目的:東方イスラーム世界の民衆宗教に関する調査・研究ートルコおよびパキスタン

出張者:赤堀雅幸(上智大学外国語学部助教授)、今松泰(神戸大学大学院文化学研究科博士課程)、森山央朗(東京大学大学院人文社会系研究科研究科博士課程)

期間:2000年8月28日〜9月18日

出張地:トルコ、パキスタン

[活動の概要]

非アラブ圏であるトルコとパキスタンにおいて、イスラームの民衆実践の一形態である聖者信仰と聖者廟参詣がどのように行われているかを、限定された地域において実際に聖者廟を訪れ、インタビューを行うことで概観し、今後の詳細な調査のための下地を作成した。

[活動日程]

8/29 イスタンブル着。

8/30 イスタンブル・ヨーロッパ側北部聖者廟調査

8/31 イスタンブル・ヨーロッパ側西部聖者廟調査、ジェッラーヒー教団のズィクル参加
9/1 イスタンブル・ヨーロッパ側中央部聖者廟調査

9/2 イスタンブル・アジア側中央部聖者廟調査、アレヴィー集会所調査

9/3 イスタンブル・ヨーロッパ側北部・中央部聖者廟調査、スィナニー教団のズィクル参加

9/4 ジェッラーヒー教団のズィクル参加

9/5 イスタンブル・ヨーロッパ側北西部聖者廟調査、カーディリー教団のズィクル参加

9/6 イスタンブル・アジア側聖者廟調査

9/7 イスタンブル・アジア側北方郊外聖者廟調査、アレヴィー集会参加

9/8 イスタンブル・ヨーロッパ側中央部聖者廟調査

9/9 イスタンブル発カラチ着(空路)

9/10 カラチ聖者廟調査

9/11 カラチ発ハイデラバード着(陸路)、ハイデラバードとその近郊で聖者廟調査

9/12 ハイデラバード聖者廟調査、帰途、ハイデラバード発カラチ着(陸路)

9/13 カラチ聖者廟調査、カラチ発イスラマバード着(空路)

9/14 イスラマバード聖者廟調査、赤堀はイスラマバード発北京経由、今松、森山はイスラマバード発ラホール着(空路)

9/15 ラホール聖者廟調査

9/16 ラホール聖者廟調査

9/17 ラホール発イスラマバード経由

9/18 東京着

 以上が簡略ではあるが、調査の概要である。短期間にトルコにおいて40以上の、パキスタンにおいても20近い聖者廟を訪ねることができた。体力的にはかなりの負担のある調査であったが、アラビア語、トルコ語、ペルシア語の能力があり、専門分野も異なる3名の研究者からなるグループ調査はかなり効果的であり、イスラーム実践の地域性を目の当たりにするとともに、これまでイスラームに共通の要素と考えていたことを見直す機会ともなった。結果として、それぞれに研究にとっても大きな成果を上げ、また新たに共同の知見を築くヒントが得られ、派遣者3名ともにこの種の調査をさらに展開することの効用を実感することができた。出張者3名は残念ながら、ウルドゥー語あるいはスィンド語を解さなかったが、この点については、在カラチ日本国総領事館付専門調査員、佐藤規子氏の全面的な協力を得て、研究を進めることができた。これ以外にも同氏には様々な便宜を図っていただいた。ここに記して、深く感謝の意を表する。
 また、トルコにおける調査については、今松泰氏が詳細な研究報告を作成してくれたので、下記に引用する。調査に関わってくださった多くの方のご好意に報いるべく、パキスタンに関しても同様の報告を速やかに準備し、本プロジェクトの成果となるよう、早い時期に、今回の海外調査でえられた成果の全体をまとめ、発表する予定である。

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[トルコ調査詳細報告](今松泰)

イスラーム地域研究プロジェクト2班海外派遣(2000.8.28〜9.18)
「東方イスラーム世界の民衆宗教に関する調査・研究」調査報告.トルコ編

1.はじめに
 赤堀雅幸(上智大学),森山央朗(東京大学・院),今松泰(神戸大学・院)の3名は,2000年8月28日から9月18日まで上記海外派遣により,トルコとパキスタンにおいて「東方イスラーム世界の民衆宗教に関する調査・研究」を行った.
 ここではトルコで行われた調査に関する報告を行う.トルコにおける調査は,聖者廟を訪れ,タリーカ等のズィクルや集会に参加する形で,8月30日から9月8日まで行われた.期間中に訪れたところは以下の通りである.
 聖者とみなされている人々に関する情報は,煩雑を避けるため最小限にとどめている.また日付・曜日の横に( )内でその日の調査地域を大まかに記した.{ }内は通過する際に廟の存在と位置を確認するにとどまったもの.
(17世紀のエヴリヤ・チェレビー『旅行記』(第1巻イスタンブル編)でその名が言及されているものに*印を付けた.)

