ブックタイトル東京大学文学部

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概要

東京大学文学部

History and Facts例えば文科大学哲学部に属し、印度哲学科を卒業という形である。しかし、他の分科大学にない「学部」の使用は許されず、3学科となった。選択の自由を認めたとて、学生への要求水準が低いわけではなかった。卒業には受験学科の定める必修科目を履修し、2か国語の語学試験に合格した上で卒業論文を提出して審査を受ける必要があった。語学試験では、国史や国文を専攻する学生も英独仏のうち2カ国語が必須である。この制度は日露戦争中の1904年9月から在学生も含めて適用されたが、試験の廃止を良いことにろくに出席せずに履修の認定を求める学生や、なかなか卒業できない学生がいるとして不評となり、6年後に廃止された。1904年の入学者を追跡すると3年後に卒業した者は半数に満たず、2名は7年かけて卒業したことを確認できる。このような大胆な試みが可能であったのは、当時の帝国大学で各分科大学の自立性が大きく認められていたからである。理・工科大学は3年制を続けていたが、法科は1898年から1914年まで4年制をとっており、文科が3年にこだわる必要はなかった。文科大学は、1910年には各年の最低履修科目数を定めることで3年修学を原則とし、受験学科を専修学科と改めて、入学時か2年次開始前に決める制度とした。語学の要求は緩和されたので、この制度変更は卒業生の水準の向上を目指したものではなかったようだ。文学部の再登場と戦時期1919年4月、高等教育制度の改革に伴い、文科大学は文学部に名称を変えた。21年には4月入学となる。文学部は3学科を廃止し、従来の専修学科を学科として19学科となった。この単位を研究室と呼ぶことが一般化し、1929年には2年続けて演習を履修することが卒業の要件になるなど、現在伝統的と思われている文学部の体制はこのころまでに固まった。1919年には高等学校も改革され、帝国大学進学を前提に、学部を問わない「文科」として学ぶようになった。これにより、文学部には、第一志望者のほか、例えば法学部が第一志望だが定員を超過して試験が行われたため文学部進学を余儀なくされた学生も入学することになった。日露戦争後には、卒業生の多い受験学科3学科の卒業生が全卒業生の4割弱で年による上位学科の変化も大きかったが、大正期には英吉利文学科・国文学科を上位の常連として4割台の半ばとなっていた。そして、文学部移行後の入学者では、この両学科と哲学科、社会学科を中心に5割を超えるようになった。そこで、1925年から希望者が多い学科について入学試験が行われ、この比率は3割程度に低下した。日中戦争期になるとこの比率は再び上昇し、39年入学者から英吉利文学が減少した後は、国文学と国史学が上位となった。1941年から修業年限の短縮が始まり、1943年10月には従来大学生に認められていた徴兵延期が停止された。これにより在学生の多くが大学を去って軍務に服し、少なくとも269名が戦没した。ほぼ当時の1学年の学生数にあたる。また、大学に残った学生も勤労動員されて、授業はほとんど行われなくなった。新制東京大学文学部の発足と変容東京帝国大学は空襲被害を受けなかったため、敗戦直後の1945年9月には授業を再開し、翌年からは女子にも門戸を開いた入学試験を行なった。哲・史・文の3学科に戻してこの単位で入学させ、従来の学科を専修と改めたが、これは、勉学の機会が乏しかった多様な学生に入学後に専攻を考えさせるためであったろう。1949年に東京帝国大学が新制大学としての東京大学に改編されると、文学部は再び専修を学科と改め、19学科制をとる。そして1951年に教養学部からの進学者を迎え、2年制の文学部教育が始まった。旧制の3年に比べ、履修が必要な単位は減らされたが、1年あたりでは2割程度増している。1950年には史料編纂所が文学部所属から東京大学の附置研究所に昇格し、1951年には教育学部の新設により、教育学科が廃止された。概ね新制に移行した1955,56両年度の卒業者を見ると、上位3専攻への集中率は4割、卒業者数が多いのは英吉利文学、仏蘭西文学、社会学であり、時代の変化が窺える。東京帝国大学は毎年卒業生の現職の調査を行っていたが、それによれば1900年、1920年ともに有職者の83%が学校教職員で、教育・研究の職に就くのが原則であった。1940年にはその比率が70%にまで低下してはいるが、銀行・会社員が4.6%で新聞雑誌記者の5.3%に及ばないなど、文学部の専門性を生かした就職が普通であった。しかし、戦後は従来通り教育・研究職を希望する学生が存在すると同時に、就職の希望分野や、学部教育への期待が多様化した。その中で1960年代後半に激化した大学紛争も含め、学生、教員ともに文学部のありかたを模索し続けてきた。文学部の最初の卒業生から課されていた卒業論文は、様々な議論の末、学科によっては1962年の卒業生から特別演習で代えることができるようになった。そして翌年度から、学科を専修課程に改め、四つの類に区分し、このうち文化学の第一類と語学文学の第三類では専修課程に属さない類卒が認められた。学問の性格の違いから、統一的にならないのが文学部らしい。この時、西洋近代語近代文学、西洋古典学が新たに専修課程となり、その後も、類の区分に合わせた専修の分化や、ロシア、イタリアの語学文学、社会心理学、イスラム学の新設、また改称・改編など学問の発展や時代状況に合わせた対応が重ねられて来た。1995年には第一類を思想文化学科、第二類を歴史文化学科、第三類を言語文化学科、第四類を行動文化学科として類卒を廃止し、2016年には1学科制となった。文責:鈴木淳(日本史学)25