ブックタイトル東京大学文学部

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概要

東京大学文学部

文学部の軌跡文学部は明治10年の発足以来、時代に即した使命と在り方を問い、わが国の人文学教育を牽引してきました。140年を超える長い歴史は、幅広い分野にわたる優れた研究の成果と、各界における卒業生たちの活躍に彩られています。先人の功績を伝統として受け継ぎ、進取果敢に革新へと挑む文学部の気風がいかにして生まれたのか。日本の近代化とともに歩み始めた創成期から、現代に至る軌跡の中に、その答えがあります。初外代山文正学一部長「文」の学問を編成しなくてはならなかった。最初の東京大学文学部文科大学の発足時には、従来の哲学、和文学、漢文学に博言(の東京大学文学部は、1877年4月、東京大学と共に誕生した。東京ちに言語)学を加えた4学科であったが、数年のうちに史学、英吉利大学は東京開成学校と東京医学校の合併により法・理・文学、独逸文学、仏蘭西文学の各学科を開設し、また政府の直轄で文・医の4学部で発足し、医を除く3学部の綜理には行われていた歴史編纂事業の移管を受けて文科大学臨時編年史編東京開成学校綜理であった加藤弘之が就任した。纂掛(現在の史料編纂所の前身)とし、その幹部を教授とする国史科東京開成学校は9月入学で東京大学もそれを引きを置いた。これら各学科の学生が卒業するようになった1893年、文科継いだため、法・理両学部は東京開成学校の関連大学発足8年目にしてはじめて卒業生が10名を超える。その1人がする学科を改編して発足当初から授業を行ったが、夏目漱石であった。引き継ぐべき学科がなかった文学部の実質的な発帝国大学に入学する学生は、第一高等中学校をはじめとする高等足は9月となった。文学部専任の教授は外山正一と中学で学び、それを前提に文科大学は東京大学文学部より1年短い2人の米国人で、ミシガン大学で学んだ外山も含め、3年制とされた。生徒は高等中学の予科から2年制の本科に進むとき、英語で授業した。文学部は4年制で、史学・哲学・政治学を学ぶ第一科と、和漢文学を学ぶ第二科が置かれた。東京大学予備門から進学する際に科を選び、4年生は専修科目を選んで卒業論文を書く。しかし、当初は和漢文学の教授は不在で、85年までの東京大学時代の卒業生で和漢文学を専修した人は2人しかいない。予備門の前身は東京英語学校であり、欧米の学問を学びたい学生が集まっていたのである。授業は一部に選択の余地はあったが、学年ごとに定められた科明治30年頃の東京帝国大学。正門から望む。目を受講し、第一科の学生も大学卒業生にふさわしい文章力を身に着けるため3年次まで和漢文学を学んだ。当初は転学部者を含めて2年希望する分科大学を決めたから、文科大学の体制整備が入学者に反生までしかいなかったので、政治学、理財学(political economy)映するには時差があった。その後、第一高等中学の後身である第一高の教員は翌年度の授業開始前に、後に哲学、美学も教えるフェノロサ等学校は1895年の入試規則で、文科大学進学希望者の入学枠を設教授が着任するまで不在であった。彼の着任後、史学は教員の適任けた。このように高等学校の入学試験で文科大学進学者が確保され、者が得難く、希望する学生が少ないとして専修科目から除かれ、代わ各地の高等学校が整備されたことにともなって、日露戦争ころには、りに理財学が加えられた。文科大学の毎年の入学者が百名程度まで増加した。1879年から科外で仏書講義が行われ、81年からは和漢学の教員井上哲次郎の挑戦も教授に任じられるなど、欧米学問以外の教育体制の強化も図られ、85年には加藤綜理の建議により古典学講習科を置いて別途学生を募文科大学とそこで教授すべき諸学問の発展を見て、東京大学文学集し、専門教育を行なった。しかし81年に文学部長となった外山は古典部最初の卒業生の1人であった井上哲次郎文科大学長は学生の選択学講習科には反対であったといい、臨時の措置にとどまった。の自由を大きくする改革を提案した。従来の学年末試験に合格しないと落第する方式をやめ、修学年限を3学年以上とし、入学帝国大学文科大学の発足時には、哲・史・文の3学科のいずれかに属し、勉学を1886年3月、東京大学は工部省や司法省が設けていた学校を合併進めた後に19の受験学科から一つを選び卒業試験して帝国大学に改編された。文学部はその下の分科大学の一つ、文科を受けるという方式である。彼が6年あまり留学した大学となったが、政治学及理財学科は法科大学へ編入された。東京ドイツの大学の制度に近い。「学科」が重なって紛大学文学部時代の卒業生47名のうち35名までは政治学か理財学をらわしいが、井上が全学の評議会に決裁を求めた専修していたので、この分野を切り離した文科大学は、改めて担うべき書類では、入学時に選ぶのは「学部」とされていた。井第上二代哲文治郎学部長24