8/30 水曜日(エユップ〜トプカプ城壁沿い)
△廟:
・エユップ・スルタン(教友)*
・テッケジ・ババ(=タッケジ・イブラヒム・アー)
・メルケズ・エフェンディ(d.1552,下記スュンビュル・エフェンディの後継者)*
8/31 木曜日(ヴェファー,カラギュムリュク)
△廟: 
・シェイフ・ヴェファー(d.1485or1491,ゼイニー教団,イスタンブルにもたらす)*
△テッケ(ズィクル):
・ヌーレッディン・ジェッラーヒー(d.1724,ハルヴェティー系ジェッラーヒー教団の創始者)
9/1 金曜日(チャムルジャ〜ガラタ〜カスムパシャ〜シシュハーネ)
△廟:
・セラーミー・アリー(d.1692,マフムト・ヒュダーイーの弟子)
・ギュル・ババ(バヤズィト2世時代,ガラタサライの守護聖者)
・アフメト・テュラビー(d.1812,帝国造船所,船員の一人,カーディリー)
・ロフサ・ハトゥン(ラヒーメ・スルタン)(d.1647,『旅行記』では息子メイイトザーデの墓の記述で言及,名前は記載されていない.パーディシャーの娘とも伝えられる)*
9/2 土曜日(アジア側メルディヴェンキョイ〜カラジャ・アフメト・スルタン)
△廟およびアレヴィーのセンター:
・シャー・クル・スルタン(ハジ・ベクタシのハリーファのひとりとされる)
・カラジャ・アフメト・スルタン(d.before1397?,ベクタシーの聖者とみなされている)*
9/3 日曜日(ゼイレッキ,エユップ)
△廟:
・メフメト・エミン・トカディー(d.1745,ナクシュバンディー系ムジャッディディー教団)
・ゼンビルリ・アリー(d.1525,シェイヒュルイスラム)
・アシアル・ババ(不明)
・ゼイレッキ・ババ(ゼイレッキ・ムハンメド・エフェンディ(d.1506)のことか?)*?
・メフメト・エフェンディ(ハルヴェティー系ウッシャーキー教団)
・メフメト2世の兵士ムハンメド(不明)
・エシュレフザーデ(?)
・フズル・ベイ(d.1458,イスタンブルの最初のカーディー)
△テッケ:
・ウンミー・スィナン(d.1551,ハルヴェティー系スィナニー教団の創始者)*
9/4 月曜日(カラギュムリュク)
△テッケ(セマー):
・ヌーレッディン・ジェッラーヒー(二度目)
9/5 火曜日(カラキョイ〜トプハーネ〜マチカ〜ベシクタシュ,トプハーネ)
△廟:
・イェルアルトゥ・モスク内の教友3人
・イスマイル・ルーミー(d.1631,カーディリー教団,イスタンブルにもたらす,カーディリーハーネ)
・アフメト・トゥラニー(元キリスト教徒,セイイド・バッタールと同時代『バッタール・ナーメ』)*
・40人の聖者たち(正教会の聖者)*
・エキメッキチ・バシュ・アリー・アー(=ジュッベ・アリー,ゼイニー教団,イスタンブル征服)*
・シェンリッキ・デデ(不明,元靴職人であったと聞いた)
・トゥズ・ババ(メフメト2世の軍隊,イスタンブル征服,ベシクタシュの守護聖者)
・ヤフヤー・エフェンディ(d.1570,所属タリーカなし,ヒズルの教導(ウワイスィー?),スレイマン1世の乳兄弟)*
△テッケ(ズィクル): 
・カーディリーハーネ
9/6 水曜日(カドゥキョイ〜ルメリカヴァウ〜ウスクダル)
△廟:
・マフムト・ババ(d.1850,カーディリー,カドゥキョイの守護聖者?,1972年以降特に参詣される)
・テッリ・ババ(あるいはテッリ・ゲリン,メフメト2世の兵士とも伝えられる,2種の伝承あり)
・マフムト・ヒュダーイー(d.1623,バイラミー系ジェルヴェティー教団の創始者)*
・ムスタファ・デヴァティ(d.1659,マフムト・ヒュダーイーのハリーファの弟子)
9/7 木曜日(チャムルジャ〜ベイコズ,オルタチェシュメ方面)
△廟: セラーミー・アリー(二度目)
・クルクラル・スルタン(メフメト2世の軍隊?)*
・アクババ(メフメト2世の軍隊,イスタンブル征服,=アクメフメト・エフェンディ,ブハラ出身)*
・ユーシャ(預言者,モーゼの同時代人・友人・軍隊の指揮官)*
・ウズン・エヴリヤ(=レヴレヴィジ・ババ,メフメト2世の軍隊?)
・{チャクマック・デデ,テズヴェレン・ババ}
△アレヴィー・センター(ジェムに参加):
・カラジャ・アフメド・スルタン
9/8 金曜日(ガラタ〜チャルシャンバ〜コジャムスタファパシャ)
△廟:
・イスマイル・アンカラヴィー(d.1631,メヴレヴィー教団ガラタ・メヴレヴィーハーネのポスト・ニシン,マスナヴィーの注釈者)他*
・{コユン・ババ(メフメト2世の軍隊)}
・スュンビュル・エフェンディ(d.1529,ハルヴェティー系スュンビュリー教団の創始者)*
・チフテ・スルタン(フサインの娘ファトマとサキーネ,スュンビュル・エフェンディの廟と同じ敷地)
・スドゥカ・ハトゥン(元キリスト教徒,スュンビュル・エフェンディの廟と同じ敷地)
・ラマザン・エフェンディ(d.1616,ハルヴェティー系ラマザニー教団の創始者)*
△モスク:
・イスマイル・アー・モスク(近年までナクシュバンディーのズィクルが行われていた)

