現代文芸論研究室 夏合宿レポート2013

野口 優三宅 由夏杉田 健太郎

2013年8月

野口 優(現代文芸論修士1年)

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ややこしいことは何でも後回しにする癖があるので——だから、合宿レポートにしても助教の先生に急かされてようやく重い腰をあげた。文才のない自分にこんな仕事を任せるなんて、とぼやきつつ——幹事のお話がきたとき、ほんとうはちょっと戸惑った。ひとりでは不安だ、というわけで同級生を巻き添えにして、研究室に代々伝わるありがたい合宿用マニュアルを片手に準備をスタート。会場は埼玉県秩父にある温泉旅館「宮本の湯」。去年の合宿は海辺の町だったから今年は山に、というのは見せかけの理由で、ほんとうはバーベキューがしたいというわがままを通したのだ。ともあれ、ひろびろとした部屋に温泉もあって快適。となりで元気な子供たちが大はしゃぎしていたけれど、ぼくらもきっとあんな風だったに違いない。楽しみにしていたバーベキューを満喫して大満足。

しかし、現文の合宿はただの旅行ではない。一泊二日の限られた時間ではあるものの勉強会をもうけ、参加者が日々の研究を発表する機会になっている。今年の勉強会トップバッターは学部4年生の発表「『2666』における「声」からみた「創作」」。チリの作家ボラーニョの大作を、「声」という視点から眺めることで、作品を通して描かれる不気味な暴力と作家や詩人の創作活動そのものとの接点が追求された。長大な作品にひるむことなく立ち向かう野心的な姿勢が印象に残った。続いて修士2年生による「パロディーとしての『タンゴ』——ハムレットになりそこねた青年」。ポーランドの劇作家ムロージェックの戯曲『タンゴ』をハムレットを参照しながら分析し、両者の違いと通底するテーマから見えてくるものを探った。一見かけはなれたものの比較という、現文が目指す研究の一つのありかただ。初日の最後は学部4年生の「バーセルミとアメリカ」。「ぺらぺらなもの」をキーワードに、コラージュの手法やモノと化した言葉といったテーマをめぐってバーセルミの短篇を読み解き、ポストモダン再検討へと発展していった。発表者の文学に対する鋭いまなざしと膨大な知識が垣間見える発表だった。

ここで初日の勉強会は終了。夕食と温泉の後はいつものように宴会。様々な専門の学生が集まるこの研究室では、合宿の宴会はふだんあまり顔を合わせない仲間たちと語り合える重要なイベントなのだ。当日になってうっかり準備を忘れていたことに気づき、幹事二人であきらめかけていたギターも気の利く参加者がちゃんと用意してくれていた。これがなくては始まらない。おかげで今年も柴田先生と野谷先生の弾き語りや、ギターの上手い参加者の演奏を聞くことができた。今年の冬学期から研究室に仲間入りする柳原先生もギターを握り、一晩中どこかで弦の音がしている、これぞ現文の合宿。ほの暗い灯りとミラーボールに照らされたあやしげなムードの中、参加者の会話の種はつきることなく、お酒に詳しい英文科の参加者にお願いして見つくろってもらった飲み物も一晩でぼぼつきてしまった。

翌日、朝食のときはまだちらほらと空席が目立つものの、勉強会の時間になると全員集合。二日目は修士1年生の「ミラン・クンデラと「作者の介入」」から始まった。チェコの作家クンデラの代表作『存在の耐えられない軽さ』に焦点をあて、比較を通じて作品に積極的に介入するこの作家の語りの特異性が浮き彫りになった。太宰とクンデラの比較という今後の展開は聞くものの興味をかき立てた。今年の合宿最後の発表は修士1年生による「アリス(たち)はいかにして境界線をまたいだか」。フロイトの「不気味なもの」を発展させた理論から『不思議の国のアリス』と映像作品を含めたアリスのアダプテーション作品があざやかに捉え直され、発表者の鋭いセンスが感じられた。何でも後回しにする幹事がぎりぎりになってからお願いをしたにもかかわらず、どの発表もすばらしい出来映え。さらに今回は、巻き添えにしたもうひとりの幹事の先を見た提案により、発表者はあらかじめ取り上げる作品を指定し、参加者は事前に読み込んでから勉強会に臨んだ。発表者の人数は少なめながら、より深く有意義な議論を交わすことができたのは、発表者に加えて参加者の準備にもよる。

はじめはどうなることかと思ったけれど、始まってみればあっという間。やってみると予期した以上に楽しい仕事だった。来年の幹事を予想して心の中で勝手にバトンタッチし、これでようやく仕事が終わったと一息ついた。今回の合宿に協力してくれた方々に感謝しつつ。

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2013年9月

三宅 由夏(現代文芸論修士1年)

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現代文芸論に入って4ヶ月が経った7月の終わり、合宿に参加することになった。

学部生のころ、私はおもに精神分析を研究していた。文学部とはどういうところなのか、それすらよくわかっていない人間だったから(ほんとうのところ、今でもよくわかっていないし当分わかりそうにないのだが)、入学前から柴田先生に「ここに来てきみが幸せになれるかどうかわからないよ」と言われたほどだ。

