東南アジア・イスラーム地域における民衆と民衆運動:ジャウィ文書の重要性について
第7回研究会報告

日時:2002年1月20日(日)11:00-18:00頃頃
場所:上智大学四ツ谷キャンパス9号館3階359号室
報告者:11:00-12:30
1)新井和広(ミシガン大学大学院)
「20世紀前半の東南アジアにおけるアラビア語新聞・雑誌」
13:30-18:00頃 
2)資料紹介
 A. 西尾寛治(東京女子大学)
「ジャウィ文献関連カタログの紹介」
B. 他の資料紹介・情報交換(参加者)
3)ジャウィ文書講読:(進み具合によっては終了時間延長の可能性あり)
 A. Rahsia Belajar Jawi. (ジャウィ学習の秘訣)
   第9課 p.21の初めから、p.29まで(テキスト本文の最後まで)
  序文、裏表紙。
B. Al Munir. (1910年代に西スマトラで発行されたイスラーム近代派の雑誌。インドネシア語)
  配布テキスト2枚目の右側の頁(円にAl Munirと記された表紙の隣の頁)*tnbyh* という題、および、本文4行

報告:
1.第4回研究会は、新井和広氏(ミシガン大学大学院)の発表「20世紀前半の東南アジアにおけるアラビア語新聞・雑誌」を受けて始まった。
 まず、東南アジアのアラブ系移民のうち約90%の出身地であるハドラマウトの状況が述べられ、同地が乾燥した貧しい土地で、歴史的に移民を多く出していたことが説かれた。荒涼たる同地の風景の写真を見ると、確かに移民に出るのも納得できる。加えて、18世紀以後部族間の抗争が激化しさらに移民が進んだが、彼らの最大の移住先は東南アジアであった。当時のハドラマウトの経済をまかなっていたのは、移民からの送金だった。
 第2に、東南アジアのアラブコミュニティーの状況が論じられた。東南アジアの中でも特にジャワが主な移住先で、これは、19世紀にオランダ領東インドが個人事業に市場を開放したことによる。彼らは男性単身のムスリムであったため、移住先のイスラム社会に容易に同化できた。
 20世紀初頭、華人コミュニティの会館の活動に触発され、「ハドラミーの覚醒」(アル・ナフダ・アル・ハドラミーヤ)運動が勃興し、アラブ人コミュニティの近代化を目的として、近代的な学校の設立や出版活動を行った。また、当時、ハドラマウトの社会階層であるsayyid(ムハンマドの子孫とされる)の社会的地位を巡る論争が移住先のアラブコミュニティー内部で起きており、sayyid中心のJamiyya Khayrという団体とmashaikh(シャイフ)中心のJamiyya Al-Islah wa Al-Irshad Al-Arabiyyaという団体の間に対立が見られた。
 第3に、アラブ・コミュニティが発行した新聞・雑誌全50タイトル(未発見のものがまだ存在する可能性あり)が詳細なリスト付で示され、その類型と内容について論じられた。これらは殆どが個人による出版で、1年程度で廃刊になるものが多かったという。
 前述のsayyid中心の団体とmashaikh(シャイフ)中心の団体との対立を反映して、どちらに組するかでまず分類可能であり、その他にマレー語で出版する、インドネシアを祖国と見なす団体の新聞もあった。さらに、各地のニュースを伝える一般誌、イスラーム一般を扱う宗教関係の新聞・雑誌などが存在した。内容面では、上述の団体を含めた各々のアラブ団体の思想の広布、ハドラマウトの状況、ハドラマウトの歴史や詩などの紹介、世界情勢やアラブ各国の状況(パレスチナ問題など)の報告などが挙げられる。
 最後に、彼らアラブ移民コミュニティーの状況を映し出すものとして、これらアラブ新聞・雑誌の重要性が強調された。また、本発表では、イギリス・オランダなど植民地当局の対応についても取りこぼすことなく論じられた。
 質疑応答では、1942年の日本軍のオランダ領東インド占領により、ハドラマウトへの送金がストップしたため、同地の経済は壊滅し飢饉も発生したことが言及されたが、これは印象に残った。現在のハドラマウト移民は、1950年代からは湾岸諸国に流入し、東南アジアへ向かうことは少ないという。しかし、現在もなおインドネシア国内のアラブ・コミュニティの結びつきは強固であり、主に繊維製品などの中間貿易を生業としつつ、その独自性を保っているということである。

2.午後は、西尾寛治氏(東京女子大学)より、ジャウィ文献関連のカタログの紹介が行われた。マラヤ大学図書館から刊行されたものが4点、マレーシア国立図書館から刊行されたものが11点、その他、オックスフォード大学出版からのものが2点、ライデン大学ライブラリーからのものが2点であった。

3.また、2001年12月12日から31日まで、第2班の海外出張でインドネシア・マレーシアを視察した石澤 武(第2班事務局)より、マレーシアの街頭で見つけたジャウィ表記の看板(第2班ホームページに報告あり)、及び収集した資料について紹介があった。

4.第4回から読み始めたRahsia Belajar Jawi(Penerbitan Pustaka Antara, 1989)を講読し、ついに今回で読了した。既に午後6時を回っていたが、引き続き、1910年代に西スマトラのパダンで発行されたイスラーム近代派の雑誌"Al Munir"誌を新たなテキストとして、講読に取り掛かった。
 開始にあたって、服部美奈氏(岐阜聖徳学園大学)から、同誌についての説明を受けた。この雑誌の指導者スタン・ジャマルディン・アブ・バカルは、19世紀終わりにメッカで学び、20世紀初頭にオランダ領東インドに戻ったが、ラシード・リダーの「マナール」誌を購読していたという。当時は、東南アジアにも「マナール」が流入しており、東南アジアについての記事もしばしば「マナール」に掲載された。"Al Munir"のオリジナルはジャカルタのプルプスタカアン・ナショナルに所蔵されているということである。
 今回は第1回目ということで読んだ分量はわずか4行だったが、次回からは本格的な講読を開始する見込みである。

(文責:石澤 武)