計画していたが時間の都合等で訪れることができなかった廟
エミール・ブハーリー(d.1516,ナクシュバンディー教団,イスタンブル初めてのテッケ)*
ババ・ハイダル・サマルカンディー(d.1550,ナクシュバンディー教団)*
シネチャク・ユースフ(d.1546,メヴレヴィー教団)
イスマイル・マーシューキー(d.1539,メラーミー(教団),イスタンブルで処刑)*
イチエレンキョイを征服したとされる聖者の廟
オルチ・ババ(不明)
ラーレリ・ババ(ムスタファ3世時代)
ソフ・ババ(メフメト2世時代,イスタンブル征服時に殉教)
デリヤー・アリー・ババ(メフメト2世時代,イスタンブル征服)
ヤウズ・エル・スィナン(メフメト2世時代)*?
ナルンジュ・メフメト・デデ(ムラト3世時代,メヴレヴィーあるいはハルヴェティー)*
ヤヴェドゥト・スルタン(イスタンブル征服)*
ババ・ジャーフェル(ハールーン・アッラシード時代.コンスタンティノープルへの使者,投獄されて殺された)*
シェイフ・ズィンダーニー(ババ・ジャーフェルの子孫,イスタンブル征服)*
 など

2.調査場所の選定について
 今回の調査では,一カ所にポイントを絞って一定期間継続的に調査を行うという方法を採らず,全体的なパースペクティヴをえるために,イスタンブル市内でできる限りの場所を調査するという方法を採った.イスタンブル以外の都市を視野に入れることも考えたが,期間が限定されているため,郊外に脚を伸ばす程度にとどめた.聖者廟をまわる際に考慮したのは,タリーカの著名なシャイフの廟とともに,出自・生涯等歴史的に明らかではないけれど,人々の間で広く知られているらしい聖者の廟をまわることであった.

3.墓の特徴
 上記訪問箇所一覧では,訪問箇所をすべて廟として統一しているが,立派な廟が建てられその中に棺が安置されているものから,墓だけしかないものまで形状は様々である.廟はモスクと複合体を形成しているものと単独で存在しているものにわかれる.またモスク内部に棺が安置されている場合もある.墓も墓地の一画にあるものと埋葬場所が孤立して存在するものにわかれる.墓のみの場合(廟やモスクの内部に棺が安置されているタイプではないもの)は,死体が埋まっているところが鳥かご状の鉄柵で囲われたものが多く,これを一種の廟とみなすことも可能である.
 廟が建てられているものはその外部に,墓がむき出しになっているものは,埋葬された土の部分に,ほとんどの場合,一本あるいは数本の木が植えられている.エユップでは廟の向かいに巨木がそびえる一角があり,その木に向かって祈願する参詣者の姿が観察された.
 ベイコズ方面にある廟のいくつかは,墓部分あるいは棺が異様に大きいのが特徴的であった.(ユーシャの墓17メートル,ウズン・エヴリヤの墓14メートル,クルクラル・スルタンの棺7メートル.この中でユーシャの墓に関しては大きさの理由となる伝承が存在するが,あるいは墓の大きさが伝承を生んだ可能性もある.)

