女子校化した大奥――吉屋信子『徳川の夫人たち』
前川 晶
■吉屋信子の本意
吉屋信子(1896-1973)の『徳川の夫人たち』『続 徳川の夫人たち』全四冊(1969、朝日新聞社)は、江戸幕府・徳川家の大奥を舞台にした歴史小説です。もとは66年1月から68年4月まで朝日新聞で連載され、話題になったこの小説は、当時<大奥ブーム>を作るきっかけとなり、これよりのち徳川大奥は時代劇の素材として、数々のテレビドラマや小説、舞台や映画などにしばしば取り上げられるようになりました。弱冠二十歳で少女小説家として出発し、ついで大衆小説家として名をなした吉屋信子の、最晩年の代表作でもあります。ところが皮肉なことに、当の吉屋は自らが契機となった<大奥ブーム>に憮然とするところが大きく、「ああ呪わしき大奥ブームよ」といって嫌悪感をさえ持っていたようです。それはなぜか。吉屋は次のようなことを言っています。江戸城大奥の女性たちに関する資料はあまりに少ない。いや、多少はあるにしても、それらはどれもこれも「狂言綺語の俗書のみ」であって「皆彼女たちを、あるいは淫婦にあるいは毒婦に扱って、女性を性の対象とのみ見て“大奥”と呼ぶ禁男の女の世界を猥雑な修羅場をした戯作のたぐいのみ」だと吉屋は指摘しています。
吉屋が持った違和感は、何よりもこのような「猥雑な戯作」に対する反発だったと言っていいでしょう。ではその種の「戯作」を排して吉屋が書きたいと思ったのはどういうものかといえば、江戸時代において最高の身分の、貴婦人達が集う場所でもある江戸城大奥において「春日局以来たくさんの優れた当時の最高の教養を備えた女性がいたはずだ」。そういった優れた女性たちの姿をこそ描き出したいというのが、吉屋の本意でした。『徳川の夫人たち』はこのような吉屋の思いの上に書き綴られていったのです。
しかし吉屋の大奥に対するこのようなイメージは、良くも悪くもわれわれ一般が抱くものとはかなり食い違うものといってよいでしょう。ふつう大奥というと――女の嫉妬、憎悪、陰湿なイジメ、足の引っ張りあい――といったフレーズを誰もが思い浮かべるはずだからです。そのような<大奥>に対する関心のあり方は、悪く言えば女性だけで閉鎖された空間への覗き見趣味というほかはないからです。
しかも結果からいえば「最高の教養を備えた女性」を描いたはずの吉屋の物語が、皮肉なことにその種の覗き見趣味を助長し、それが現在のわれわれのイメージにまで影響を及ぼしているということになります。ちなみにフジテレビがはじめてテレビドラマ『大奥』を制作したのが、吉屋の連載が完結した同じ年の68年。その後83年、そして2003年と、三度にわたって『大奥』はテレビドラマ化されていますが、全般にその内容がどうしても女同士の泥仕合的なストーリー展開に偏っていることは、ある意味やむをえないことかもしれません。でもそれが吉屋の『徳川の夫人たち』の志向とはあくまでもまったく正反対であることを確認したうえで、その吉屋の大奥の描き方について触れていきたいと思います。
■女性側の語りに徹した『徳川の夫人たち』
「最高の教養を備えた女性」の活躍を描くために吉屋が取り上げたのが、『徳川の夫人たち』における三代家光の側室、お万の方・永光院(1624-1711)や、『続 徳川の夫人たち』の前半における五代綱吉の女官・右衛門佐(1650-1706)といった女性たちでした。お万の方はもと尼僧。門跡の伊勢慶光院の院主位を継承するため挨拶に江戸へ下向したところを家光に気に入られ、還俗を強いられて側室となった女性です。右衛門佐は京都の中宮御所に仕える女官。中宮が綱吉将軍の御台所・鷹司信子と姉妹であった縁から、側室に押されがちだった御台所の立場を補強するため、美貌と教養を謳われた彼女が招請されて江戸城へ乗り込むこととなるのです。
