本文へジャンプLetzte Aktualisierung: 10. Juni 2009

 


教養学部1・2年生へ




4年生からのメッセージ


独文とはその名の通り、ドイツ語・ドイツ文学を専門にしている場所です。今年度は新たに、学部5名、修士2名、博士1名の学生・院生を迎え、学部9名、修士9名、博士16名となりました。独文に足を踏み入れた理由は、「ゲーテが!」「カフカが!」「ドイツ語が!」「何となく!」などなど、みんなそれぞれ異なりますが、ドイツ語という言葉を共通項にして括れる私達です。第2外国語がドイツ語だったから、という理由だけでも独文へ飛び込む資格は十分です。ドイツ語を読んで暮らす人たちの集まりですから。

さて、ドイツ語・ドイツ文学と言ってもたいへんに広いわけですが、先生方の担当ということでドイツ中世文学、ドイツ近現代文学、ドイツ言語学と三つに分けられます。院生も含め、半数程度が近現代文学を専門とし、残りの半数が半分ずつ中世文学と言語学を専門に選ぶというような具合になっています。近現代に人が集まるのは、やはり名立たる作家・作品が数多いからでしょう。そして、眼を見開かれるような理論に出会える研究対象でもあると思います。中世文学にも『ニーベルンゲンの歌』を頂点に面白い作品が残されています。古い時代に書かれた言葉や文学に触れるのは、失くしたもの、忘れられたものを探しにいく旅のようです。そして文学から少し距離を置き、ドイツ語を通して言語学の問題に取り組む人たちもいます。外国語学習者ならではの視点で、あまりに身近でありながら神秘に包まれている言語、そのひとつであるドイツ語を対象にして分析することは、きっと意義のあることです。

というのが、独文の本分といったところでしょう。普段は、助教室で、コーヒー、紅茶、緑茶どれにしようかな、と一瞬考えて、いつも通りポットからコーヒーを注いで、事務の長谷川さんが用意してくれたお菓子を目移りしながら選んで、ぼんやりと過ごしているような学生もいます。辞書室で自習をしたり、ベランダでタバコを吸ったり、うろうろしたり、みんな思い思いに独文の学生・院生をやっています。私達は、どんな思いを持っているのであっても独文に進学してくださる方々を歓迎いたします。

 





3年生からのメッセージ


大体の場合、と言わずとも筆者が半ばそうなのですが、文学部に来てしまう人の中には文学部に「進学せざるを得ない」事情を抱えた人というものが少なからず含まれていて、最も頻出なのが教養から社会学へと流れる大運河、次には取り立てて学問自体に、アカデミックな研究法に興味がわかない方々のための...

などなど、良い意味で深く考えずに生きている人が多い学部であるというイメージが駒場には流布しており、そのうえ、声高にこれを否定するだけの反証を私も持ち合わせていないのですが。

というように、延々と続く文体と、英語からは想像も付かない崩壊した語順がドイツ語の一大特徴です。何故そんなことを、と言えば、ドイツ語が出来なくても独文に来てくれていい、むしろ来て下さいというアピールに他なりません。私の体験談に入る前に、まずその一言を。

私自身のことを思い出してみると、専修を独文に決めた明確なきっかけはありません。敢えて言えば入学時の二外がドイツ語だったからという一事に尽きるのでしょうが、決め手になったのは独文の紹介文か何かで目にした「エッセイスト・ニーチェ」という一言であったかと思います。要はドイツ語圏にあったものならなんでも扱ってしまうよ、哲学も史学もないよという自由極まる雰囲気に惹かれたのです。

駒場で学んでいたときには、文学的な私の興味はむしろフランスにあって、ポール・ヴァレリーにはまり込み、三外でフランス語を学んだりもしていたのですが、どういう訳か独文に進学して平気な顔をしています。色々な言語や作家、漢文なども少しずつ食べ散らかしていると、やはり何かを集中して扱いたい、一つのことを考え抜いてみたいという欲求に...

というようなこともなく、全く気分で選んでいたような気がします。ドイツ語の得意不得意や卒論や就職等々、気にし始めると「楽なのかどうか」という基準がやはり顔をだすものだと思いますけれども、少なくとも私は、何となく選び、何となく決めるという態度で来て、少しずつながら自分の興味を活かしていく方途に考えが及んだり及ばなかったり出来ています。やはり深く考えていないのかも知れませんね。進振りの話題ですので一応触れて起きますが、独文に進学するのに学力だ語学力だということを気にする必要はゼロです。




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