 4.参詣の方法
参詣者は墓に向かって祈願する.また柵や棺自体に手を触れ,接吻する.クルアーン,特に「ヤースィーン章」を誦む.また別の参詣者に砂糖(トルコ語を直訳すると「誦まれた砂糖」)を配る.これは善行を施すことにつながる.蝋燭をともすこともある.上述のごとく木に向かって祈っている人もいる.テッリ・ババでは廟にある銀線(銀の短冊の細いもの)を持ち帰り,願がかなったときにそれを再びもってくる.(テッリ・ババのテッリはテルをもった,すなわち糸をもったという意味.)
 願がかなったならば,トルコ語でアダックといわれる犠牲・献納物を捧げる.アダックは願を掛ける行為を意味するとともに,願がかなったときに捧げられる犠牲・献納物そのものもさす.アダックに規定はない.祈願者が自らの願にふさわしい,相当すると思うものを捧げるとされるが,我々は鶏の首が切られるところのみを目撃した.(セラーミー・アリーの廟ではまさに次々に鶏が首を切られた.)これは鶏が値段的にも妥当だからであろう.献納され首を切られた動物は周辺の貧者等に分配される.すなわち善行である.首を切る区画はふつう廟の脇や裏手に存在する.廟によってはアダックを受け付ける旨が垂れ幕に書かれ大きく掲げられている.メルケズ・エフェンディの廟ではアダックとして箒,電球などが捧げられると聞いた.
 ある廟には以下のような注意書きが掲げられている.(幾分古いもの)
・墓を参詣することは,我々の宗教においてスンナである.この参詣の際には,礼を尽くして敬意を示し,死者の霊魂にクルアーンを誦むこと.
・廟において,蝋燭を燃やすこと,布を結びつけること,祈願の石をくっつけること,お金を投げること,犠牲を切ること,直接死者から願いをえようとすることは,我々の宗教において禁止されており,罪である.
・墓は死者から教訓を得るために参詣される.(イスタンブル・ムフティ局)
 別の廟にある同様の注意書き(上述のものよりも新しい)では
・廟において,砂糖を配る,糸をほどく,布を結びつける,お金を投げるというような諸行為は禁止かつ罪である.とされている.
 アレヴィーについては後述する.

3.参詣者
 参詣者のほとんどは女性からなる.ただ,土曜日・日曜日は休日であるから男性の割合が普段より若干高くなるようである.著名な廟には各地から人が訪れる.
 いわゆる宗教熱心な人,信心深い人だけが訪れるかというと,必ずしもそうではないようだった.そうした人の割合はもちろん高いであろうが,セラーミー・アリーの廟にはタンクトップの女性が参詣に訪れていた.もちろん廟の敷地内にはいるときには頭にスカーフを巻くのであるが,トルコで宗教熱心な女性が,普段このような服装をしているとはあまり考えられない.参詣者は広い階層に及んでいると考えられる.

4.参詣日
 参詣日は必ずしも決まっていないが,金曜日の昼過ぎが最も多くの参詣者を集める.ちょうど金曜日の昼過ぎに訪れたセラーミー・アリーの廟には,100人を超える人達(ほとんど全員が女性)が集まり,墓に対して祈願し,「ヤースィーン章」を誦み捧げていた.また出張でやって来たイマームが参詣者全員を前にしてコーランを誦んでいた.
 郊外にある廟は土曜日・日曜日に訪れる人の数が増える.

5.参詣の目的
 参詣の目的は各人様々であるが,聖者にはそれぞれ特徴があり,御利益が違うと説明を受けることがある.例えばテッリ・ババは女性の縁結び,ロフサ・ハトゥンは子授けで有名である.テズヴェレン・ババはその名の通り,願いが早く叶うことで有名である.しかし普通は,どんな願いでも関係なく叶うと考えられていることが多い.
 参詣の目的は功徳を積むこと,祈願することにあるが,同時に物見遊山・行楽を兼ねる場合がある.市街地から離れたところにある廟の場合,廟参詣自体が遠出であり,日常生活からの一種の逸脱となるため,物見遊山・行楽の性格をもつことがより多い考えられる.

