上智大学アジア文化研究所主催
イスラーム地域研究プロジェクト1・2班、東南アジア史学会関東例会共催
セミナー「東南アジアのイスラームと政治」

場所:上智大学図書館9階L911
日程:7月21日(土)22日(日)午前10時〜午後6時

7月21日
I. 西芳美(東京大学大学院)
「インドネシアにおけるイスラム共同体原理の新たな位相―ポスト・スハルト体制期のアチェ独立運動をめぐる展開から―」
討論者 本名純(立命館大学)

西氏は、独立を主張するアチェー/スマトラ民族解放戦線(ASNLF)の論理と、スハルト体制崩壊後、国家統一の新たな枠組みを模索するインドネシア政府の論理の相違を、歴史背景に留意しながら、「イスラム共同体原理」に焦点を当て分析をおこなった。1976年に運動を始めたASNLFは、旧アチェ王国の復興を念頭に民族自決の原則を主張し、現在も分離独立闘争を続けている。これは1953-62年に「イスラム共同体原理」に基づくインドネシア・イスラム国家の成立を目指し、その一部としてのアチェ国を構想していたアチェのダルル・イスラム運動とは、指導者にわずかにつながりはあるが、闘争の目的が全く異なる。しかし、1999年以降のインドネシア政府は、アチェに対し、これまでの一方的な武力鎮圧政策を変更し、インドネシアのイスラム指導者によるアチェ訪問・対話や、地域を限定し、イスラム法に基づいた生活を特別に保証する「アチェ特別州実施法」制定などを通して、イスラム的価値観を用いてつながりを求め、アチェのインドネシア共和国への統合強化を図ろうとしている。「イスラム共同体原理」は、インドネシア史において、1950-60年代当時の政府に対する抵抗原理として用いられたが、現在はインドネシアの統一を維持する原理の一つとして利用されており、そうした変化に伴いダルル・イスラム運動を率いたダウド・ブルエに対する評価もアチェにおいて大きく変わりつつあると西氏は言及した。コメントでは主にインドネシア政治における政府・国軍・イスラームの関係の変遷について補足がなされた。
文責 菅原由美:東京外国語大学大学院)

II. 小林寧子(南山大学)
「インドネシア婚姻法成立をめぐる諸問題」
討論者 柳橋博之 (東京大学)

小林氏は、全人口の9割近くをムスリムが占めているインドネシアにおける国法とイスラーム法との関係について、婚姻法成立をめぐる諸問題を検討することによって説明を試みた。インドネシアではスハルト体制下で国家建設が進められていた1974年1月2日に婚姻法が制定された。離婚へのハードルをいくつも設定することによって、高い離婚率を下げ、安定した家庭をつくること、また女性を法的に保護することが婚姻法に期待されていた。同国では、植民地期に人種・宗教によって適用される法が異なる多元的法制度が敷かれていたが、独立後そうした植民地法の改定が少しずつ始められた。憲法に、ムスリムにシャリーア遂行を義務づける条項を挿入しようとする動きがしばしば見られたが、これは実現せず、その代わりに宗教省の監督下でイスラーム諸制度の機能・発展が保証された。また、婚姻法制定をめぐりイスラーム法を部分的に国法に位置づける方向が模索された。その議論の中では、インドネシア版マズハブ(法学派)の創出が早くから提唱された。しかし、実際の法案審議ではイスラーム法を成文化する難しさに加え、ムスリム以外にも適用できる法を作る必要性があった。キリスト教徒側からだけでなく、ムスリム側からも多くの反対意見が出され、その結果、反対意見の出された条項は全て削除されたかたちで婚姻法が成立した。このため、宗教の異なる者同士の結婚、複婚、離婚、養子、相続などについて多くの問題点が解決されず、最高裁判所で争われるケースが多々あることが紹介された。コメントでは他のイスラム諸国との類似点・相違点が紹介された。
(文責 菅原由美)

III. 特別講演
Dr. Nasaruddin Umar (Islamic State University [IAIN] Syarif Hidayatullah)
"Gender Biases in the Qur'anic exegesis: A Study of Scriptural Interpretation with Gender Perspective"

