【参考】追悼 ゲンナジイ・アイギ —純白の雪の中の死 沈黙の詩人に
沼野 充義
ロシアの詩人、ゲンナジイ・アイギ(1934年生まれ)が2月21日、苦しい闘病生活の末、モスクワの病院で亡くなった。享年71歳。私はそのちょうど一週間前に彼を病院に見舞い、彼を敬愛する日本の友人たちからのささやかなカンパをとりまとめ、「貧者の一灯」として枕元で看病するアイギ夫人のガーリャさんに渡してきたところだった。高名とはいうものの、慎ましい生活を送る詩人にとって、高額の入院費用はとうてい負担しきれるものではなかったのだ。
厳しい寒波に見舞われた真冬のモスクワはいたるところ雪に覆われ、病室の窓から見えるのも真っ白な雪景色だけだった。いまから考えるとあの雪は、天からの迎えだったのかもしれない。アバンギャルドの抽象画にも似た純白の雪景色こそは、アイギの詩の「原風景」の一つだからだ。「おお神よふたたび雪/そしてあるそれは雪それはある」(たなかあきみつ訳、書肆山田刊『アイギ詩集』所載)とは、ソフィア・グバイドゥーリナの作曲によって、この世のものとは思えないほど美しい合唱曲となった「いまやいつも雪」の結びの言葉である。
死の床のアイギはもはや半ばこの世の人ではないようだったが、それでも頭ははっきりとしていて、私の言うことはすべて理解し、日本を訪ねたときのことを、そして日本の友人たちとのことをしきりに懐かしがっていた。じつはアイギは過去に二度来日したことがあり、二度目の2002年には「東京の夏」音楽祭の一環として「アイギとグバイドゥーリナの出会い」という画期的なコンサートが行なわれた。これはアイギの詩にグバイドゥーリナが作曲した声楽曲を中心にプログラムを組んだ世界でも前例のないもので、その企画に関わった私にとっても忘れ難い思い出となっている。
グバイドゥーリナはいまや世界的に名声が轟く女性作曲家だが、アイギとは古くからの友人、いや、旧ソ連体制下「アンダーグラウンド」の世界で芸術の表現の自由のためにともに闘った同志である。二人とも旧ソ連の出身だが、作曲家はタタール系、詩人のほうはチュヴァシ人の出自を持つ。チュヴァシ人とはヴォルガ川中流地域に住むチュルク系の少数民族で、アイギも若いころは母語のチュヴァシ語で詩を書いていた。
彼はその後、パステルナークに勧められてロシア語で詩を書くようになり、1960年代以降、ロシア語による詩的表現の最先端を切り拓いてきた。旧ソ連時代にアイギのロシア語詩は社会主義リアリズムの精神に反するものと見なされてほとんど活字にならず、彼は「地下詩人」の位置に長いこと甘んじなければならなかったが、欧米では早くから高く評価され、「ヴォルガのマラルメ」の異名をとり、ノーベル文学賞の有力候補としてしばしば名を挙げられるほどだった。
彼の詩はロシア・アバンギャルドの流れを汲むもので、伝統的な韻やリズムの約束事を無視した自由詩を本領とするが、その詩風は「前衛」の実験にありがちなはったりめいた荒々しさとは無縁で、野、森、雪、白といった純粋なイメージを描き続け、みずからの言葉をその究極の形態である静けさに近づけていく。「沈黙としての詩」とはまさに彼のモットーであり、「言語の領域において精神を創造すること」が彼の課題だった。饒舌に流れやすいロシア語の世界の中で、彼の文体は異様なほどの簡潔さできわだっている。
アイギはコマーシャリズムの洪水の中で大事な言葉がすべてすりへってしまった現代にあって、決して時流に流されることなく、季節外れの一本の木のように立ち続けた。そして、言語の根源的な力とそこから湧き出てくる精神性をいま一度見極めようとした。だからこそ俗受けする人気者にはなれなかったのだが、詩を愛する者は深い畏敬の念とともに彼の名前を記憶にとどめることだろう。
最後に、はるか昔、1960年に彼が書いた「死」という作品の一節を拙訳で引用させていただく。「雪片は/地上に運び続ける/神の象形文字を……」
毎日新聞 2006年3月27日 東京夕刊掲載