  6.参詣のネットワーク
 いくつかの廟に関しては何らかの参詣のコースめいたものができあがっているようであった.これはある地域に廟が固まっているために参詣のコースができあがっているものと,必ずしもそうでないものにわかれる.
 前者は市街地から比較的離れたところにある場合が考えられる.ベイコズ地区にある一群の廟は密集しているわけではないが,市街地から離れており,遠出をして出かけてきた人々の一部は可能ならばいくつかの廟をまわろうと考える.テッリ・ババの廟は孤立して存在するが,ベイコズ地区と海峡を挟んだほぼ向かいに位置している.それゆえ廟参詣が行楽の中に位置づけられることも多いと言えるが,対岸にある一連の廟の参詣ネットワークにどの程度組み込まれているかはまだわからない.ただ意識の上ではつながった面を見いだせるかもしれない.
 後者は参詣者個人の動機に関わる場合が多そうであり,必ずしも明らかではない.同じタリーカに所属していたなどの理由が考えられるかもしれない.メルケズ・エフェンディの廟を参詣する人は同様にスュンビュル・エフェンディ,ウンミー・スィナンの廟を参詣することがある.ただ調査の絶対数があまりに少ない上,お薦めの参詣地として同時にメフメト・エミン・トカディーの名が挙がることもあり,何らかの結論を導き出すためには,より一層の調査が必要である.
 広く各地から参詣者を集める廟ともっぱらその地域の人によってのみ参詣される廟があるのは当然のことであり,特別言及を要さないが,地域によっては聖者の序列めいたものができあがっているようである.例えばベイコズ地区の聖者の筆頭はユーシャ,次いでテズヴェレン・ババがつづくと説明する人に出会った.こうした考えは地域内にある一群の廟を一つにグループ化して考えることがあるということを示している.しかしこうした考えがどれほど他の人々に共有されているかはわからないし,参詣にどれだけ影響を与えているかも今の段階では不明である.(ちなみにイスタンブル全域に関していうと,ほぼ100パーセントの人々が,第一はエユップであると考えている.)
 参詣地に関するマニュアルめいたものが存在するのか,単なる口伝てに意識ができあがっているのかは,これも今のところ明らかではない.

7.「新しい」参詣地の出現?創出?あるいは格付け? および廟の整備
 聖者廟の中には近年になって多く参詣されるようになったものが存在する.カドゥキョイにあるマフムト・ババの廟は,30年ほど前の土地開発・整備の際,工事で撤去できなかったという理由で,これが聖者の奇蹟を顕わすものとして有名になり,以降人気をえた聖者廟である.この話は当該廟にまつわる奇蹟として語られるが,今回訪れなかった廟でも同様の理由で有名になった廟があるという.
 古くから知られていたものの中でも,近年になって大々的に参詣者を集めるようになったものがある.ユーシャの廟は,かつて墓とそれに付設するモスクしかなかったが,10年ほど前に周囲が整備され,多く参詣者を集めるようになった例の一つである.今ではテレビのCMでも宣伝がなされているらしく,一種の観光地の様相を呈している.
 メフメト・トカディーの墓に関して,現在多数の参詣者が訪れている廟は新しく創られたもので,すぐ近くにある墓がもともと埋葬されていたところであるという説明を受けた.
 廟のなかには,そこに埋葬されている聖者に関する説明書きがつけられているところも多く見受けられる.アク・ババの廟につけられた説明書きは,この人物がメフメト2世時代の人物であると確定されたため,近年になってつけられたという説明を受けた.
 トゥズ・ババの廟にかけられた説明書きは,聖者について現代に書かれた一般向き書物の中の記述から引用されたものである.この書物がでるまで,知る人ぞ知るきわめて地域限定型の聖者であった可能性も否定できない.(今回訪れたとき,周辺の人は廟および所在地についてよく知っていたが,各地から広く参詣に人が訪れているかどうかはわからなかった.この廟は同名のモスクと同じところにあり,モスクに礼拝に訪れる人を観察しえたのみで,廟自身を参詣している人の姿は見なかった.)
 上述のごとく,近年になってより多くの参詣者で賑わうようになった廟が存在する一方で,寂れてしまったように見える廟もいくつかある.訪れた曜日・時間がそれぞれ異なるため印象に基づく安易な比較はできないし,寂れたと断言するには継続的な調査が必要であることはいうまでもない.ただかつてよりも参詣者の数が減ったと説明を受けた例がある.テッケジ・ババの墓はトプカプからテオドシウス城壁を出たすぐ外にある.(墓自身は,16世紀のタイルが内部の装飾に使われていて観光地としても有名な同名のモスクの傍らにある.モスクの敷地内にいささか古びてしまったテッケジ・ババに関する説明書きが存在する.)テッケジ・ババは,自身に関する伝承が現代の書物に記載されるほどには有名であったと考えられるが,以前すぐ近くにあった長距離バスターミナルの場所が移り,その後隣接してしたバザールが撤去された結果,辺りは荒涼としてしまい,訪れる人の数が激減した.

