Abdeljelil TEMIMI教授の講演要旨


アラブ世界における歴史研究の問題と発展:
オスマン研究、モリスコ学

この発表は、TabariやIbn Khaldounなどの中世の偉大なアラブ人歴史家や植民地前の年代記作者たちを取り上げるものではない。彼らの著作は思想的に豊富で貴重なものであるとはいえ、伝統の重みと受け継がれた様式を乗り越えるものでも、新たな歴史の見方を提示するものでもないからである。

現実には、アラブ世界における歴史研究は、より後の時代、とくに近年になって始まった。その発展の大筋を理解するためには、我々の歴史叙述が、20世紀初頭以後、オリエンタリストとアマチュア歴史家の二つのグループの専有物であったことに注意しなくてはならない。そして、植民地主義的であれ民族主義的であれ、それらのイデオロギー的な見方が、歴史叙述の仕方に強い影響を与えた。ここでは、それらの研究において採用された方法論や扱われた問題群を取り上げるのではなく、異なった教育を受けたが、特定の政治的経験を経た点で共通する大多数のアラブ人歴史家の台頭を促した歴史的コンテキストに関して、いくつかの説明を行うこととしたい。

・20世紀前半は、アラブ民族主義の誕生と台頭によって特徴づけられる。その中から、様々な時代に対する異なった歴史的見方が形成された。・ 歴史家と考古学者の縄張りであった古代は、アラブ世界中でかえりみられなくなった。

・ 反対に、アラブムスリム文明の時代としてみなされた中世が、あらゆるアラブ史研究の中で重要な位置を占めるようになった。著作者たちはこの栄光の時代にノスタルジーを持ち続け、発展させた。

・ 大部分のアラブ諸国家のオスマン化によって特徴づけられる近代は、多くの著作者たちの関心を集めた。しかし、その時代は好意的には見られず、トルコ人は植民者としてみなされた。

・ 現代は、民族主義と反民族主義によって支配された。

アラブ諸国の独立後、このコンテキストは完全に変化した。50、60年代にアラブ諸国に大学が設立され、それによって歴史研究の土台が築かれた。その研究成果は、60年代末以後に発表されるようになった。この新たな傾向について詳しく知るために、近代史における二つの専門領域、すなわち我が研究所が中心的な関心領域とするオスマン研究とモリスコ学をとりあげたい。

ところで、まず最初にふれておくと、この研究所は1974年に着想され、マグレブ近現代を対象にしたRevue d`Histoire Maghrebine(RHM)の出版をその成果とするプロジェクトの延長線上にある。

1982年以後、二つの専門的な大会、すなわちオスマン時代におけるアラブ地方史をテーマとする大会(最近の大会は第三次国際大会)、モリスコ学に関する大会(最近の大会は第9次大会)が組織された。1985年には、研究所設立構想が築かれ、1989年には図書館が設置された。1993年には、事務局と研究室、研究者用の宿泊施設が、1997年3月には、建物の残りの部分に多目的ホールが完成した。

研究所は、18000冊の蔵書を有する図書館のほか、地域的、国際的な様々な組織の拠点となっている。例えば、Arab Committee for Ottoman Studies(ACOS),Comite International d`Etudes Morisques(CIEM),我が研究所内に本部が置かれているArab Federation for Libraries and Information (AFLI)などである。数日前には、Histoire sur la Methodologie des mouvements nationaux au Maghreの大会の際にForum d`Histoire Contemporaineという新たな組織が創設された。

1982年以後、次の6つの領域において約50の国際大会を我々は組織してきた。

さて、上記二つの領域をみることによって、アラブ世界における歴史研究の現状を把握したい。次に、その主要な問題関心と発展を述べる。

1.オスマン研究

アラブ人歴史家の第一世代は、政治科学やアラブのマスメディアを支配していたイデオロギー的、民族主義的ビジョンの影響を受けていた。これらの歴史家の例として、Georges Antonios, Georges Zeiden, Satie El Hussariなどの名前があげられる。彼らの研究は厳密な科学的な方法論に基づくものではなく、むしろ、民族主義的なイデオロギーに呼応したものである。これらの研究は、マスメディアや大学も含めた政治的な場を介してアラブの世論を形作った。

1960年代以降、それまで流布していた政治的、民族主義的スローガンとは一線を画し、オスマン時代に歴史家の関心を集め、アラブやトルコの地方の古文書館にある埋もれた史料を用いてもらうために、歴史家を招聘する動きが数多くみられるようになった。例えば、カイロ大学ではChafik Ghurbel、ベイルートのアメリカン大学では、Zine Nour Zine、1970年頃にはアイン・シャムス大学でIzzet Abdelkarimなどである。このような動きは当初は限られていたが、その後、よりよい教育を受け系統だった若いアラブ人歴史家の世代が育ち、彼らによって、ハブースやファトワ、法的記録簿、土地台帳、財政的記録簿、ザーウィヤ文書など様々な文書史料が用いられるようになった。

