イスラーム地域研究国際シンポジウム
(2001年10月5日-8日、千葉県木更津市)
報告書

 

京都大学大学院人間環境学研究科
環境相関研究専攻修士課程1年

和崎聖日
                        
 第4セッション最後の発表者であるザルコンヌ(CNRS,Paris)氏は、“Bridging the Gap Between Pre-Soviet and Post-Soviet Sufism in Ferghana Valley(Uzbekistan):the Naqshbandi Order between Tradition and Innovation”と題し、発表を行った。氏は、1994~1999年にわたるフィールドでの調査から得た豊富な情報をもとに、現代のフェルガナ渓谷(ウズベキスタン)におけるエリート・スーフィズム(elite Sufism)の全体像を提供するとともに、その社会的意味について論じた。
 
 発表の前提として氏は、スーフィズムの発現形態として、エリート・スーフィズム、民衆スーフィズム、イシャニズムの三つを指摘し、それらの相違点を論じた。
 
 エリート・スーフィズムは、都市に多くみられる。また、それは著名なスーフィー家系やタリーカに属する教育を受けたシャイフによって管理、統制されている。
 
 民衆スーフィズムは、農村地域に多い。また多くの場合、教育を受けていないシャイフまたは他宗教の人物によって管理、統制されている。この民衆スーフィズムが、聖者廟(マザール)や儀礼に関して責任をもつ世襲シャイフで、教育は受けていないが魅力的である人物の統制下にある場合、それは「イシャニズム」のラベルを貼られる。イシャニズムは都市周辺、そして現在では田舎からの大規模移住によって都市社会においても多くみられる。
 
 さらに氏は、しばしば混乱がみられるエリート・スーフィズムとイシャニズムの関係についての補足的説明を行い、両者の違いを明らかにした。エリート・スーフィズムにおいては、信徒は自発的に入団することが多い。また、その精神的系譜はシルシラによってその正統性を保証される。一方、イシャニズムにおいては、信徒は代々世襲的であることが多い。また、その精神的系譜は概してシルシラが存在しないため地元のムリードによってしか保証されない。

 発表の主要内容として、下記の三点が論じられた。

1.)フェルガナ渓谷におけるエリート・スーフィズム、つまりナクシュバンディー教団の代表的な分派(ナクシュバンディー-ハーフィー教団とナクシュバンディー-ジャフリー教団)についての主要な特徴と現在の状況の明示。

 現在のフェルガナ渓谷において、昔からの主要なナクシュバンディー教団の代表的な分派として、ナクシュバンディー-ハーフィー教団もしくはナクシュバンディー・ジャフリー教団がある。
 
 そして今日、最も崇めらているのは、ナクシュバンディー-ムジャッディディー-フサイニー教団に属していたタジキスタンからの指導的シャイフたち(ムハンマド・シャリーフ[1994年没]など)であることを指摘する。その理由は、これらのシャイフたちがソヴィエト時代を通して今日までスーフィズム(秘密のマドラサ、スブハ、ズィクルなど)を保存し、もたらしたからである。今日、ナクシュバンディー-フサイニー教団の最も重要な集団のシャイフは、コーカンドのシャイフ・イブラヒムジャンの指導下のシャイフである。また、彼の主要な後継者(カリフ)が、タシュケントのシャイフ・クルバン・アリ・ムハンマドである。イブラヒムジャンの集団は、アフマド・シルヒンディーの教説をたいへん尊重し、無声のズィクルだけを行う。クルバン・アリ・アフマドにおいても同様で、アフマド・シルヒンディーの『寓話』への完全な忠誠を示した。将来、その本が彼の弟子たちの間に行き渡れば、それは中央アジアのナクシュバンディー教団に重要な影響を与えるだろう、と氏は指摘する。また、ソ連崩壊以降のタリーカにおける最も重要な変化は、クルバン・アリ・アフマドによるウズベキスタンからのタリーカの拡大であり、彼はそのタリーカをカザフスタン南部やロシアのロシア人地方にあるアクトゥジュビンスクに広めた、とも指摘した。
 
 フェルガナ全域及びタジキスタンのいくつかの地域において影響力をもっているのが、シャイフのアディル・ハーン(1920年生まれ)によって管理されているアンディジャンのナクシュバンディー-ジャフリー教団である。アディル・ハーンはアンディジャンに公式のマドラサを開き、有声のズィクルを行った。
 
 また、ナクシュバンディー-ハーフィー教団は、サラフィーの考え(聖者崇敬批判など)をもつ新彊ウイグル自治区のナクシュバンディー-ハーフィー教団の信徒の影響も受けていて、聖者崇敬は推奨されない、と氏は指摘した。反対にアディル・ハーンは、聖者崇敬に若干の敬意を示す。しかし、総じて、現代中央アジアにおいて聖者崇敬がソヴィエト時代の到来以前のようにあまり広がってはおらず、それは明らかに聖者の墓がマルキシストによる攻撃の主要な目標になったからである。今日聖者崇敬は、民衆スーフィズム、特にカザフスタンのようにイスラームが弱くエリート・スーフィズムが存在しない地域において支配的である。以上をまとめて、氏は、現代エリート・スーフィズムの顕著な特徴として、
 @ 写本史料によって系譜(シャジャラ、シルシラ)もしくは口承伝承を証明できる諸集団である
 Aハーンカーより重要であるとし秘密のマドラサを開いている
 B聖者崇敬の拒否
の三点を提示した。