ここで注意しておく必要があるのは、『夫人たち』の語りの中心を支えているのが、主に大奥女中同士の一対の組み合わせだということです。それは将軍と女中といった組み合わせではありません。語りはあくまでも女中の立場からのみ、なされているのです。その組み合わせの中でも、物語中で最も重要な、『徳川の夫人たち』の主人公・お万の方と、大奥の高級女中・藤尾との組み合わせを見てみましょう。藤尾は、大奥の権力者・春日局から意を含められて、尼僧から無理強いに還俗させられたお万に、大奥へ入るよう説得するため配せられた付き人でした。しかし彼女は、意に添わぬまま無理強いをされるお万の方への同情や、そして何よりもお万の方の美貌や物腰、見事な教養や優美な立ち居振舞いに魅了されて心を傾け、ついに生涯をお万の方に捧げて過ごすこととなりました。お万もまた、そのような藤尾に対して信頼感を持ち、この二人の主従はお互いを「空気」のようにして寄り添っていきます。
■シスターフッドの繊細な関係
お万と藤尾のこの関係は、自らの意思によらずして押し付けられた外部権力の重圧や、体育会系的な盲目的服従によって成立しているものではありません。また狭義でのセクシュアルな欲望といったものとも無縁です。その二人の関係を具体例で確認してみることにしましょう。お万がようやく意を決し、大奥へ入って間もない頃、彼女は春日局に呼び出され、<側室としての心得>を申し渡されました。その内容自体は側室になる人間に対しての、良くも悪くも一般的項目でしかないのですが、そのときお万は、束縛されることへの反発と、おそらくは悪戯心も手伝ってか、
「わたくしとて、いつ“心得”にそむく過ちを犯すやも知れませぬ。そのときにはいさぎよく、春日局さまのお咎めをお受けいたします覚悟――」
――などと、聞きようによっては年上目上の春日局を嘲弄するような返答を、しゃあしゃあと言ってのけます。傍らに控えてそれを聞き、愕然となった藤尾は、退出するや否や、蒼白になってお万に訴えかけました。お方さまともあろうお方が、なにゆえあのような、ひねくれた物言いで権勢並びなきお局にくってかかるような真似をなさるのでございますか。
「(略)藤尾お傍で身も世もなき切なさ。もうこれでは、お方さまのお介添えは勤めかねると心で泣きました……」
藤尾の目は潤んでいる。声もおののいている。田安屋敷以来、日毎にお方さまに覚える愛情深まればこその嘆きであった。
「藤尾、許して……」
お万の方は、花の崩れるように藤尾の前に顔を伏せて、にわかに打ちしおれる。……(略)大奥へ入られてから早くも将軍の愛を独占したこの方が、いな長局のお部屋では、さながらいたいけな少女とさえ変わられるのを、目の当たり見て、藤尾はわが言葉の強気に過ぎたのが悔まれて、おろおろする。
たとえ相手の優れた美貌と教養に心から惹かれていても、だからこそ諌めるべきときには面を冒して諌める藤尾。気も強いけれども、真心からの諌言にはシュンとうなだれてしまうお万。それをみてかえって藤尾はうろたえる。――美貌や教養を媒介として、信頼と敬愛、喜怒哀楽の感情が両者の間を往来するこの繊細な関係は、呼ぶとすれば<シスターフッド>とでも呼ぶしかないでしょう。
■<女子校>化した大奥
いや、より正確に言えば、われわれはおそらく、この状態を名づけるのにふさわしい、適確な言葉をいまだ持っていないように思います。しかしそのことは今はとりあえずおくとして、『徳川の夫人たち』を決定付ける主要なモティーフは、まさにこういったシスターフッド的な関係なのです。ここでは江戸城大奥は、断じて会社でも役所でもない。強権や年功によって上下関係を強いるのではなく、このシスターフッドにおいては、教養や立ち居振舞の伝統が先輩から後輩へ伝承共有され、個々にインストールされていく課程で、親愛の情も尊敬の念も自ずと生じていく。ここ大奥はいわば少女小説で描かれる女子校にも比せられるべき場所であり、そのような女子校の世界を描くことこそが少女小説の大家・吉屋信子の原点であったことはいうまでもありません。
