2013年9月
三宅 由夏(現代文芸論修士1年)
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現代文芸論に入って4ヶ月が経った7月の終わり、合宿に参加することになった。
学部生のころ、私はおもに精神分析を研究していた。文学部とはどういうところなのか、それすらよくわかっていない人間だったから(ほんとうのところ、今でもよくわかっていないし当分わかりそうにないのだが)、入学前から柴田先生に「ここに来てきみが幸せになれるかどうかわからないよ」と言われたほどだ。
結果からいうと、この半年は幸せなことが多かった。院生授業や翻訳演習は特に刺激的で、毎回の発表や議論からあまりにもたくさんの洞察を得るので、整理が追いつかないほどだった。反対に、幸せな環境であるがゆえに、そのことに甘えて受動的になりやすいということもあった。自分の中の尖った部分が気づかない間に滑らかで当たり障りのないものになっていくのではないかと、ときどき不安で仕方がなくなる。
そういう心情の中にあったので、合宿はふたつの意味で楽しみにしていた。ひとつは単純に、現代文芸論の人たちともっと近づくこと。普段、専門が違うために話す機会がすくなかった人たちと話をしたかったし、これまで私自身が研究してきたことについて、どういう反応をされるのか知りたかった。もうひとつは、この半年間で自分の中に起こった考えの変化を確かめること。これまで触れてこなかったテクストの読みに触れることで、すでに卒業論文との間にかなりの距離が生まれていた。この距離を、新しく得た言葉で自分自身にも説明する必要があった。
私の秘かなもくろみは、手際の良い幹事のふたりと、真摯に耳を傾け、率直に意見や質問を投げかけてくださるみなさんのおかげで実現することができた。これは、今思い返してみてもすごいことだと思う。大広間での発表は、薄い仕切り壁の向こう側で子供たちがドッヂボールや木工細工ですさまじい物音をたてている中、それぞれに声を張り上げながら行われた。そんな困難な状況にもかかわらず、どの発表も充実していて面白かったので雑音はすぐに遠のいた。議論も毎回活発で、すべての問答をメモにあまさず残したいと思うほど示唆に富んでいた。この刺激的で開放的な雰囲気に浸っている瞬間、現代文芸論っていいなあ、と幸せを感じている自分に気がついた。同じ瞬間、同じようにほころんだ顔をした人が確実にいたと思う。
多様でありながらも対話を続けるためには、それに見合った知性と真摯さが不可欠なのだということに、ここに来てから何度も思い当たった。これからも繰り返し思い当たるだろう。実のところ、なぜ精神分析なの、という質問には、まだ精確に応えられたことがない。(面白いから—という阿呆でも言える答えには当然納得してもらえない。)合宿での発表はそれに答えるためのひとつの試みくらいにはなったけれど、まだまだ言葉の足りなさを自覚していく段階にある。それでも、現代文芸論という場で対話を続けていくかぎり、なぜ精神分析なの、と何度でも納得するまで問い続けてくれるシビアで真摯な仲間がいてくれるだろう。今回の合宿で、この確信は大いに深まった。
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