我々も、1982年以降、2年おきに定期的な国際大会を開催し、様々な領域の専門家が意見交換を行う機会を提供するなどして、この高揚した動きに参加している。考えるに、トルコ人や諸外国の研究者たちとの交換と補完性の必要、オスマン時代全般に評価を下すことに留保せねばならないことに納得しないアラブ人歴史家はいないのではないだろうか。

21世紀を目前にして、アラブ史研究が1970年代まで広くみられたイデオロギー的著作と決別したことは明らかである。アラブ人のオスマン史家たちは、諸外国の同僚研究者とともに、信頼できる学術的な研究の発展に貢献した。彼らの、アラビア語、フランス語や英語での多様な著作は、オスマン時代のアラブ諸州の歴史の理解に関して言えば、明らかに優れた研究であり、極めて大きな価値を持つ。

偉大なオスマン研究者としては、例えば、シリアのAbdelkarim Rafek, Leila Sabbagh、エジプトのIssam Khalifa, Wajil Kawtharani, サウジアラビアのMohamed AbdallahEl Zulfa、ヨルダンのAdnan Bakhit、イラクのSayyer Al JamilとKhalil Ahmed、チュニジアのMohamed Hedi Cherif, Abdelhamid Heniaそして我々、リビアのHassan El-Surri,Mohamed Ukeil、アルジェリアのAboulkacem SaadallahとNacereddine Saidouniなどがあげられる。

定期的大会の組織化、様々な専門的研究所や雑誌の創設は、アラブ世界におけるこの学問領域の活気を表している。それは、定期的会合をもたず、認知された科学的な出版物をもたない他の人文社会科学の学問領域とは対照的である。

我々の研究所は、オスマン時代のアラブ諸州に関する我々の大会議事録を出版する責任をになっているほか、オスマン研究に関する専門雑誌Arab Historical Review for Ottoman Studiesを1990年より発行している。この16号は数日中にに発刊される予定である。そのほかにも、我々は数多くの論文を出版している。それらは、アラブ諸国の近代史研究の不可逆的でダイナミックなプロセスを証明するものだと言えよう。

2.モリスコ学

1492年のグラナダ陥落から1609年のスペインからの追放令にいたるまでのモリスコ研究が関心を集めるようになったのは、比較的近年になってからである。西欧、とくにスペインの研究者が、スペインの古文書の豊富さから関心をまず持ちはじめ、次いで、彼らの研究成果を通じてアラブ研究者もモリスコ研究に関心をもつようになった。40年にわたってこの問題領域に関して重要な研究を行ってきたAbdallah Ananをのぞくと、注目をひくに値する研究はなされていない。実のところ、アラブ人歴史家たちの関心は、アンダルシアのアラブムスリムの黄金時代により向けられ、モリスコの時代にはほとんど向けられていない。その結果として、大した科学的価値をもたない感情的な著作が多くみられ、それらの著作者たちは西欧のモリスコ学にもRevue d`Histoire Maghrebineにて発表された研究にも歩調をあわせていない。

実際、アラブ歴史家たちがヨーロッパの専門家たちの大会に参加したのは、Louis Cardaillac教授によってモンペリエで開催された1981年の「モリスコとその時代」に関する大会が初めてである。この大会によって、モリスコ学の未来は大きく方向づけられることとなった。というのも、以後、一連の定期的な国際シンポジウムがチュニジアで開催されることになったからである。いちばん最近では、1983年にチュニジアで創設されたComite International d`Etudes Morisquesとの協力で、「文学と芸術におけるモリスコのイメージ」に関する第8次大会が1997年5月に我々の研究所で開催された。これらすべてのシンポジウム議事録はすべて我々の研究所からスペイン語、フランス語、英語、アラビア語ですでに出版されている。というのも、この専門領域はアラブ、とくにマグレブの若い研究者だけでなく、まだ数的には限られているがマシュレクの研究者の関心を一層集めるようになっているからである。それらの研究者の中でも特に、以下の名前があげられよう。モロッコのHoussine Bouzineb, Ahmed Boucharb, Mhammed Ben Abboud, Mohamed Razouk, エジプトのJamel Abderrahmen, Serry Mohamed Abdellatif,チュニジアのMustapha Zbiss, Abdelhakim Gafsi Slama, Raja Yessine Bahri, Ridha Mami, Nejib ben Jmiaそして我々である。

<12月12日(金)午後6時-8時 於:国際学術交流センター(倉敷市)>


1569年から1588年におけるチュニス州のオスマン化の
始まりと、その行政及び地政学の実態

 

