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第1セッション:The Concept of Territory in Islamic Law and Thought

第1セッションは、イスラーム法とイスラーム思想における地域の概念を主題とした。以下、各報告の要旨をごく簡単に紹介した後、概括と展望を述べる。

<第1サブセッション:Dar al-Islam as an Ideology>
Brannon WHEELER, The Islamic Utopia: From Dar al-Hijra to Dar al-Islam
 イスラーム思想においてダール・アルヒジュラは、都市と法の領域であり、その範囲は、預言者のスンナや、可視的象徴としての預言者の聖遺物の存在によって画定される。そしてそれらの到達地点が今度は発信地となってイスラームが拡大するのである。しかし髪や爪などの地上の生物としての生理現象や、儀礼や法の存在は、同時に人類がアダムが以前にいたエデンの園からの、そして神からの断絶の徴表であり、また預言者の聖遺物や預言者のもたらした儀礼や法は、人類がエデンの園に帰還することができるための方法でもある。

Michael LECKER, On the Burial of Martyrs
 イスラーム生誕は、それ以前のジャーヒリーヤ時代とは比較にならない程の大規模な戦闘を引き起こした。その戦闘の最中における死は、ムスリム同士の内乱におけるものであっても、イスラエルから借用した解釈により、神の意志に基づく殉教として、積極的な評価が与えられた。そのような解釈はやがて、イスラームの敵対者の領域に一歩でも近づいた場所で戦死することを称揚し、ムスリム戦士の戦闘を鼓舞する伝承や解釈を産み出すこととなった。

Haideh GHOMI, The Concept of Dar al-Islam in Sufism: Special Reference to Molana Jalal ed-Din Rumi
 ルーミーは『精神的マスナヴィー』の中で、スーフィーズムにおける一つのダールの概念を謳っている。そこではダールは、現実の地理的な概念を捨象し、物理的な存在や時間や空間を超越した世界として描かれている。またその住民もそれに相応して、宗教や人種や社会階層などの地上的な差別を知らない。その世界は愛し愛される者の世界である、なぜならば、これらの人為的な差別を持ち込むところには愛や幸福は生まれ得ないからである。注:報告者は、詩を朗読して、その韻律的な効果を強調したことを付け加えておく。

<第2サブセッション:Conception of Territory in Islamic History>
Elmostafa REZRAZI, The Iqlim and Political Identities as Established in Islamic Tradition
 イスラームにおける地域概念は起源を異にするさまざまな要素から成り立っている。第1に、クルアーンや預言者のハディースの記述の中には、ムスリムの地域概念に大きな影響を及ぼしたものがあった。第2に、イスラームの第1世紀に現れた、ムスリムの拡張政策を体現する地理概念がある。第3に、人文地理的な色彩を有する概念が見られる。第4に、ギリシャ起源のイクリームの概念も重要である。これらの様々な要素が、イスラームの地域概念を複雑にしている。

YANAGIHASHI Hiroyuki, Solidarity in an Islamic Society: Asaba, Family, and the Community
 イスラーム法上、社会集団は、大きく分けて、出自に着目して構成される場合と、コーランの規定を考慮して構成される場合がある。前者の原理は、解放奴隷の庇護者の地位の承継や、婚姻後見人の就任の順位に現れる。後者の原理は、扶養の権利義務の生ずる血族の範囲や、財産後見人の就任順位や、過失傷害の賠償責任を負う集団の定義において現れる。後者の場合には、イスラーム以前の出自に基づく原理は、イスラーム共同体の連帯に地位を譲っている。

