フランス文学研究について

こちらではフランス文学研究に関する読み物を掲載しています。
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フランス文学研究とは?

仏文科の授業は、テクストの読解を中心に組み立てられている。ところで、テクストとはいったい何か? テクストを読むというのはどういう行為なのだろうか?

一言で言ってしまえば、テクストとは出会いの対象である。それは知識に還元できるものではないし、なんらかの構造に帰着するような組織物でもない。テクストはある深い亀裂から生じてくるものであり、どのようなテクストも、もしそれが出会いの対象となる強度を備えたものであったとすれば、一定の構図におさまらないある危機的な状況を体現している。言い換えれば、テクストとは、すでに出来上がった秩序に収まらない出来事として、読み手を誘惑しつづける何かなのだ。

テクストを読むという行為は、そうした断層あるいは魅惑に引き込まれるようにして、ページを繰る手ももどかしく先へ先へと進むことだ。ただしその行為を実りあるものとするためには、少なくとも二つの作業が必要となる。一つは、テクストの内容を、テクストに即して捉える作業。テクストを、それを産みだした歴史的コンテクストに置きなおしながら、一語一語の意味を確定し、さらには同時代の資料を駆使してその意味をふくらませてゆくこの過程は、独りよがりの恣意的な解釈に陥らないためにも必要不可欠である。しかし同時に、テクストに刻まれた危機的状況が、現在もなお力を失わない出来事と感じられるのでなければ、そうした作業は瑣末な実証という迷路に入り込むだろう。したがってもう一つの作業、テクストのなかで現在もなお意義を失わない部分に光をあてる作業が必要となってくる。現代の「知」を逆照射することによって、作品のはらむアクチュアリテを汲み取る過程も、テクスト読解に必須の要素なのだ。

この二つの態度 —— テクストに即して読むのか、現在の関心を基準にして読むのか —— は、一見矛盾しているようにみえるが、同じコインの裏表に過ぎない。歴史的な辞典類を使って一つ一つ語の意味を注意深く確定してゆくうちに、私たちは別の土地の別の時代の真実を求めるように誘われる。その作業は、思考をいま、ここ、という日常の通念の呪縛から解き放ち、現在とは異なった様々な可能性を明らかにすることで、逆に同時代の矛盾に対する批判の原動力を与えてくれる。それと同時に、テクストは、現代もなお場違いなほどの力をもって私たちを誘い込む様々な力が刻み込まれる場でもある。それはかつてあった、現在とは無関係な出来事なのではなく、今もなお絶えず更新しつづけられる何ものかなのであり、その核心は再発見され、再び生きられることをつねに求めている。その体験は、過去に新たな光を投げかけずにはいられない。要するに、テクストの読解は、そのテクストが書かれた別の時代と現代との絶え間ない行き来、過去と現在の「永久の往復運動」なのである。


翻訳のダイナミズム

ところで、フランス語で書かれたテクストに接近するひとつの方法として、日本語への翻訳がある。日本語でおこなわれる授業のかなりの部分はその作業に費やされることになるが、ここで注意しなければならないのは、唯一絶対の翻訳は存在しない、ということである。翻訳は、潜在的な状態にとどまっている原文の意味と姿形を、異なった文脈と異なった意味をもつ言語に置き換える作業であり、ちょうど演奏や演技がもとの楽譜や台本をどのレベルで理解しているか、さらにはどのような声にのせて演じるかで、様々な結果を生じさせるように、原文をどのように把握するかでまるで違ったものとなる。ボードレール、ランボー、ロートレアモン、あるいはバルザック、フロベール、プルースト等、異なった翻訳が現在でも容易に見いだせる詩人・作家の作品に目を通せば、そのことは一目瞭然である。

ここで重要なのは、そうした複数の試みがなされる基盤に、異文化としてのフランス語テクストの衝撃があることだ。外国文学は、翻訳のように吸収可能な形に変形しなければ取り入れることができないが、しかしそのような変形を逃れる部分がかならずあり、しばらく時間が経てば新たな翻訳の企てを呼び込まずにはいられない。テクストのもつ他者性と異質性は、一度日本語に置き換えられた程度では消滅しないのである。そうしたテクストの他者性を見据えるためには、作品をもっぱら自分のほうに引きつけて解釈するのではなく、対象に即して見直すことが必要になってくる。繰り返しになるが、いま、ここ、という日常の規範的な通念を離れ、別の時代の別の感性や行動の可能性を出来るかぎり客観的に追求することが、文学研究の基礎となる。その基礎を深めてゆけば、自分にしかできない翻訳の変奏がおのずと鳴りはじめるのではないか。さらには、素材となるテクストと無批判に向かい合い、都合の良い引用を繰り返すだけの情報を蹴散らす論考を展開できるようになるのではないか。いずれにせよ、様々な変奏を可能とする異質なものとの出会いを準備することこそが、仏文科の授業の基本的な姿勢となっている。