ナサルディン・ウマル氏は、これまでのコーラン解釈に潜むジェンダー・バイアス(gender bias)について分析を試みた。ムスリム社会において、現在のコーラン解釈は疑問視されずに受け止められているが、解釈を行ったのは人間であり、人間は自身が生きている地域の文化環境から自由ではない。解釈には言葉の知識だけでなく、当時の社会背景にも精通していなければならない。また語義を直接解釈するだけでなく、様々な聖典解釈知識を通して解釈する必要がある。ウマル氏によれば、コーラン解釈の場合、発音記号、用語解釈、人称代名詞、男性名詞・女性名詞の用法・意味などのアラビア語特有の問題や序章から順に読むコーラン分析法(tahlili method)がジェンダー・バイアスを生み出す素地となった。これに加え、コーランの伝播した社会が男性優位文化を持つユダヤ教やキリスト教社会の伝統の影響を強く受けていたことにより、ムハンマド自身は社会活動における男女平等を説いたにも関わらず、コーラン解釈には女性にとって不利な事項が多く含まれた。フィクフやハディースの執筆にも同様の傾向が見られるが、後世のフィクフ執筆者は古典に忠実であり、現状を鑑みていない。しかし、現代情勢に合わせたコーラン解釈やフィクフ執筆を行い、女性に自由を与えるべきであるとする運動がイスラーム諸地域で見られ、関連研究が発表されている。その一方で、現実の世界においてこれとは逆行する地域が存在することも注目しなければならないとウマル氏は述べた。
(文責 菅原由美)

7月22日
IV. 川島緑(上智大学)
「南部フィリピンにおけるイスラーム民族主義の源流 -1930年代米国統治継続請願にみるウラマーの論理と戦略-」
討論者:森正美(京都文教大学)

<発表の要旨>
本発表では、1930年代なかばにマラナオのウラマ―が米国人フィリピン総督と米国大統領にあてた手紙の分析をつうじて、請願者の論理と思想を検討し、彼らが米国人行政官との関係を主従関係の文脈でとらえており、フィリピン・コモンウェルス発足を目前に控えて、自分たちの「聖なる共同体」が危機に瀕していると認識し、主人のしもべに対する保護の義務を論拠として庇護の継続を求め、それによって「聖なる共同体」を維持しようとしたことを明らかにした。彼らの運動は、思想面では事大主義的で、既存の社会階層構造に対しては保守的である。MILFなどのウラマーが指導する現代のフィリピン・ムスリムの政治運動の一部にも、このような要素をみることができ、1930年代の米国統治継続請願運動は、その源流として位置付けることができる。

<発表の概要>
1930年代、東南アジア各地で国民主義が高揚したが、その時期における南部フィリピン・ムスリム社会の思想状況はあきらかにされていない。リーダーたちの思想に着目することで、1960年代以降のフィリピン・ムスリム政治運動への理解も深まるのではないか。
米国統治下フィリピンでは、米国に対してフィリピンの即時独立を求める運動が展開されたが、それにたいするムスリム指導者の対応は、フィリピン人国民主義政治家と協調してフィリピン独立を主張するフィリピニスタと、フィリピン独立反対を主張し、米国統治の継続を求めたアメリカニスタに大別できる。
B.アンダーソンは、国民国家創出に成功した事例の分析をおこなったが、南部フィリピンのムスリム地域のように国民国家創出からはみ出した事例の研究、モロ民族国家建設運動のように、挫折したナショナリズムの研究、そもそも、国民国家創出を目指さない人びとの研究も意義があるのではないか。また、アンダーソンが着目したのは、西洋式教育をうけた二重言語の知識人であったが、本研究では、非西洋式教育をうけた知識人であるウラマーに着目し、彼らと西洋式教育を受けた知識人との相互作用や接触という点も視野にいれる。
ムスリムの米国統治継続請願についての先行研究としては、米国人に洗脳された米国崇拝者の行動という解釈(Rad Silva)や、米本国での植民地領有勢力の動きと連動して、階層的利益のために機会主義的に行動したとする研究(藤原帰一)がある。1910-20年代の運動は機会主義説でも説明できるが、コモンウェルス発足直前の1934年時点の米国統治継続請願は機会主義者説では説明できない。
また、これまでの研究はすべて、請願の英語訳のみにとづいているが、マラナオのウラマーが何を考えていたのか、その主体性にせまるためには、マラナオ語原本を検討する必要がある。
ハジ・ボガボンが著した2つの請願(1934年7月、1935年3月)のマラナオ語原本と英語訳を丁寧に読みとき、比較検討し、それを通じて(1)請願の本質はなにか、(2)中北部フィリピン人ナショナリストと連帯せずに、なぜ、米国人行政官に訴えたか、(3)現代の分離独立運動との関係について考察した。結論は以下の3点である。
(1)請願者の目的は「聖なる共同体の防衛」にあり、その維持・発展を保障する政治制度として、米国統治下の現状維持を望み、それが不可能な場合、次善の策としてフィリピン国家への留保付き参加を求めていた。
(2)「白人の責務論」に戦略的に迎合したものと解釈できる。
(3) 1930年代のウラマ―の運動は、MILFに代表される、ウラマー主導の現代の政治運動の源流として位置付けられる。