そのような女子校において、高貴な公家の出身であり、美貌と教養を備えたお万の方、あるいは『続 徳川の夫人たち』の右衛門佐は、自らの考案になる艶やかな衣装を身にまとい、涼風のふきわたる奥御殿で女中たちを前に端座して、澄んだ声で漢詩や更級日記の講義をするのです。こういった、いわば<お姉さま>的な特性を備えた女性たちが、大奥の女中達にとって、賛仰の対象にこそなれ、嫉妬や憎悪の対象になるはずはありません。
■<お姉さま>は嫉妬を超える
嫉妬や憎悪の対象になる場合があるとすれば、それは本人の理解力の問題か、でなければそのような彼女たちのすばらしさを直に見聞できないケースにおいてのことでしょう。後者の例として、『徳川の夫人たち』に登場する主要キャラの一人、家光将軍の御台所・鷹司孝子の場合を見てみましょう。夫家光に嫌われる御台所・孝子は、本丸大奥ではなく中の丸に別居させられている不遇の女性です。お万は召し出された当初から、公家の最高の家柄である摂家出身であるにもかかわらず、冷遇されている御台所のことを気にかけ、各大名から大奥への進物を匿名で届けさせたりして気を遣っていました。しかしそのことが結果的にかえって、将軍の寵愛を見せ付ける高慢よと、御台所を怒らせてしまうのです。
ここで注意しておく必要があるのは、中の丸に別居しているがゆえに、御台所がお万のことを直には何も知らなかったという点です。つまり御台所の立場からは、お万という人間の魅力はまったく伺いえない。お万が将軍の寵愛を受けるのも、女中たちから憧れの目で見つめられるのも、まず第一にお万自身に具わった具体的な徳性によるものですが、伝聞でしかお万を知らない御台所にはそれが分かりません。
そうするとロジック的には、たまたま将軍の寵愛を受けているから大奥で勢力を得ている、将軍の権力を媒介して勢力を得ているのだという結論しか出てこないでしょう。これは現実を転倒した、倒錯した結論なのですが、しかしその結論から憎悪や嫉妬が生まれても不思議ではありません。しかもこの場合、大奥が単なる政治空間ではなく、性の絡まった世界であるがゆえに、その憎悪や嫉妬もいささか生臭い形で露出するほかありません。御台所は他の女性を夫に<献上>することで、お万への将軍の寵愛を妨害しようと図るのです。しかしその疑いは、直にお万の声咳に接することによって雲散霧消し、御台所は自らの仕打ちを悔んでお万に謝罪。逆に京都出身の者同士で打ち解けて、これよりのち生涯にわたり、御台所・孝子はお万を無二の親友と心頼みにするようになりました。お万の<お姉さま>的特性は、正室・側室の枠の限界を越えて、親愛のシスターフッドを育んだのです。
■性生活の問題
しかし舞台があくまでも大奥であって<女子校>ではない以上、ここにひとつの問題があります。物語に性生活の問題が不可避に入り込んでくるということです。
『続 徳川の夫人たち』の右衛門佐の場合は、――プラトニックであることこそ、よりよく上様にお仕えする道である――と、将軍綱吉を篭絡することでかえって寵愛され、大奥総取締役の地位を手に入れて綱吉の「寵妾」ではなく「寵臣」としての立場を保持します。これに対してお万の場合は、多少複雑な経緯をたどります。もともと意に添わぬ還俗を強いられたお万は、家光と肉体関係を持つこと自体が苦痛で仕方がありません。それも家光が嫌いというよりは、なによりも肉体関係を持つということこそが苦痛なのです。「将軍家のお伽は、どのような無知な女も勤め得ること、なんのほまれになりましょう。(略)ほとほと、わが身、女に生まれしことが口惜しく、恨まれます」とかきくどく彼女にとって、かろうじて許されうる肉体関係とは、子を産むことで<母>となって浄化された肉体関係のみ。それのみがかろうじて容認できる関係でしかありません。藤尾はその心得違いを訴え、――お気の強い上様がこのところことのほか慈悲深くならせられ、穏やかな気性となられたのは、みんなお方さまが上様のお心を和らげたがゆえとみな申しております。「それほど御功徳あるおん身を何ゆえお恥じになりますか!」と諌めるのですが、お万のかたくなな心は解けません。
