東南アジア・イスラーム地域における民衆と民衆運動:ジャウィ文書の重要性について
第2回研究会報告

日時:2001年5月19日(土)13:00-18:00
場所:上智大学四ッ谷キャンパス7号館第2会議室
出席者:21名

1. Jawiを読み書きするためのマレー語の基本(2)
  黒田景子(鹿児島大学)

前回に引き続き、マレー語を学んだことがない人を主たる対象として、マレー語の接辞、特に語根に様々な接頭語をつけて造られる動詞について説明が行なわれた。たとえば、語根の前にme,mem,men,meng,meny,mengeを付け加えると動詞を造ることができる。これらを総称して、meN-形と呼ぶ。例)語根mohon(懇願)の前にmeをつけて、memohonとすると「懇願する」という動詞となる。語根の先頭の子音により、上記のうち、どの接頭辞を付けるかが決まる。その法則は以下のとおり。

1)me-: 語根のがl,m,n,ng,r,w,yで始まるとき
2)mem-:語根がb,pで始まるとき。ただし、pは脱落する
3)men:語根がd,t,zで始まるとき。ただし、tは脱落する。
4)meng-:語根がa,e,h,i,k,ky,oで始まるとき。ただし、kは脱落する
5)meny-:語根がsで始まるとき。ただし、sは脱落する。
6)menge-:例外的。cat, lap, pamなどの単音節の語根に付ける。

マレー語の単語を辞書で調べるとき、派生形はそのままの形では載っていないので、その語根が何であるかを突き止めて、語根で辞書を引くことが必要となる。接辞がつくと、たとえば、menyakitという単語に出会ったとき、そのままでは辞書に載っていない。上記法則を用いて、このことばはsakitという語根に接頭語meny-がついて動詞化したものであるということに気づくことが重要である。

同様に、語根の前にpe-, pem-, pen-, peng-, peny-, penge-を付け加えて、「何々する人」などの語を作る形(peN-形)や、動詞、形容詞、名詞に接続して名詞を造る働きをもつpeN-an形などについても説明が行なわれた。

そのあと、テキストBを用いて、ジャウィ綴りの基本について説明があった。(黒田氏による注記:「テキストBはきわめて簡略化された薄い教材なので、初歩としてこれを選んだが、マレーシアでは、これが発行された1988年から以降、ジャウィ綴りについて新しいつづり方規則 "v"の音を表すための新しい文字が導入され、2002年現在教えられてつつある綴りとは若干整合しない部分がでてきてい る。」)

2. アラビア文字表記マレー語の読み書き Baca Tulis Arab Melayu (2)
  服部美奈(岐阜聖徳学園大学)

前回に引き続き、西スマトラの小学生用教科書を読み進めた。この教材で用いられているジャウィ表記法は、現代マレーシアで用いられているジャウィ表記法(テキストA、B)とはいくつか異なる点がある。たとえば、現代マレーシアのジャウィ表記法では、母音を表記しない場合は、[a]か、曖昧音の[e]の場合だけとされるが、西スマトラの教材では、それ以外の母音でも表記されない場合がある。現代マレーシアのジャウィ表記法は、より標準化が進み、読み間違いが少ないように体系化されているのに対し、西スマトラのジャウィ表記法は、より、古い時代の文献に用いられているものに近いといえる。学習方法としては、両者を同時に学ぶと混乱しやすいので、まず、教材が豊富で、初心者にとってわかりやすい、現代マレーシアのジャウィ表記方法を習得し、その上で、それとの違いに注意を払いながら、他の地域や時代のジャウィ表記を学習していくはどうか、という提案がなされ、そのようなやり方を試みることとなった。

3. ジャウィ資料の応用 −サバ州における臨地調査の事例から:「正しい」イスラームをめぐる村と国家:マレーシア・サバ州、海サマ人社会における公的イスラームの経験
長津一史(京都大学)

海サマ人はフィリピンとマレーシアの国境をまたぐ海域で生活している。かつてスルー王国の支配民族であったタウスグ人を頂点とする民族ヒエラルキーにおいて、海サマ人は最下層におかれていた。この関係において、海サマはアッラーに見捨てられた民であるという神話がタウスグ人などによって創られ、海サマ人に対する蔑視・差別がイスラームを用いたレトリックにより構図化されていた。この状況はフィリピン・スルー地域では現在も続いている。これに対し、マレーシア・サバ州では、そうした状況は独立後、徐々になくなっていった。現在ここでは、海サマ人はムスリムとして社会的に認知され、周辺的地位から脱却することに成功している。なぜ、このような差が生じたのか。報告者は、マレーシアのイスラーム行政・教育制度の地方への浸透という現象に注目し、それに対する海サマの能動的対応という視点からその理由を説明する。