<コメント>
討論者の森正美氏は、請願原文に用いられているマラナオ語の語彙に関していくつかの質問をし、他のマラナオ語資料と突き合わせて解釈する必要があることを指摘した。また、請願にみられる概念や論理を、イスラームに特有なものと考えず、フィリピン社会一般に共通するものとして解釈することも可能であると論じた。(文責 赤嶺淳:名古屋市立大学)

V. 多和田裕司(大阪市立大学)
「マレー村落におけるイスラーム実践:政治的文脈のなかで」
討論者 鳥居高(明治大学)

<発表の要旨>
マレー半島東北部クランタン州の農村部では、人びとは「正しいイスラーム」を模索し、その「正しさ」を競いあうようにして生活しており、その正しさ(=「権威」)の実践は、町や州レベルの政治にまで影響している。

<発表の概要>
マレーシアにおける人類学的研究でイスラームをあつかう場合、(1)イスラーム伝来以前の伝統文化を議論する固有文化論的議論、(2)持たざる階層あるいは持てる階層に着目し、社会的・経済的階層構造について議論する社会構造的議論、(3)多民族社会におけるアイデンティティに着目した民族ア イデンティティ論的議論、(4)政策論的議論の4つに大別できる。もっとも(1)と(2)の研究視点では、イスラームは軽視されるか、まったく抜け落ちてしまうことも少なくない。(3)では、復興運動の担い手として農村部から都市へ出てきて、生活に不透明さを感じる人びとが指摘される。しかし、それとて一枚岩ではない。(4)においては、政府の政策は理解できるが、個人の実践はみえてこない。
復興運動の担い手ではなく、農村部で「ふつう」に生活するマレー人は、どのようなイスラーム実践をおこなっているのか。このことを明らかにするため、知識や行為などムスリムがイスラームに由来するなにかによって、ほかのムスリムの実践に影響を与え(与えられ)ることを「権威」と考え、分析枠組みとして「権威」に着目したい。
イスラームを実践するにあたって、なにがどのようなかたちで「権威」だと考えられているのか。調査村落では、家庭やコーヒーショップなどにおいて、コーランの正しい詠み方や、礼拝前の浄めなど、イスラーム実践に関して日常的に議論がかわされていたが、それらの場面では、絶対的な権威者は登場せず、各場面において、イスラームの知識があると考えられている複数の人の見解が直接、間接に示され、その中で最も知識を持っていそうな人の見解が、その場における権威となっていた。調査地域での村落政治においても、単一の 絶対的権威は存在せず、2つの政治的、宗教的中心が併存し、互いに「よりイスラーム的である」ことを主張しあい、イスラームへの言及がせりあがっていく。そして、イスラームに内在する「差異化」「権威性」が、イスラームの実践のなかで党派的社会関係という形をとってあらわれ、それがUMNOとPASといった政治的対立状況が厳しいなかで生じる場合にはイスラームが「政治の道具」となる、と結論づけた。