OKUDA Atsushi, Two Dimensions of the Reception of Western Modern Legal System in the Territory of Islam
 イスラーム地域に成立した近代国民国家における立法は通常、家族法を例外として、西欧法の継受の成果であるとされる。しかしながら、法典を詳細に検討すると、むしろイスラーム法の発現の場になっている例を見出すことができる。しかしながら、イスラーム法にとって脅威なのは、近代法が基礎とする「権利の体系」の浸透である。「義務の体系」を基本とするイスラーム法は、行き詰まった近代法に対するある種の処方箋たりうるが、それにはクルアーン・スンナに依拠しつつ適正なイジュティハードが行なわれなければならない。イスラーム地域のセルフ・ガバナンスが試されている局面といえよう。

<第3サブセッション:From Dar al-Islam to the Modern Conception of Territory>
Tetz ROOKE, Colonial Borders Versus Natural Frontier: History Writing in Syria after the First World War
 シリアは、オスマン帝国の統治の後に帝国主義時代に植民地統治下に入る。やがてこれに抗して国民国家を形成しようとする運動が起こってくる。「シリアの民は単一のウンマである」というスローガンを掲げるこの思潮は、『シリア地誌』のきっかけであり、また成果であったが、そこでは、シリアの「自然的な国境」が存在することと、その証明が試みられた。

Iik Arifin MANSURNOOR, The Impact of Territorial Expansion and Contraction in the Malay Traditiona Polity on Contemporary Thought and Administration
 マレーシアにおけるイスラーム法の導入は、マレーシアの伝統や地理の特殊性を反映している。まず、マレーシアにおいては、イスラーム公法の大原則とも言えるウンマの概念とは相容れない、国家とは君主に属する領域であるという観念が残存し、その間のせめぎあいがイスラーム法の導入の態様と程度を規定することになった。このため、宗教指導者―その名称自体がイスラーム法と慣習の折衷であった―が君主に従属することになり、また同時に、イスラーム法が実定法の体系の中に組み込まれてはいくものの、それが唯一の支配的な原理となることを妨げ、結果としてイスラーム法と伝統的な法が共存・混在する法体系が出現することになったのである。

Eugenia KERMELI-UNAL, Custom Versus Theory: Ebu's Suud's Effort to Consolidate Shariah with the Ottoman Kanun on Land and its Impact on Crete
 オスマン帝国においては、慣習に起源を有する封建的な土地制度があり、これとイスラーム法上の土地制度をいかに調和させるかという問題が生じた。16世紀のたシェイヒュルイスラーム、エブースウードは、農村の土地の所有権はスルタンに属し、したがってその地税もスルタンがこれを決定することができる、他方、占有者がその土地の上に有するのは地上権のみであるとして、この問題を解決した。しかしこのような理論上の展開とは別に、新たにオスマン帝国領に組み込まれたクレタ島においては、その土地の慣習や事情に従い、旧来の制度が存続した。

第4サブセッション:Muslims in the Face of Dar al-Harb
OHTA Keiko, Migration and Islamization in the Early Islamic Period: The Arab-Byzantine Border Area
 7世紀前半にビザンツ帝国は、ムスリム軍の進入を防ぐためにシリアにおける境域に、後にスグールと呼ばれるようになる緩衝地帯を設けた。これに対してウマイヤ朝は、対ビザンツ帝国の足掛かりとして、ここに、主として非ムスリムからなる非アラブを入植させ、マッシーサの町を建設した。アッバース朝期に入ってから、戦闘員を含むムスリムの入植が始まり、さらにタルスースを初めとして新しい町も建設され、対ビザンツ遠征と防衛の拠点となった。しかし、カリフ、ムータスィム(833-42)は拡張政策を停止し、それとともにスグールの町も放棄された。

NAKAMURA Taeko, Territorial Disputes Between Syrian Cities and the Early Crusaders: The Struggle for Economic and Political Dominance
 十字軍は侵入直後からシリアの各都市と種々の外交協定を結んだ。その多くを占める経済協定は、両勢力の勢力関係を反映した破棄や条件変更を伴いながらも、更新、継続されていた。十字軍の領土獲得をめざす戦いは、実際には収穫を求めての争いであったため、境界を必ずしも明確に画定せず、協定によって係争地の収穫を両勢力で分けるという現実的な解決方法もとられた。十字軍を含めた12世紀前半のシリアの各勢力は、経済協定によって自らの政権の温存を図りつつ、軍事同盟やジハードを他政権の突出を妨げるための勢力均衡策として用いるという、共存と対立のバランスに乗った統治を行なっていた。