8.「聖者」に関する人々の知識と意識
 廟でそこに埋葬されている聖者に関する質問をしてみると,説明書きがあるからそれを読むようにといわれることも多い.聖者は書承によって伝えられる人物ともっぱら口承によって伝えられる人物に大別されようが,かつて口承によって伝えられてきた人物についても,何らかの形で伝承が文字化されて再生産され,一般の人がそれにアクセスできる現代では,廟につけられた説明書きが人々の知識を規定していく.聖者に関する口承とその文字化,文字化されたものが口承に及ぼす影響,および文字化されたもの自身の記述の伝統に関する問題は,伝承の循環現象という視点からも,常に念頭に置いておくべき問題といえる.
 現代においても,聖者に関する情報に対して,反応は人によって様々である.ユーシャの伝承に対する人々の反応を例に挙げる.この聖者が腰から上の上半身だけで17メートルあったという伝承に対し,ほとんどの人がそれは「お話」にすぎないと述べるのに対し,あくまでも本当にそうだったらしいと語る人々がいたことは,現代の都市における調査だっただけに,我々の想像を絶するものがあった.(ユーシャの廟で配られるパンフレットに上記の伝承は記載されていない.)こうした意識のもちようの差が何に由来するのかは,また別に調査されなければならない.

 9.「聖者」分類の試み
 聖者として参詣される人物が元来どうした人物であったかについては,上記訪問箇所一覧で簡単に示しておいた.歴史的に人物が確定できる者と伝説のレベルで記述に残る者,(今の時点では)何らかの記述も見いだせない者など様々である.聖者の分類が聖者信仰のあり方とどのように関わってくるかはまだ明らかにすることはできない.
 トルコの聖者という関心から,いわゆるガーズィー・スーフィーの問題をとりあげる.トルコ人のアナトリア侵入からオスマン朝初期にかけて,ガザー・聖戦を遂行したスーフィー「聖者」の重要性はここで繰り返すまでもないが,聖戦を遂行した人物が元来スーフィーでなくとも「聖者」として崇敬される例も枚挙にいとまがない.「聖者」がガザーに参加したのか,聖戦を遂行した者が「聖者」となったのかを明らかにするのは非常に困難であるけれども,ただ現時点で一つ言えることは,現在聖者として崇敬されている人物に,メフメト2世,特にそのイスタンブル征服に何らかの形で関わった,あるいは関わったとされる者が多いことである.例えばトゥズ・ババは塩不足に陥った軍団に,奇蹟により塩をもたらしたと伝えられる(トゥズはトルコ語で塩の意).イスタンブルでの調査なので,イスタンブル征服および征服者メフメト2世に関係する人物が多いのは当然であるが,同時にイスタンブル征服という偉業が聖者を大量に生み出す契機となったことは事実であろう.
 キリスト教徒との関係に言及するならば,アフメト・トゥラニーが興味深い例を提供する.彼は『バッタールナーメ』の中で,セイイド・バッタールの好敵手として登場し,酒を飲まされて行ったシャハーダによってムスリムになったとされる.40人のキリスト教徒が殉教したと伝えられる正教会の聖域の一つ「40人の聖者」の泉は,アフメト・トゥラニーの廟のすぐ真下にあり,元来同じ聖域であった可能性がある.キリスト教の聖地が同時にムスリムの参詣地となった例は,ゲオルギオスとサル・サルトゥクの同一視などの例で確認できるが(逆の例も存在する.エユップにもキリスト教徒が詣でた),アフメト・トゥラニーの改宗譚はイスラーム側のキリスト教聖地の取り込みの一例と考えられるのではなかろうか.