<鳥居高氏によるコメント>
人類学的イスラーム研究として紹介された研究動向は、政治学では異文化における政治行動を理解するためのアプローチとして珍しくない。都市に移り住んでいるが、選挙は農村に帰って行なうマレー人が多いことを考えると、都市部におけるイスラームの実践に関するこのような研究をやっていただくと、興味深い結果が得られるのではないか。マレーシアではイスラーム行政の国家管理が強いので、全国、および、州レベルでのイスラームに関する公的権威の形成を時期別に整理する必要がある。1980年代以来、UMNOはマレー人としてのアイデンティティをイスラームに求めるようになり、PASとの対抗関係がイスラームをめぐる争いに変わっていく点にも注目する必要がある。
(文責赤嶺淳)

VI. 長津一史(京都大学)
「『正しさ』の諸相 ―マレーシア・サバ州、海サマ人のイスラーム化と儀礼再編」
討論者 山本博之(東京大学)

<発表の要旨>
 本発表のなかで明らかにされたのは、マレーシア・サバ州の海サマ人が、マレーシア国家によって伝達される公的イスラームを積極的に受容することを通じて社会的地位の獲得を試みていること、さらに、伝統的儀礼を公的イスラームに沿うように能動的に再編し、再解釈していることである。概要は以下のとおり。

1.イスラームの制度化
 1963年のマレーシア形成以後、公的な宗教行政機関によって上から制度化されたイスラームが、郡や村のレベルにまで徐々に浸透してきた。センポルナ郡の海サマ人の場合、「正しい」イスラームが、かつてのスルー海域におけるタウスグ人の権威に依拠したものから、マレーシア国家の枠内でのマレー人および公的機関の権威に基づくものへと取ってかわられるようになった。

2.カッロン村における海サマのイスラーム化
 タウスグ人や陸サマ人などから「神に見捨てられた民」というレッテルを貼られて差別されてきた海サマ人は、マレーシア形成以後、マレー半島出身のウスタズの認知や宗教行政機関の権威を背景にイスラーム化を進め、公的イスラームの担い手として地位向上を達成するようになる。その過程において、在地の宗教的リーダーシップが伝統的イマムから正規の宗教教育を受けたウスタズへと移行していき、ウガマ・トゥンパタン(地方的宗教)にかわるウガマ・ラスミ(公的宗教)の正統性が広く受容されるようになった。このような海サマ人のイスラーム化は新たな公的権威にもとづく社会的地位獲得の試みだといえる。

3.伝統的な儀礼と信仰の再編
 海サマ人の伝統的儀礼(マグンボ、マギガル・ジン、マグトゥラク・バラ)は、公的イスラームに抵触するというかどで破棄されるか再編を余儀なくされている。このような公的な儀礼解釈は宗教行政機関からイマム、ウスタズを媒介して村に伝達される。とりわけ公的な宗教教育を受けた青年層のウスタズは「正しい」イスラームを普及しようとする傾向が強い。伝統的儀礼を執行してきたイマムも、公的イスラームにできるだけ矛盾しないように儀礼を再編しようとする。伝統的儀礼はハラム(禁じられた)な儀礼とハラル/ラスミ(公認された)な儀礼とに峻別されていく。
 死者に対する伝統的儀礼は、儀礼の時(シャーバーン月)、形式(テクスト)、実行者(イマム、ウスタズ)などの面で公的イスラームの規範に対応するかたちで執行され、アッラーに死者の加護を求めるという公的な解釈がなされている。しかし、他方で、大衆の解釈としては、死者霊の慰撫という伝統的な解釈が強調されている。つまり、「公式性」という枠内で異なる儀礼解釈が共存している。

4.結論
(1)海サマ人社会の周辺域においては、公的イスラームが人々の宗教観、宗教実践の中心的価値になっている。ここでは、制度とマレーネスがイスラームの正統性を担うと考えられるようになっているのである。
(2)海サマ人は、この正統性の変化を背景として、あるいは利用して、自らのイスラーム化を進めていった。それはまた、スルー起源の正統性に関する民族間ヒエラルキーと、そこにつくられたかれらに対する被差別的状況を脱却し、自らの社会的ポジションを獲得する試みでもあった。
(3)村レベルの宗教実践においては、公式イスラームの規範が優先されるようになっている。公式イスラームが規範化されている状況で、伝統儀礼は破棄あるいは再編されている。しかし、伝統的な信仰を公的な儀礼のなかに組み込んで維持していた例が示すように、一般の海サマ人は公的イスラームの規範に必ずしも受動的にではなく、能動的にも対応しながら、みずからの信仰と実践を再編しているのである。