■和解と赦し
そのお万の心が変化を見せ始めたきっかけは、御台所の弟の貴公子、自らが家光将軍に勧めて江戸へ下向させ、身の立つようにしてやった鷹司信平との恋でした。自分は恋などしない人間だと考えてきたお万は、信平から寄せられるひたすらな思慕の情に心を揺り動かされると同時に、自らもまた恋を知る人間だった――良くも悪くも凡俗を超越した存在などではなかったのだと、身にしみて思い知らされることになります。
この認識はお万にひとつの悟りを開かせました。まねて親身な態度を見せてくれていた将軍家の姉・天樹院――すなわちかつての豊臣秀頼夫人・千姫――が、「その罪(=還俗)をあなたに犯させたのは将軍。御仏もあなたを咎められますまい」と慰めると、
「いいえ、上様は、かえって私をお救いくださいました。あのまま伊勢のお寺を継ぎましても、やがては女人の煩悩生じ、この世ながらの修羅の地獄に陥ったかと思いまする」
信平への恋を知って以来、彼女は、固くそれを信じている。
この認識は、いわばお万にとっての過去との和解であるといってよいでしょう。――無理強いされたせいで、思いもかけぬ今のわが身があるのではない。それはむしろあるべき自分の真の姿だったのだと、お万はまさに文字通り、悟りを開きます。こののちお万は、子供の生めない自らの身代わりとして二人の女子を京都から招き、侍妾として家光に仕えさせる一方、自分はただの大奥取締役に退いて、側室の地位を辞したいと願い出ます。本来なら激怒しても不思議のない将軍家光はそれを許し、なぜ自分がその願いを許すか分かるか?、とお万に問い掛けました。
「そなたのいまの願いを退けては、わしがそなたの心を失うを、おそれるゆえじゃ」
「…………」
「わしには、そなたは、ほかの女たちとはかけがえのないただ一人じゃ。それゆえに、このたびの、そなたのまことに憎い願いながら許そう……じゃが、そなたの心はわしの傍から生涯離さぬぞ、よいか、……そなたはわしの子は生さずとも、わしにかかることを言わせる心を生んだではないか」
この家光の言葉に涙を溢れさせたその時こそは、お万ははじめてそれまでの人生を正面から肯定できるようになった瞬間でもありました。数年後に家光が死の床について、――無理強いをしてきたそなたに償いをしたい、慶光院も及ばぬ立派な尼寺を建てるゆえ、わしのせめての償いを受けてくれぬか――と後悔と謝罪の言葉を述べたとき、お万はむしろきっぱりとそれを退けます。上様のご寵愛を受けた自らの人生は「悔いなき一生でございます」――それがお万の答えであり、その答えには家光は涙を浮かべました。一方的な暴力から始まった家光の愛は、その時点で本当の意味での赦しを与えられたのです。
性生活自体がどうでもよいことではないにしても、男女の関係において大切なのは性生活だけではない。惰性的な性関係オンリーなどよりもはるかに力強い関係を、この二人はすでに築き上げることに成功しました。そうやって築かれた両人の関係は、通常のヘテロセクシュアルティの無神経さ。つまり性関係さえあればそれで男女関係が成り立っているかのような錯覚とは、段違いの繊細さだといってよいでしょう。
■抵抗する<京都>と、無神経な<江戸>と
ここで少し話を変えますが、そのお万の方や『続 徳川の夫人たち』の右衛門佐は、公家の出身として心情的に朝廷寄りであり、朝廷が幕府の風下に置かれていることに対して<反発>しています。しかし肝心なのはそれが彼女たちに関する限りは必ずしもただの差別意識――無教養、粗野、成り上がりの武家に対する――というわけではない点です。じっさい劇中で、お万の方は自らが骨折って東下させた御台所の弟・信平が、武家に対する差別意識を剥き出しにすることを、謂れのない偏見として厳しく戒めますし、右衛門佐は活気あふれる江戸の町の光景に、因循沈滞した京都にはないエネルギーを発見して魅力を感じ、大奥入りする直前、寸暇を惜しみつつ市中を観覧して回ります。