10.タリーカ
 トルコでは,1925年アタテュルクによりタリーカが閉鎖されてから公的な活動は禁止されているが,現代トルコにおいてタリーカの存在,活動を無視することができないのは周知の通りである.スレイマンジュ,ヌルジュ,フェトフッラージュと称される勢力はタリーカ(ナクシュバンディー教団)にその起源が求められるし,政治指導者とタリーカとの結びつきもよく知られている.
 今回の調査では,ハルヴェティー系のジェッラーヒー教団と同スィナニー教団,およびカーディリー教団のズィクル,集会に参加した.(ただこれらは教団として表看板を掲げているのではない.)
 ジェッラーヒーは観光客として外国人(女性を含む)も受け入れている.我々はズィクルの日にはその前の共食から参加したが,共食から参加しなかったセマーの日には,他の見物人とともに別の一室で待機した.待っている間,教団の人が英語でスーフィズムについてレクチャーしていた(この人物がもっていた本のうち一冊はA.Schimmel の"Mystical Dimentions of Islam" であった.)カーディリーは儀礼の公演を何度もヨーロッパで行っており開放的な性格を感じさせた(これはシャイフ(イスマイル・ルーミーの子孫)の人柄によるのかもしれない).ウンミー・スィナンの子孫の家では,ズィクルというよりも,セマーの性格を帯びた集会に参加したが,ここは修行・儀礼を伴うタリーカというよりも,クラブ的な性格が濃厚であるように感じられた.
 今日タリーカは欧米に進出し,一種のオルタナティヴとして成功を収めたものも多いが,こうした欧米の流れとも密接な関係を持ちながら,タリーカを存続させようとしている面があるのではないか.それぞれに特徴・現状は異なっていたが,共通することは,新しく外に開かれた形態をとっていることであろう.ズィクル・集会への参加者にはそれぞれ違いが見受けられるが,これにはタリーカのあり方や方針の違い以外にも,一種の経営能力が反映している可能性がある.
 タリーカ間にきっちりとした境界をひくことが可能かどうかを考えさせられる事例にも遭遇した.一人の人間が複数のタリーカに帰属すること自体は普通の現象であるが,ジェッラーヒーのズィクルではメヴレヴィーの人間が一人混じり,メヴレヴィーのセマーを行っていた.このことについて,質問をぶつけてみると,「我々はあらゆる要素を集めているのだ」「あのメヴレヴィーの儀礼も今は我々も行う」「いやあれは我々に固有の様式ではない」など様々な答えが返ってきた.なぜこうした別の要素を混入させるかについて,結局のところ確かな回答を得たとは言い難いが,タリーカ間で様々な行き来があることは確かである.ウンミー・スィナンの子孫の家で行われた集会には,アメリカでリファーイーのテッケを成功させた人物が顔を見せていた一方で,アレヴィーの人も参加していた.子孫の一人に話を聞いたところ「我々は,ここに来たい者は誰でも歓迎するのだ」と答えた.またカーディリーの道場には,ハルヴェティーの旗が壁に掛けられていた(ズィクルへの参加者は古くからの帰依者のみで構成されていたようであった.)上記の事例が最近の現象であるのか,そうでないならば制度・組織としてのタリーカが実際はどのようなものであったのか,歴史的な面からももう一度考え直す必要を感じさせた.