<山本博之氏(東京大学)によるコメント>
 かつてスルー王国のなかで従属的な立場にあったサマが、マレーシアの枠内でマレーネスと公的イスラームに乗りかかるかたちで地位の向上を達成している、という趣旨についてはおおむね同意できるが、それを「タウスグからマレーへ」と整理することが妥当であるかは疑問である。
 1930年〜40年代、サバのムスリムには統一されたアイデンティティは存在しなかった。
マラヤ起源のムスリム・アイデンティティ覚醒の動きに対しては、マラヤのムスリム・マレーによる、サバのムスリムの「マレー化」ではないかという警戒感がサバのムスリムのなかにあった。1950年代後半になると、エジプトのムスリム同胞団がサバに入ってきた。
同胞団は、マラヤのようなムスリムが核となる国家を建設することを主張したが、サバには宗教的庇護者たるスルタンがおらずムスリムが多数でもないため、むしろムスリム多数のマラヤの枠内に入るという構想が浮上した。同時期に、K. Bali がインドネシア型のナショナリズムを念頭において「サバ人」の形成を目指した。同胞団とK. Baliの思想が合わさって、サバが自治邦としてマラヤと連邦国家を形成するという発想が生まれた。それが象徴的に示されているのが、サバのバジャウ[サマ]人がバジャウであることを主張するようになったことだが、これは必ずしもマラヤのマレー人とくっつこうという動きではない。マラヤのマレー人とつながる動きがある場合、それはサバの非ムスリムに対抗するためである。
 では、UMNOがサバに進出した1991年以降、この状況は変化したのか?マラヤを頂点とする「公的イスラーム」に組み込まれたと言いながらも、今日の報告では土着的な要素が維持されているという話だった。つまり海サマ人は依然としてマラヤのマレー人を権威として受け入れているわけではないと理解したが、この理解はどうか?

<コメントへの答 長津一史>
 ムスリム同胞団については、村での日常生活で耳にすることがなかったこと、資料でも目にすることがなかったので扱わなかった。サバの海サマ人にとっての対抗関係という点については、西海岸と東海岸との違いを考慮に入れる必要があるだろう。東海岸の海サマ人の場合、非ムスリムとの対抗関係というよりは、国境を越えたフィリピンのムスリムと自分達を差異化することの方が重要な意味を持つ。また、バジャウがムスリムの中での多数派という認識はマレーシアのサバ州でこそ成り立つが、フィリピンやインドネシアでは
成り立ち得ない。公的イスラームが受容されるなかで伝統儀礼の一部も再編されながら残っていることについては、海サマ人の心の中に伝統的な祖先霊への畏怖の念が残っているということだと思う。
 
<質疑応答>
・公的イスラームの担い手がマレーネスということだが、それは、東南アジア島嶼部のほかの地域、たとえば18世紀のスマトラなどでもみられたことである。海サマ人の場合、独立以前のイスラームを担っていたのは誰か?(西尾寛治)
⇒島嶼部全体でマレーネスがイスラーム化に貢献したというのはその通りだが、近代国家独立以後のマレーネスの意味付けは、それ以前のものとは大きく異なる。海サマ人の居住地の場合、独立以前のイスラーム化をもたらしたのはタウスグ人であった。(長津一史)

・「マレーの権威」というが、結局のところ「イスラームの権威」ではないか?マレーシアが国家として管理・統制はしているが、正統性の起源はアラブ的イスラームであって中身としてはマレー(シア)的なものは見当たらない。なぜ、インドネシアの海サマ人はマレーシアの海サマ人のようなムスリムとしてのマジョリティ化の戦略をとらなかったのか?
海サマ人は、自分達の伝統を公定するような神話を作らなかったのか?ウガマ・トゥンパタンはアダットとは違うのか?マレー人の場合、アダットは憲法でも認められているように必ずしもイスラームに反するとはみなされていない。(中田考)
⇒確かに権威の源泉はイスラームであるが、マレーシア国家はマレーシア的要素を加味し、取捨選択したうえで、公的イスラームをつくりあげている。インドネシアのバジョについては、個人的な調査経験、資料ともに不足しているので比較は難しい。
神話については、海サマ人がマレー半島のジョホール起源だという伝承が重要である。ジョホールというマレー・イスラームの核心域とのつながりを示すことで、イスラーム性やブミプトラ性を強調できるからである。サマ語の場合、アダットというのは「礼儀」という意味で使われ、マレー語のような「慣習」という意味では使われない。ウガマ・トゥンパタンはあくまでもウガマ・ラスミの対概念として使われており、アダットとはニュアンスを異にする。
(長津一史)