結果からいうと、この半年は幸せなことが多かった。院生授業や翻訳演習は特に刺激的で、毎回の発表や議論からあまりにもたくさんの洞察を得るので、整理が追いつかないほどだった。反対に、幸せな環境であるがゆえに、そのことに甘えて受動的になりやすいということもあった。自分の中の尖った部分が気づかない間に滑らかで当たり障りのないものになっていくのではないかと、ときどき不安で仕方がなくなる。

そういう心情の中にあったので、合宿はふたつの意味で楽しみにしていた。ひとつは単純に、現代文芸論の人たちともっと近づくこと。普段、専門が違うために話す機会がすくなかった人たちと話をしたかったし、これまで私自身が研究してきたことについて、どういう反応をされるのか知りたかった。もうひとつは、この半年間で自分の中に起こった考えの変化を確かめること。これまで触れてこなかったテクストの読みに触れることで、すでに卒業論文との間にかなりの距離が生まれていた。この距離を、新しく得た言葉で自分自身にも説明する必要があった。

私の秘かなもくろみは、手際の良い幹事のふたりと、真摯に耳を傾け、率直に意見や質問を投げかけてくださるみなさんのおかげで実現することができた。これは、今思い返してみてもすごいことだと思う。大広間での発表は、薄い仕切り壁の向こう側で子供たちがドッヂボールや木工細工ですさまじい物音をたてている中、それぞれに声を張り上げながら行われた。そんな困難な状況にもかかわらず、どの発表も充実していて面白かったので雑音はすぐに遠のいた。議論も毎回活発で、すべての問答をメモにあまさず残したいと思うほど示唆に富んでいた。この刺激的で開放的な雰囲気に浸っている瞬間、現代文芸論っていいなあ、と幸せを感じている自分に気がついた。同じ瞬間、同じようにほころんだ顔をした人が確実にいたと思う。

多様でありながらも対話を続けるためには、それに見合った知性と真摯さが不可欠なのだということに、ここに来てから何度も思い当たった。これからも繰り返し思い当たるだろう。実のところ、なぜ精神分析なの、という質問には、まだ精確に応えられたことがない。(面白いから—という阿呆でも言える答えには当然納得してもらえない。)合宿での発表はそれに答えるためのひとつの試みくらいにはなったけれど、まだまだ言葉の足りなさを自覚していく段階にある。それでも、現代文芸論という場で対話を続けていくかぎり、なぜ精神分析なの、と何度でも納得するまで問い続けてくれるシビアで真摯な仲間がいてくれるだろう。今回の合宿で、この確信は大いに深まった。

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2013年9月

杉田 健太郎(現代文芸論学部4年)

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ことの発端は合宿一か月前の梅雨真っ盛り。毎年行われる合宿の発表会で学部四年からも是非発表してほしいというお話を幹事の先輩からいただいた。思い起こせば去年も先輩方がすばらしい発表をなされていたが、自分自身が同じような発表をしている姿なんて全く想像ができない。しかし詳しく話を聞くと、持ち時間は十五分程度だという。せっかくの機会だし良い経験になる。持ち時間もあまり長くない。でも正直発表は大変そう。結局、やるのかやらないのか自分の中では踏ん切りがつかぬまま引き受けてしまった。合宿二週間前に現代文芸論の合宿発表者一覧がメーリングリストで流れ、自分の名前とロベルト・ボラーニョ『2666』の文字を見て、ようやく逃げられないと覚悟を決めた。当日バスに揺られて合宿所に着いた時は、楽しそうにはしゃぐ子供たちの姿がやけに目についた。発表時間が十五分から四十分に拡張されていたことを知ったのが、三日前のメールでだったからかも知れない。

以上のような経緯をたどったものの、発表自体は先生方や院生の方々から直接意見をいただくこともでき、自分自身にとって非常に実りの多いものになったと思う。なにより、『2666』に挑みかかるきっかけを与えてもらったことが大きかった(『2666』なんて合宿までに読み終わらないよ!との声が参加者からちらほら聞こえたことは付け加えておきたい)。その後は緊張からも解放され、コンパも楽しむ事ができ、他の発表者の方々の発表も非常に興味深く拝聴させていただいた。ギターの音にまぎれて夜は更けていく。普段はあまり話すことのできない先生方や院生の方々とゆっくり同じ酒の席につくことなんて、こんな機会を除いてはめったにないだろう。最後は案の定同期と飲んだくれていたが……。個人的に大好きな温泉も十分に堪能させてもらった。雨の露天風呂につかって、翌朝ゆっくりと酔い覚ましをしている時の曇り空が、妙に印象に残っている。

終わってみれば、自分が発表者になったことも含めて、非常に実りのある合宿だったと思う。八月三十日に今回のレポートの話をいただいたのだが、一か月たった今でもまったく色あせることはないし、これからもないだろう。

以上レポートとは名ばかりの一発表者の感想文となってしまったが、とにもかくにもこのようなすばらしい合宿の幹事をしていただいた先輩方、合宿に来ていただいた先生方、院生の方々、ホテルの方々、など関係者の方々すべてにこの場を借りて感謝させていただきたい。

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