「公正:秩序の考えかた」研究会趣意書


 2年目は、「所有、契約、市場」の接点となるテーマを採り上げ、「原理的」比較を掘り下げることを目標に掲げた。6月の第4回研究会は、「市場の関係論的秩序」と名づけて、「相互に交渉するアクターの行動を観察し、解読するなかから、市場の秩序を生成的に」理解することを試みた。これは、生身の人間の行動や交渉の側から、規範意識や社会制度の形成を捉える試みである。第4回研究会では、主に社会制度をとりあげる形になったが、今回は、この規範意識を主題にしたい。これは、第4回の原洋之介報告における、「経済秩序は、文化信念というファクターなしには成立しない」という問題提起を受け継ぐものと考えている。

 人が物を所有し、人と契約し、交換・取引する。これらの行為が、あるときは正当な所有として保護され、別な場合には、盗みや略奪として排斥される基準はなんなのだろうか。現代国家では、合法であるか否かが基準となるが、それとともに、自然と人間、人間と人間の間であるべき関係(秩序)が想定されているように思う。このような基準を、公正とよんでみた。

 イスラム世界では、アドルという概念がこれに相当する。アドルは、神が命じた正義であり、とくに政治や行政に携わる人間の倫理であり、その反対概念であるズルムと対になって用いられた。アドルはまた、アダーラ(公平、衡平)を含意しており、社会的公正や公益を意味した。これは、単にイスラーム法の公準というだけでなく、行政法や慣習(アーダ)を含めた根本理念(コモンセンス)ともなっていた。

 アドルについて、なにがアドルでなにがズルムであるのかという、具体的な基準・尺度は存在しなかった。むしろ、現実の政策に対して、とくに、君主の政策や統治がそれに外れたときに、ズルムとして批判したり、あるいは、アドルの回復を祈願するという形で示された。食糧暴動のおいて、退蔵などの価格操作を批判する「神の価格」という言辞は、神のもとで正しい秩序を想定しているのだろう。

 同様の例は、明代の民変にみることができる。人々の念頭には、「万人の養生送死安老慈幼を実現するといった全体社会の普遍的利害」があり、「『公』を体現する全民衆が、善を体現する個人を支持崇拝し、あるいは悪を体現する個人を排撃するというスタイル」をとる。昨年の西尾寛治報告(第2回)にある「アディルなラジャは崇拝されるが、ザリムなラジャは敵対されるラジャ」という言辞やジャワの「正義王思想ラト・アディル」にも、ある理想的な秩序観が想定されている。

 このような規範意識や秩序観を議論する際に、つぎの点に注目したい。第一は、神や天のような超越的存在のもとでの正しき秩序が想定されている。とすれば、神意はどのように推し量ることができるか。理想状態は、現実には誰が、どうやって実現するのか、その担い手や手段が問題となる。天変地異は、天や神からの統治者への警告とうけとられたことは、中国の天譴論や黒死病の際のスルタンの対応にもみてとることができる。しかし、そこで神意を受け取り実現するのが、君主か、儒者か、聖者か、民衆の世論か、それによって、まったく違った政治プロセスがありうるのであり、そのようなせめぎ合いを問題としていきたい。第二は、規範は、抽象的な理念として語られることはあっても、その具体的な中味は規定されない。だからこそ、超歴史的に、あるいは社会階層や対立をこえて、受容され適用されうる可能性がある(この点では、現代世界の「自由」や「民主主義」という公準?も同様である)。しかしここでは、暴動や反乱といった集団行動や個々の訴訟や裁判、徴税といった対立の局面において示される秩序観をとりあげることで、どのような行為や政策が公正・不正とされたのかを問題としていきたい。第三に、公正が表象されるチャンネルや具体的な中味に、地域的歴史的な違いがあるとすれば、そこには、社会モデルの違いが写し出されていないだろうか。
 このような規範意識は、政治論として扱われることはあったが、本研究会のテーマとの継続性からいえば、所有、契約、市場取引といった局面での「公正」意識が議論されることを期待したい。しかし、あらかじめ議論をある枠内に収めることは本旨ではなく、この趣意書の見落としている論点も含めて、自由な報告と議論を期待している。

(三浦 徹)

<参考文献>

加藤博「イスラム社会の秩序システム」同『文明としてのイスラム』東京大学出版会、1995、pp.137-146。
長谷部史彦「都市の心性:前近代カイロの食糧騒動研究の視座から」『文明としてのイスラーム』栄光教育研究所、1994。
同「王権とイスラーム都市」『岩波講座世界歴史10』岩波書店、1999。
三浦徹「人びとの秩序」同『イスラームの都市世界』山川出版社、1997、pp.77-88。
岸本美緒「明末清初の地方社会と世論」「五人像の成立」同『明清交代と地方社会』東京大学出版会、1999。
関本照夫「ジャワの正義王思想」『世界史への問い6民衆文化』岩波書店、1990。