た被災者の一人一人は、こんな惨事さえなければ何かの縁で私の友達になり得たかもしれません。今まで多くの日本人に会ってきましたので、亡くなった方もどなたかが何らかの巡り合わせでセルビアに来て、私と知り合いになることができたのかもしれません。ですからこの無慈悲な災害で、私は多くの友達を亡くしたように思います。遺族の悲痛な顔、埋葬を待つ遺体を見ると、思わず頭が下がり、言うに言われぬ敬服の念が心の奥底から込み上げてきます。失った家族を語る静かな嗚咽なり号泣なりで胸がきゅっとなることもしばしばありました。
 その悲しみや苦しみは言語化できません。しかし、口に出してみた苦しみは、一瞬だけではあるものの、自分から離れて他人と共有できるものになります。ですから、被災者の方々にとっては、仲間同士の共同体をなるべく長く濃密に保っていただく必要があります。孤立して、バラバラになってしまってはいけないと思います。しかし、強烈な悲しみには「永劫回帰」という傾向があります。むしろ、ある種の苦悩や孤独は人間存在の根源にあるようにも思えます。そこへ持って来て、災難に見舞われた時に、その悲しみは一段と度合いを増し、表に出て、場合によっては、永遠に人間を離れないこともあります。
 これまでの自分の人生が瓦礫へと崩壊してしまい、ヒトがその真っ只中に立ち竦んだまま、残念無念の面持ちで、倒れるか歩き続けるか、どうするべきか、一瞬逡巡しているかのような光景も見ました。「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉」という言葉を、日本の文豪が遺しました。「三陸」と1896年の大震災のことであろうが、今回もまたそれに近いところで地震が起きてしまいました。外から来た津波と、それに伴って人の心の中から隆起してきた津波とが一体化して、内外共に荒涼たる廃墟に化してしまいました。
 悲しいことです。しかし、ただ一つ忘れてはならないことがあります。災害をもたらす大自然と喜怒哀楽を生む「自家三寸の丹田」とは同じことです。何もかも奪われてしまった、自分の心以外に何も残っていない人間こそ、真の人間であるはずです。戦争や避難生活、ふるさとの喪失という経験を持つ私には、これだけが分かってきました。真の人間とは、着の身着のままの人間だ、と。これが人間の本来の姿です。何もかもなくなった時にこそ、原点に立ち戻り自分に返って、新たに人生を始めるべきではないでしょうか。こんな運命は、呪いでもあり、祝福でもあります。
 悲しみに悲しんで、泣きに泣きながら、絶えず自分自身を見つめて、仲間同士で相携えて、新しい自分、新しい日本を作っていきましょう。そうしているうちに、何時か悲しみも嗚咽も絶えるでしょう。日本人なら、きっとこんなことができます。いや、日本人だからこそ、できると言った方がよいでしょう。人は泣きながら生まれて、泣きながら死んで行くが、その間を健気に生きて生きましょう。〔日本語原文のまま〕

(ベオグラード大学日本学科講師、日本文学研究者)

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