11.アレヴィーの活動(とイスラーム保守層)
 今回訪れたアレヴィーのセンターは二つともベクタシーのテッケとして古く知られていたものである.どちらのセンターにも共食の場所,ジェムといわれる儀礼を行う場所(ジェムハーネ)がある.シャー・クル・スルタンのジェムハーネには12人イマームの名前が書かれ,カラジャ・アフメト・スルタンのジェムハーネにはアリー,ハサン,フサイン,ハジ・ベクタシ,カラジャ・アフメト,ケマル・アタテュルクほかの肖像画が掛かっていた.
 カラジャ・アフメト・スルタンで参加したジェムから,その様子を簡単に記述してみる.ジェムハーネの正面にはテッケの指導者が座り,正面を向いて右側に女性,左側に男性が座る.指導者は講話をした後,自らサズをひきながら詩を歌う.その後何人かの男女がデデの前で輪になって座り,サズの伴奏と歌に合わせて中央に進み出て踊る.デデの補佐人が聖水とおぼしき水を振りかける.これは輪に集まった男女だけではなく,参加者の一部にも届く範囲で振りかけられる.こうした儀礼の間に何度か平伏する機会がもたれる.
 食事はアレヴィーだけで行われるのではなく,訪れてきたすべての人に無料で振る舞われる(アレヴィーでない近所の人も食事に来ている).ジェムは食事のあとに行われたが,これはタリーカにおいて共食のあとにズィクルを行うのと同様の手順であった.ただジェムを行わない日でも食事は振る舞われる.
 シャー・クル・スルタンではサズ教室が開かれていた.他にもパソコン教室が開かれている.シャー・クル・スルタン,カラジャ・アフメト・スルタンともにアレヴィーに関する書籍,グッズを売る売店が併設され,文化活動同様,盛んに広報活動がなされている様子が窺える.
 アレヴィーの人々も墓参詣を行う.ジェムが行われる日にカラジャ・アフメト・スルタンを訪れた際には,見た限りすべての来訪者がカラジャ・アフメトの棺に詣でていた(棺は建物の入り口すぐの部屋にある).シャー・クル・スルタンでは,ジェムハーネの裏手にある墓を参詣する人を確認できた(訪れた日はジェムが行われる日ではなかった).
 カラジャ・アフメト・スルタンには祈願の石がある.人がこの石(石柱)に小石をくっつけることができたならば願いが叶うという.シャー・クル・スルタンには祈願の石ならぬ,祈願の木がある.この木に手を触れて,そこからの脈動が感じされるときに願いを発したならば,その願いが叶うという.
  アレヴィー自身が自分たちをどのようにアイデンティファイしているかという問題について,いかに若干の例を挙げて述べたい.何人かに自らをムスリムと考えるかという質問をしてみたところ,ムスリムを自分たちとは違う存在として考えているという回答を多くえた.シャー・クル・スルタンで参詣祈願していた女性は,「スンニーはモスクに礼拝に行くけれど,我々アレヴィーはこういう形で祈りを捧げるのだ」と答えた.この場合のスンニーがどこまでムスリムと同義で使われているかどうかはわからない.ある人は自分をムスリムとは思わないとはっきり答えた.またアレヴィーとは「生の哲学」だという回答を多くえた.(アレヴィーは一種の宗教共同体であったと考えられている.アレヴィーとベクタシー教団の違いについて,ベクタシーはイニシエーションを伴うタリーカであり,発心した者は誰でも入信できるが,アレヴィーは生まれながらにしてアレヴィーである,と言われることが多い.)しかしこうした「生の哲学」云々は,アレヴィーの,アレヴィーとしての教育・宣伝活動の結果新しく生まれた言説ではなかろうか.公に活動を認められたアレヴィーは,現在自らのアイデンティティーを作りつつある状態にあるといえるかもしれない.
 かつてアレヴィーはこのように表舞台に現れておらず,彼らの活動から,近年アレヴィーを取り巻く環境が変わったことがはっきりと見て取れる.しかしアレヴィーにしても一枚岩の状態にあるとは言い切れない.今後のアレヴィー自身の活動がどうした方向に向かうのか,いまだ予測できない.
 現在のアレヴィーの状況は,イスラーム勢力への対抗勢力を,政府が取り込み利用する目的で打ち出した施策によっている,と説明されることが多い.しかし一般のムスリムにはこうした変化を苦々しく思っている人が多いのもたしかである.
 イスラーム保守層については,一例としてイスマイル・アー・モスクを訪れたときのことを書いておく.ファーティフ地区はイスラーム保守層が多く集まっているところとして有名だが,中でもチャルシャンバ地区はこうした活動の中心であるかのごとき雰囲気を持っている.かつてこのモスクではナクシュバンディーのズィクルが行われていたという.ここでは,わざわざターバンを巻いて礼拝を行うという,他のモスクではまず見られない光景を目にすることができる.ここに集まってくる人々は,ほとんどが周辺の商店主,手工業者であるらしい.政府側もこの地区の動向に目を光らせて,ときには抑圧することがあるという.

12.おわりに
 以上,短い期間ではあったが,調査からかいま見える状況を大雑把にまとめてみた.ここで問題にしたことはすべて,今後,より継続的な個別の調査によってのみ明らかにされることばかりであり,現時点ではなんら結論らしきことを述べるには至っていない.
 例えば,聖者廟参詣に関して,なぜ近年になって参詣現象がより盛んになってきているのか(全体的な統計はないけれど,一部では確実に盛んになっている)という問題についても,政府の施策,イスタンブルへの地方からの人口流入,宗教熱心な人々の増大(もしそうだとして原因は別に考察されなければならない)など,様々な原因が考えられるだろう.もしイスラームが再び人々の心を捉えだしているとしても,タンクトップの女性が聖者廟に詣で,それが許容されている現象を説明することにはならない.政治的な動向の蔭で(あるいは密接に関係して),こうした民衆意識の一面を表出する聖者廟参詣の問題は,タリーカのあり方,アレヴィーの問題を含めて,今後さらなる調査が必要とされる分野であろう.