2.)ソ連の崩壊に続く数年に中央アジアに入った、トルコからのナクシュバンディー教団の分派(イスケンデルパシャ・タリーカとメンズィルキョユ・タリーカ)と1.)の伝統的な二つの分派(ナクシュバンディー-ハーフィー教団とナクシュバンディー-ジャフリー教団)との遭遇の分析。

 外国と中央アジアのスーフィズムの間でのタリーカの交流は、経済的な思惑を含んだ国家の仲介の有無に関係して、二種類に分けられる。政府の仲介があったものとしては、イスケンデルパシャ・タリーカが挙げられる。このタリーカは、トルコのナクシュバンディー-ハーリディー教団とふつう結びつけられ、2000年の最近の死までエサト・ジョシャンそして現在では彼の息子によって管理される強力なタリーカである。

 ウズベク人とイスケンデルパシャ・タリーカとの最初の接触は、ウズベク大統領イスラム・カリモフのトルコへの最初の外交訪問に続いて1991年にはじまる。そして後に、トルコの大統領トゥルグト・オザルがウズベキスタンへの最初の外交訪問を行った時に、エサト・ジョシャンによってイスケンデルパシャ・タリーカが、中央アジアへ、もち込まれた。
さらに、イスケンデルパシャ・タリーカは、地元(ウズベク人)のナクシュバンディー教団と、特にイブラヒムジャンの支流との交流をもつことを妨げられていることが、指摘された。

 ウズベキスタンにおいて、トルコやパキスタンのシャイフたちの到来は、本質的にウズベキスタンと近隣諸国の間での文化的・精神的交流を刷新していた人々の間のシンボルである。実際、スーフィズムは、それがこれらの国々に共有されていた単なる宗教的な価値であるだけでなく、自国のアイデンティティーを探求する重要な構成要素である、と氏は主張する。

 そして以前のソヴィエト政府と同じように、タリーカは未だに政府によって管理不能な強力な宗教的組織であるとみなされており、ウズベク人のナクシュバンディー教徒たちは、主体的に政治参加していることが、指摘された。

 国家の仲介なしでウズベキスタン入ってきたいくつかのタリーカの代表的なものとして、メンズィルキョユ・タリーカが挙げられる。このタリーカもまた、トルコのナクシュバンディー-ハーリディー教団の支流であり、シャイフであるラシード・エフェンディー(ラシード・エロル)によって1993年の彼の死まで統率された。トルコで勉強しているウズベク人学生によって、1992年後にウズベキスタンに紹介され、よく組織されている。そのタリーカは、現在フェルガナやタシュケント、ブハラで存在している。

 しかし今日、このメンズィルキョユ・タリーカとクルバン・アリの教団は競争し、互いに非難し合っているが、両者とも厳格に沈黙のズィクルに結び付けられ、そしてシルヒンディーの教えを前進させている、と氏は主張する。氏によれば、その抵抗は、メンズィルキョユ・タリーカがトルコで勉強している若いウズベク人ムスリムにとって魅力的であるトルコのアタテュルクから受け継いでいる、「現代的」局面にある、という。

 また、中央アジアのナクシュバンディー教団は、若い大学の卒業生たちにとって未来を与えない旧態依然とした伝統的な田舎社会に密接に結びついているように映るのであろう。
逆に、トルコからのメンズィルキョユ・タリーカは、現代社会に統合され、新しいテクノロジーから利益を享受し、その若い中央アジアの構成員たちに強い宗教的、社会的、経済的ネットワークを与えている、と氏は分析する。メンズィルキョユ・タリーカにみられる伝統と現代性の混合における不和が、国内や中央アジア全土で拡大するかどうかを述べることは、時期早尚である、と論じた。

3.)ヌルジュ・フェトフッラージュの隠れスーフィズムに関する事例の分析。

フェトフッラージュは、中央アジア全土の多くの学校(学派)を支配しているトルコのヌルジュの支流である。フェトフッラージュの人々は、タリーカ・システム、シャイフ・ヒエラルキーそして主要なスーフィー実践を批判しつつも、スーフィズムの考えに対しては、教義の集大成として敬意を払う。さらに、彼らは、特別な数人の大スーフィー導師(イマーム・ガザーリー、アフマド・シルヒンディーなど)に対しても、敬意を払う。

 また、1994年以降、その組織の現代性や伝統主義に魅き付けられたウズベク知識人の間でもフェトフッラージュの影響力はみられる、と氏は指摘する。その背景として、創設者であるサイード・ヌルスィーの主著『光の論考』は、トルコ語に翻訳され、いくつかの中央アジア国家で出版されていることが挙げられる。後に、ウズベキスタンはフェトフッラージュを厳しく取り締まったが、フェトフッラージュの考えの導入はウズベク知識人によるスーフィズムの新しい展開を許した。特に、フェトフッラージュの教義は、ネオ・ジャディード知識人によって正しく理解されている。

 そして最後に、現在フェトフッラージュの流れを汲む人々は、タリーカ・システムとシャイフ・ヒエラルキーの批判を理由に、スーフィズムの伝統主義者によって鋭く反対されている、という時代的諸相を論じ発表を締めくくった。

 氏の発表は、現代のフェルガナ渓谷(ウズベキスタン)におけるナクシュバンディー教団の代表的分派の実態と社会的関係を、長期のフィールド調査に裏打ちされた豊富な資料を用いて、内側の視点から詳細に捉えた、大変興味深いものであった。