では彼女たちの<反発>は実質的には何なのか。文中の言葉を用いるなら、それは結局、金と権力に物をいわせて、女性を男の「玩弄物」にしてのける。そのことへの反発に他なりません。じっさいお万の方は伊勢慶光院の尼僧として見参したところを無理やりに江戸に留め置かれ、右衛門佐は将軍綱吉を抑えるためのいわば道具として大奥へ招き入れられる。しかし彼女たちは、側室としての肉体関係を最終的に拒絶します。それでもなお家光や綱吉から絶大な敬愛や寵愛を受けて、大奥に君臨する彼女たちは、いわば江戸/幕府=男によって京都/朝廷=女が組み敷かれることに対して、その美貌と知性、教養と理想でもって立ち向かい、結果<男>を逆に屈服させてしまうのです。
この点で『徳川の夫人たち』と『続 徳川の夫人たち』上巻のモティーフは共通しているのですが、ただしあり方や結末が同じというわけではありません。家光とお万の美しい関係は、『続 徳川の夫人たち』の右衛門佐と将軍綱吉との間には無縁のものでした。右衛門佐はその美貌と才知を駆使して綱吉をコントロールし、仕える御台所のため、また朝廷や、天下万民のためよかれと努力を重ねるのですが、その努力は、才人ぶったナルシストにすぎない無神経な綱吉には、結局通じないことが徐々に明らかとなります。あげく生類哀れみの悪法で諸人を苦しめて反省もしない綱吉や、その周囲を囲みながら諌めることひとつしない男の側近たちに右衛門佐は絶望し、最後には神経を病んで淋しく世を去っていくのです。
<男>次第で人生の幸不幸にこれだけの落差が発生するお万と右衛門佐との違いを、吉屋の筆致は容赦なく描き出しています。
■お万の方と右衛門佐だけが目立つのはなぜか
ところで最近読んだ畑尚子『江戸奥女中物語』(講談社現代新書)によると、本作における吉屋の考証というのはかなり確かだそうですが、それにしても昔から不思議に感じていたことがあって、先述のとおり本書はお万の方だけで半分。続編の上冊は右衛門佐を中心にして展開し、その右衛門佐が死去より数年後、六台将軍家宣が将軍職を襲封した正徳元年、永光院が他界する時点で終了。そのあとは一気呵成で、下冊一冊において幕末、十三代家定夫人であり徳川将軍家の最後の家刀自――家族としての徳川家を差配する母親――である天璋院が、幕府瓦解で江戸城大奥を去る前夜まで進んで、全編の物語が終わります。要するに時代配分からいうと、あまりにもバランスを欠いている。下冊一冊だけで徳川三百年のうち二百年が過ぎてしまうわけです。
■嫡庶の別の強化と<お姉さま>の消滅
この疑問が『江戸奥女中物語』のおかげで氷解しました。本書によると、六代将軍家宣の死去後――ちょうど18世紀に入ったところ――を境として、それまで曖昧だった将軍正夫人と側室との区別が厳格化する。それまでは正室であるとういだけでは、夫が死んでしまえばそれまでで、じっさい前出の家光夫人、本理院・鷹司孝子が逝去したとき、血のつながらない四代家綱将軍は服喪さえしなかった。これは生前に、名義上の母親である嫡母扱い――今でいうところの養子縁組をしていなかったからです。
ところが四歳で将軍となった七代家継の場合、庶母(生母)である月光院とは別に、六代家宣の正室である天英院・近衛熙子が嫡母となっていた。このため天英院は月光院が従三位に叙せられるに先立って従一位に序せられ、家継将軍の母儀として万事に優先の取り扱いを受けるようになり、そしてこれ以降、正室が嫡母となることが慣行化します。
この変化はもう少し後になると可視的な差別――この<目に見える差別>というのが封建時代の本質ですが――として立ち現れるようになる。例えば家光将軍の時であれば、当時の大奥の図面によると、春日局やお万の方は、本丸大奥のど真ん中で、御台所の御座所に匹敵する広さの部屋を占めていた。しかもこのとき夫と不仲だった御台所・孝子は別居だったので、春日局やお万の方はまさに名実ともに大奥を差配していたわけです。