マグレブ史の分岐点である16世紀は、その歴史における大転換点であった。16世紀が様々な党派間の軍事的敵対の世紀であったとしても、それでもなおこの世紀が政治組織、永続的接触、地中海の南北両方から派遺された使節、直接的な利害と魅力による一時的同盟の、大変化の世紀であったことにかわりはない。16世紀は政治と宗教との不可分によって特徴づけられる。特に、我々は宗教が16世紀の人問 − スペイン‐オスマン間の紛争において − の思考や行動に深い影響を与えたという視座を失うことはできないのである。たとえ、その人がオスマン人であろうと、スペイン人あるいはヨーロッパ人であろうと、これは現実であり、西地中海において経験された政治的軍事的衝突(多様な形態をとっている)や事件を照らす触媒なのである。

マグレブにおける、部族的宗教的性格を帯びた地方諸勢力と分裂した諸政治権力間の果てしない抗争は、衰退、解体、政治的無秩序を促進した。Tunisのハフス朝末期の諸王 −−脆弱で無学、政治的知的能力に欠ける−−は、ハフス朝の全領域が在地のまたは外国の貪欲な諸勢力の餌食になるやいなや、Tunisやその近郊でしかその権威を行使できなくなった。我々は、こうしたことから以下のことを推測しうる。

それでは、マグレブはどのようにオスマン化されたのだろうか?

16世紀前半の間に、マグレブ征服のためにイスタンブルで議論された政策や計画の跡はどこにも見つからない。このオスマン化は、最初は、個人的野望によって企てられたのであった。

そのようなわけで、Alger とTripoli のこの二つの属分は、マグリブにおけるオスマン帝国の軍事的政治的行動の新しい戦略の中で、直ちに確かなオスマン属領の中に入ることになった。

我々が収集し、トルコ語から翻訳してきたミュヒンメ台帳の中に合まれる非常に多くの勅令は、マグレブのオスマン=トルコの3つの属州についての多くの主題、テーマ、問題に関して、はじめて我々の前に明らかにしてくれている。Tunisのオスマン化の過程は、オスマン政府の命令で、クルジュ・アリー(1508-87)に、この時ハフス朝の領土の内に残されたもの、すなわちTunisとその近郊、La Gouletteを併合するのを許したのと共に始まった。征服をめぐって様々な意志がある中で、我々は、Tunisのオスマン化に与した猛々しいクルジュ・アリーがこの計画を擁護し続けたということを決して忘れるベきてはない。

La Goulette やSaint Johnのスペインの城塞に対するめざましいこの軍事的勝利(オスマン=トルコの海上史における最後の勝利であったが)を得て、スィナン・パシャとクルジュ・アリ・パシャは同時にTunisを独立した一つの州と認め、それにハイダル・パシャに対してベイレルベイの称号を与えた。Tunis とLa Gouletteの征服者であるスィナン・パシャは、そのためにSousse, Monastir, Kairouan, Gafsaといった領地を直接彼自身の属領とすることを命じた。Tunisを行政的軍事的に強化することを決心し、オスマン政府はTripoli征服の間は、上述のこれら3つの都市がオスマン政府の管轄下にあると表明していたが、しかし、これら諸都市はTunisに緒びつけられることになった。こうして、Tunisのオスマン=トルコの属州の行政的地政学的実体か − Gafsaとその領土の帰属の位置づけが混乱しさらに曖昧なままであったけれども − 一応定まったのてある。確かなのは、Tripoliの方がGafsaに近いということかGafsaの統治に関して、Tripoliのべイレルべイがしばしば抗議したことといくらかの関わりがあったということである。

しかしながら、スィナン・パシャ(彼は、高級官僚から構成されたディーワーンの主席に3年の間任命された)はその地方にオスマン的行政を施した。我々は権力に対する様々な闘争を指摘する。この期間を通じて、我々は新たな史料により、Kuluoglu(クル・オウル)と先住民間の関係、住民に対して犯された不正、新しい軍事施設、南チュニジアにおける諸反乱、裁判制度の確立、イェニチェリの棒給、社会情勢などについて、かなりの量の情報を得た。

オスマン政府は、それ以降、Tunisの属州において、その行政的、政治的、軍事的安定を確立するために、努力を強いられた。そのことは、Kairouanの都市への住民の再植民に対して、シェイフや有力者違の特構的地位に開して、そしてとりわけこれまでの30年間苦しんできた属州の住民たちの裁判制度に対して、表明された配慮を説明している。

明らかかつ疑いのないことは、TunisとTripoliの二つの属州のオスマン化が全体的な行政的無秩序において形成され、反抗的で無知でその上徹慢なイェニチェリのこの特権階級の挙動がこの地域を不安定にし、幾人かの有力な長や住民の怒りやかなりの数の反乱を引き起こしたということである。Alger, Tunis, Tripoli といったオスマン=トルコの属州が、その領土の相対的独立に向かうための一定の成熟や政治・行政的な知識を得て、真の指導者すなわち国家の担当者達が現れるのには、16世紀の終わりまで待たねばならなかった。

<12月14日(日)午後4時-6時 於:京都外国語大学>
<12月18日(木)午後3時-5時 於:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所>