Hamidullah BOLTABOEV, Dynamism of the Notion of Dar al-Islam in Central Asia
 中央アジアにイスラームが浸透して以来、シャリーアは、人々の生活だけではなく、国家体制にも影響を与えてきたが、19世紀後半に始まる帝政ロシアの支配は、ムスリム住民の権利と尊厳を抑圧した。サルトの呼称はその一例である。これに抗して、フィトラトを初めとするムスリムの知識人は、イスラーム世界の連帯と改革を唱えた。ソヴィエト政権下でもイスラームに対する抑圧は続いたが、1991年のその崩壊後、再びイスラームの旗の下の連帯が叫ばれている。

Stephane DUDOIGNON, Beyond the Nothern Border: An Appeal for a Global History of the Siberian Muslimhood
 民族の呼称は、しばしば、現在の呼称が過去にそのまま投影されたり、古い資料に見られる呼称が恣意的に抽出されて現在の呼称になったりする。シベリアのムスリム諸民族に対する呼称も、過去において様々な政治的、経済的、文化的な要因が重なり合って付けられ、そのために、ある面では異なる民族が一つの名前で呼ばれたり、ある面では同じ背景を有する民族が別々の名前で呼ばれたりしており、その名前が指す対象も時代によって異なった。


<概括と展望>
 ムスリムの法学者は世界をダール・イスラーム(dar al-Islam、「イスラームの家」)とダール・アルハルブ(dar al-harb、「戦争の家」)の2つに分けている。多数派の定義によれば、ダール・イスラームとはイスラーム法の支配に服する地域であり、ダール・アルハルブとはイスラーム法の支配に服さない地域である。すると、理論的には、いまだ住民の大部分が旧来の信仰を保持している地域がダール・イスラームに入ることや、ある地域の住民のかなりの部分がムスリムでありながらイスラーム法の支配が行われなくなってしまうことがありうる。
 これらの状況は歴史的に見て実際に起こっており、第1セッションの多くの報告者もまたそのいずれかの現象に注目している。イスラーム初期の大征服期には、預言者の聖遺物や殉教などに関する伝承がムスリム戦士を鼓舞したとする内容の報告がそれに当たる。またイスラーム初期や十字軍遠征の時代におけるダール・アルハルブとの境域で起こった現象を分析した報告も見られた。またそれより後、ムスリムによって征服されたり、イスラーム法が平和的な方法で国家体制の中に組み込まれていく過程におけるイスラーム法の変容に着目した報告も見られた。
 逆に近代においては、西欧列強によるイスラーム世界の植民地化や併合の過程の中で、イスラーム国家は、多くの点で変革を迫られるようになった。その改革は、独立を目指すこともあれば、非ムスリム国家による支配の下でムスリムの政治的権利を獲得しようとする方向に向かうこともあった。それらの運動に共通して言えるのは、多くの場合、古典的なダール・イスラーム/ダール・アルハルブという地域概念がイスラーム世界において実効性を失ってしまったかのように見えるという点である。
 こうして見ると、イスラームに固有なダール・イスラーム/ダール・アルハルブという地域概念が前近代ではイデオロギー的に意味を有したが、近代以降においてはイデオロギーとしての意義を失ってしまったかのようである。これは元々このような地域概念が政治的にはさしたる意味を有しなかったからなのであろうか。それともたんにイスラーム世界が軍事・経済その他諸々の面で西欧に対抗することができなかったという近代的な現象と考えるべきなのであろうか。地域概念のダイナミズムを考察する余地は残っているようである。



柳橋博之(YANAGIHASHI Hiroyuki)

 

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