しかし江戸時代後期では、本丸大奥の<正式な住人>は御台所一人となります。側室は大奥本体ではなく、付属部であり使用人たちの住居群にすぎない長局(ながつぼね)に追いやられ、しかも正式な認定を受けなければ将軍家の家族扱い――<上通り>の扱い――さえされない。つまり子を産んだだけの道具、ただの使用人として留め置かれてしまうのです。
正室か側室か。――男との公認関係のみがその女性の立場を絶対的に束縛するというこの変化は、つまりは男女差別の制度的強化に他なりませんが、こういう環境ではもはやお万の方や右衛門佐のように、側室でありながら総取締として大奥の行政方にも目を光らせて、将軍家からも特別扱いされるといったシンギュラリティ的な存在は、ありえなくなってしまうでしょう。つまり<お姉さま>を見出しうるのは17世紀までなのです。とすれば、お万の方と右衛門佐だけで全体の四分の三が終わってしまう、一見奇矯な『徳川の夫人たち』の構成は、むしろ吉屋の鑑識眼の確かさを証するものなのだといってよい。大奥は徳川氏の家政を差配するだけの事務所と化し、シスターフッド的繊細さはそのような事務所化のうちに、失われていかざるを得なかったのです。
■シスターフッドの悲劇
いや、しかしそもそも、シスターフッド的な繊細さ自体が、そこに<男>が絡んできたとき、どこか掛け金の狂った、悲劇的な様相を見せ始める性質のものなのです。『徳川の夫人たち』の下巻後半は、家光将軍亡き後、幼君家綱治世下のお万と藤尾の生活を描きつつ、その最後に、明暦の大火で城中の貴顕が焼き出され、避難生活を送るシーンに至ります。
お万もまた藤尾ともども焼け出されて、とある寺院に間借りをするのですが、そのとき藤尾は、同じ寺に同居していた本理院(御台所・孝子)の侍女の口からひょんなきっかけで、本理院の弟・信平とお万との間に恋愛感情があったらしいことをはじめて聞き知りました。藤尾は、お万の心に気づかなかったわが身の鈍感さを責める。しかし同時に、どうしても一抹の寂しさを抑えられませんでした。
お方さまの悩みは藤尾の悩み、お方さまの苦しみはまた藤尾の苦しみで共通だったはずだ――それがなんと、お方さまの“恋愛”からは、見事に締め出されていたのを知ると、彼女はお方さまからつれなく受けた疎外感に、傷つかずには居られなかった。
藤尾の屈託を見抜いた永光院(お万)は、「もしそなたに打ち明けたとしたら、何とします。ただうろたえるだけではなかろうか」とさらりと返すだけで、藤尾をがっくりさせました。聡明なお万は、聡明すぎてかえってこのとき、藤尾の心情を思いやることができなかったのです。折からこのことのショックがきっかけで床についていた藤尾は、その病床のなかからお万に訴えかけました。
「(略)お方さまがお心の隙をチラともお見せなさらず、あまりに御立派過ぎて、お見事ゆえ、藤尾がとうていお心の中に近づけぬのがさびしゅうございます……」
永光院は、虚をつかれたように、一瞬、言葉もなかった。
お万はこのとき、鷹司信平への恋を殺すことで固めた「精神の武装」が、今の今になってどれだけ藤尾を傷つけたかに気がついたのです。お万はその晩、まんじりともせずに来し方に思いを凝らしたすえ、「(藤尾ゆるして、これからそなたにだけはわが心の隙を見せよう……)」と決心します。しかしそれはすでに手遅れでした。お万が決意を固めたちょうどその晩、藤尾は容体が急変し、だれも気づかぬ間に世を去っていたのです。
永光院は今にして藤尾が自分の生きるのに必要な空気だったのを、ひしと知った。宇宙を包む無色透明の気体これ無くしては人間は一刻も生きられぬのに、普段は忘れている。
藤尾は満たされぬ心を抱いたまま死に、お万には悔いだけが残されました。『徳川の夫人たち』はある意味での悲劇として幕を閉じるのです。
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