フランス文学研究について

こちらでは、フランス文学研究とは何か、ということについて解説しています。
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「ことば」から始める

仏文では、さまざまなジャンルで書かれた「フランス語のテクスト」を、既成の学問体系のなかで整理してことたれりとするのではなく、あくまでもそこに書かれた「ことば」を丁寧に読み取り、それぞれに個性をそなえたテクストに現れた思考や感性を、忠実に理解することから出発します。そのことが、すでに書かれてある過去のテクストについて、現在の読み手である私たちにとっても刺激的な新たな解釈を提案したり、あるいはそのテクストから出発して、自分自身で新たな作品や思考を創造したりするために欠かせない一つのステップだと考えているからです。テクストの解釈とは、書かれていることを単に再認することではなく、そのテクストを読む者が、過去の文脈を尊重しながら、そこに現在に生きる人間の関心を持ち込んで、新たな思考の道筋を見出す創造的な営みです。「ことば」を忠実に理解し、その新たな解釈を提案する —— この過去の書き手と現在の読み手のあいだの「地平の融合」を実現するには、フランス語と直接触れ合い、この外国語をほとんど肉体的に我が物とすることが求められます。だからこそ、一方で翻訳の重要性を認めつつ、他方で学生が自分自身で「フランス語のテクスト」から出発して思考を展開できるように、仏文では学部・大学院を問わず、フランス語でテクストを精緻に読み解き、フランス語で書き話す能力を身につけるための実にヴァラエティに富んだ授業が用意されています。それはまた、「ことば」を通じて「テクスト」の外の「コンテクスト」—— フランスの文化・歴史のみならず、さらにその外のさまざまな背景 —— に触れるきっかけにもなるでしょうし、日本語で書き、考えてきた自分自身の常識を揺るがせる手がかりにもなるでしょう。


「読むこと」「書くこと」に向けて

そもそも「テクスト」を「読む」こと、そして「テクスト」から出発して新たな理解や解釈を「書く」こととは、いったいどんな行為なのでしょうか。この点についても、フランス語の書き手たちは自覚的な反省を重ねてきました。ボードレール、ランボー、マラルメといった近代詩や、バルザック、フローベール、プルーストと連なる近現代小説の流れは、この「読むこと」「書くこと」そのものについての自己反省的・批評的考察と切り離せないと言っても良いほどです。その延長線上に、20世紀のフランス語圏では、ヴァレリー、ブランショ、バルトといった批評家たちや、アルチュセール、フーコー、デリダといった哲学者たちが、それぞれ「読むこと」や「書くこと」について個性豊かな理論的考察を生み出し、同時代の書き手たちと刺激しあって仕事を続けてきました。彼らの仕事はけっして使い回しの効く批評や思想史の方法論ではありえませんが、仏文では、こうした現代の批評的・理論的考察については、積極的に邦訳文献もとりあげながら、私たち自身がどのようにテクストにアプローチできるのか、そしてどのようにテクストについて書くことができるのか、その「手つき」も学んでいくことになります。その学びは、「フランス語のテクスト」のみならず、日本語以下、さまざまな言語のテクストや現象を対象とする際にも、独自の視野を打ち出す基礎を固めてくれるはずです。


世界から「フランス」を見る

とはいえ、なぜフランスなのか —— 一方で、フランス文学・思想が日本人の一般教養であった時代が過ぎ、他方で、フランスをはじめとする西欧近代の文化が往々にして「西洋中心主義」の名の下に批判にさらされるようになった現在、日本人にとって縁の薄い外国語で書かれたテクストを大学で専門的に学び、研究することに躊躇する若い人も多いかもしれません。

しかし、「フランス語のテクスト」はけっしてフランス語を母語とする人たちだけのものではありません。実際、ルネッサンスから現代まで、フランスは西欧で中心的な位置を占めながら、政治的にはほぼつねに二番手の位置に甘んじてきました —— あるときは神聖ローマ帝国やスペインの競合相手として、あるときはイギリスやドイツの競合相手として、またあるときはアメリカ合衆国とソヴィエト連邦に対する第三極として。フランス語の書き手たちが、往々にしてそれぞれの時代の支配的潮流からは距離をとり、批判的でもあれば少々ひねくれてもいるスタンスをとることができたのも、一面では、このフランスの特殊な位置によってのことでした。

フランスはまた、18世紀末の革命以降、19世紀を通じて、きわめて激しい政治的動揺を経験した国でもありました。この近代世界最大級の動揺のなかで、フランス語の書き手たちは、近代社会がもたらした功罪をもっとも激しく、その内側から生きてきました。19世紀以来、20世紀後半までのフランス文学・思想が、しばしば同時代の政治や社会と鋭い緊張関係を持ちながら、自分たち自身が生きている時代と場所とを問い直してきたのもそのせいです。そのなかからは、スタール夫人、サンド、コレット、ボーヴォワール、デュラスといった少なからぬ女性の作家・思想家たちも生まれています。

フランス革命の余波のなかではハイチ共和国が創設され、また20世紀後半の脱植民地化は、フランスがアフリカ・アジア・アメリカに展開した植民地帝国をあらかた解体するか、共和国内部の海外県として位置づけ直す結果をもたらしました。近年では、こうしたフランスの外のフランス語圏の書き手たちの仕事も、フランス語フランス文学研究の関心のなかに収められるようになっています。ベルギーやスイスといったヨーロッパのフランス語圏のみならず、アフリカ・カリブ海・ケベックなど、ヨーロッパの外で書かれたフランス語のテクストを読み、フランスの外からフランスを相対化・対象化することも、現在の仏文研究にとって重要な課題です。

伝統的に大学では、同時代に数多く生み出され続けている現代文学の作品についてはその価値を適切に評価することが容易でないため、歴史的・批評的距離が取れるようになるまでは研究対象として取り上げないといった態度が主流でした。しかし、そうした同時代作品が、私たち自身にとって重要な、喫緊の問題を思考するのになんらかの助けになるのであれば、これを排除する理由はありません。「新しいから」といって飛びつくのは愚かな振る舞いでしょうが、「新しいから」といって避けるのも文学や思考に対してけっして正当な態度ではないでしょう。同時代の創造に寄り添いながら、文学研究もまた自身を更新していかねばなりません。次世代に引き継ぐべき21世紀の文学史は、私たち自身の手によって作られてゆくのです。