マレーシア政府は、1970年以降、イスラームに積極的に関与するようになり、国家、州、郡の各レベルで、イスラームの行政、および、一般学校教育・宗教学校教育制度が整備されていった。それまでイスラームの行政・教育制度がほとんどなかったサバ州にも、半島部からこれらの制度が移植された。イスラーム制度化の影響は、村落レベルにまで及ぶようになった。この過程において調査地域であるサバ州東岸では、国家によって整備された制度に沿って伝達され、またその発信源とみなされたマレー性に結びついたイスラーム(公的イスラーム)こそが、「正しい」(=公式の)イスラームであるとする観念が、流布するようになった。「正しい」イスラームは、フィリピン側のタウスグからではなく、半島部マレーシアからやってくる、とするイスラームの正統性観念の転換であった。

調査地のセンポルナ州センポルナ郡では、海サマ人はイスラーム行政機関によって形成された新たな公的イスラーム空間に積極的に参加していった。ここでは、神話にもとづき海サマ人をイスラームから排除するような差別は認められなかった。また、公式なイスラーム学校教育を受け、行政機関や宗教学校に務める海サマ人ウスタズも誕生している。かれらは、かつてのスルー起源の民族ヒエラルキーを認めるようなイスラームを地方的イスラーム(Ugama Tempatan)として否定し、「正しい」教えをもたらす公式イスラーム(Ugama Rasmi)を語るに足る知識とレトリックを身に付けている。

こうした社会的文脈において、海サマは自らのイスラーム化を積極的に推進した。海サマ人の公的イスラームの受容とイスラーム化は、スルー起源のヒエラルキーを転覆させ、自らの社会的位相を獲得しようするかれらの能動的な試みでもあったのである。

この研究に使用したジャウィ資料の例として、フィリピン側の海サマのイマームが使用 していた宗教テキスト、Faidda Rukun Hangpu Tagtu(礼拝諸規則の13の効用)が紹介された。これはサマ語の文章をアラビア文字で表記したもので、サマ語の他に、アラビア語、マレー語、タウスグ語などの語彙が混在している。母音記(シャクル)を付してあり、この点は、マラナオ語やマギンダナオ語、タウスグ語など、他の南部フィリピン諸語のアラビア文字表記と同様である。また、[ng]音を表記するために、アインの上に3つ点をふった文字が用いられており、これは、マレー語ジャウィ表記やマラナオ語ジャウィ表記と共通である。その他、1970年にマレーシアの国立モスクが発した金曜日のフトバ(マレー語、ジャウィ表記)が紹介された。

質疑応答の要点は以下のとおり。

近世期には,サバ州の領域は,ブルネイやスールーという港市国家の後背地であった。したがって,歴史研究の立場から言えば、本報告で扱われたトピックは,本来港市国家の支配形態に起源する問題と考えられる。また,近世から現代に至るまでの歴史的展開という点に留意してみると,本報告は、近世の港市国家論、あるいは近代以降の海域東南アジア社会の変容といった論議の活性化にも寄与しうる重要な報告と思われる。(西尾寛治)

1950年代半ば以前、サバのムスリムは、(1)マラヤのマレー人ムスリムの威光を背負ったサバにおける地位向上、(2)マラヤのマレー人ムスリムが自分たちサバのムスリムを教え導くという態度への嫌悪、という相反する2つの考えを抱いていた。マラヤとの連邦形成はこの2つを同時に満たそうとしたものであった。この構造は独立後も基本的に変わっておらず、サバのムスリムがマラヤのマレー人ムスリムとのつながりを強調して地位向上をはかることと、マラヤのマレー人ムスリムの権威を実際に受け入れることは別のものとして捉えるべき。したがって、海サマ人がスルー王国のヒエラルキーから脱するためにイスラム化を利用したという論旨には同意するが、それをマラヤの権威の受け入れと結び付ける議論には疑問。また、1990年代以降もこの構造は基本的に変わっていないだろう。(山本博之)

(文責:川島緑)

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