・通常、祟りにまつわる儀礼には災いの原因をたどる人がおり、災いの原因をめぐる論法がある。ブスン(祟り)をめぐる儀礼にも災因論が含まれているのか?アラブ世界にも実は憑依にまつわる儀礼が多い。もし、サバの海サマ人の地域でそのような儀礼がなくなろうとしているのだとすると、ある意味で中東よりもイスラーム化しているといえるのか?(大塚和夫)
⇒伝統的儀礼には災因論や災いを直す方法論がある。霊媒師(ジン、ワリジン)が存在する。ただ、公的イスラームにそぐわない儀礼が淘汰されていっているという点では、ある意味で中東よりイスラーム化が進んでいるという見方は成り立つかもしれない。(長津一史)

・海サマ人は上からのイスラーム化の対象とされ成功例とみされているが、「普通の」海サマ人ムスリムは公的なイスラーム化を主体的に取り入れているのか?上からのイスラーム化の犠牲になっている部分はないのか?また、バジャウ人は「マレー人」になってしまわないのか?(信田敏宏)
⇒海サマ人は公的イスラームの正統性を認めており、オラン・アスリのイスラーム化のような、上からのイスラーム化に対する嫌悪感はない。ただ、あくまでイスラームの枠内での規制されたオプションのなかでの主体性であり、たとえば、イスラームから出るというオプションはありえない。バジャウ人は「一種のマレー人」であるという自己認識はあるが、完全にマレー・カテゴリーに包摂されてしまってはいない。(長津一史)
(文責 左右田直規:国立民族学博物館地域研究企画交流センター)

VII. 講評
飯塚正人氏(東京外国語大学)
 イスラームと政治というテーマでも中東と東南アジアとでは語られるトピックが異なる。東南アジアの場合とは違って、「普通の人々」のイスラームが問題にされることが中東では少ない。中東の場合、むしろ、宗教運動、政治運動の話が中心になる。他方、中東で常に議論の対象とされる「汎イスラーム主義」が東南アジアではほとんど問題にされない。東南アジアでは、既存の国民国家を越えた話にはならないようである。
重婚の問題については、中東では重婚制限という方向には行かずに、契約で取り決めるという方向で解決する。インドネシアの場合、結婚を契約と捉える傾向が弱いのではないか。よりイスラーム的かどうかをめぐる村落部での日常的な闘争というものも中東ではあまり見られない。中東のイスラームと東南アジアのイスラームはかなり違うという印象を受けた。

加藤剛氏(京都大学)
 近現代におけるイスラームと政治の関係で通常取り上げられる2つのトピックは、(1)ウンマと国民国家とのせめぎあい、(2)政教一致というイスラームと世俗国家とのせめぎあい、である。この研究会ではこのいずれも取り上げられなかった。東南アジアの場合、国民国家の枠組の中でイスラームと政治とのつながりを語りうるのかもしれない。インドネシアについての報告では、制度・行政とイスラームとの関わりが対象にされ、フィリピンに関する報告では地域が問題にされ、マレーシアについての発表ではムスリム村落でイスラームが所与のものとして制度化されている様相が取り上げられた。これは、ムスリムが全国的に散らばっているインドネシア、ムスリムがミンダナオとスルーを中心に存在するフィリピン、ムスリムが村落部に集中している(していた)マレーシア、というムスリムの地理的分布の特徴を反映している。また、各地域における植民地宗主国の政策の相違も反映している。これからの東南アジアにおけるイスラームと政治についての研究課題としては、(1)国境線を越えた地域間比較、(2)中東など他地域のイスラーム運動の関係、(3)東南アジアにおけるハジどうしのネットワークやOICやASEANなど国際組織を介したネットワーク、(4)都市におけるイスラームと政治との関わり、を挙げておきたい。
(文責 左右田直規)