IAS2班海外出張報告
インドネシアの民主化におけるイスラーム社会運動の役割に関する調査

出張者:見市 建(日本学術振興会特別研究員・神戸大学大学院国際協力研究科)
期間:2001年7月24日〜8月16日
出張地:インドネシア(ジャカルタ、ジョクジャカルタ、南スラウェシ州)

報告

 25日間のインドネシア出張は重要な政治日程と重なった。30年以上続いたスハルト体制崩壊後の「民主化移行期」インドネシアにおけるイスラーム政党と社会運動の役割について見聞する絶好のタイミングであった。
7月23日にアブドゥルラフマン・ワヒド大統領が非常事態宣言を発令したが、国軍・警察の支持を得られず、その日のうちに国民協議会特別会が開催され、ワヒドは解任、メガワティ・スカルノプトリ副大統領が大統領に昇格した。翌24日にジャカルタに到着した報告者はまずワヒドが大統領になるまで15年間議長を務めたナフダトゥル・ウラマー(以下NU)の関係者と、非常事態宣言に支持を表明したNGO・学生運動関係者を中心にインタビューをした。1999年のワヒド大統領選出においては、ワヒドの民族覚醒党以外に、イスラーム諸政党(開発統一党、月星党、国民信託党、正義党)がワヒドを支持した。今回はこのイスラーム諸政党がワヒド降ろしの急先鋒となった。ワヒド政権の二年間、大統領のイスラエルとの外交関係やマルクス・共産主義を禁止する国民協議会決定の破棄などをめぐってイスラーム主義者はワヒドへの反発を強めた。他方で、NGOやキリスト教徒知識人と良好な関係にあったワヒドの後継者たるNUの青年層は、左派の学生運動とともに大統領を支持する側にまわった。(もっとも大統領解任へ事態が向かった直接の理由はワヒドによる各政党出身の大臣の解任とその反発であった。)
スハルト体制は公定のナショナリズム(パンチャシラ)を各政治・社会団体に押しつけ、言論・思想の自由を許さなかった。しかし上からのナショナリズムのヘゲモニーが崩れると、新たなイデオロギー探しが始まった。この3年間で、最も有力な代替的なイデオロギーたるイスラーム主義と左派の出版物は書店にあふれている。さらに「イスラーム左派」や、地域主義とも混合したイスラーム法適用運動が台頭し、複雑な状況になっている。報告者は出版物を収集するとともにそれぞれの活動家や出版社に対する調査を行った。インドネシアの民主化の長期的な見通しを立てるにおいて、かかせない作業であると考えたからである。
まずイスラーム主義であるが、スハルト体制下で禁止されていた雑誌『サビリ』は隔週8万部の売り上げを記録している。『サビリ』は書店では手に入らず、露店やモスクの周りで売られているが、インドネシアで発行されているすべての雑誌の中で少女向けの『ガディス』誌に次ぐ驚異的な売り上げである。『サビリ』の成功にあやかって同様の雑誌が数多く発行されている。中には今まで考えられなかった『イスラーム国家Darul Islam』と題する雑誌もある。
他方で左派の出版物のインパクトも大きい。実際、2001年5月にはイスラーム主義者を中心に、左派系の出版物を回収・焼却するという運動がおこった。チェ・ゲバラやマルクス、レーニンなどに加え国内のタン・マラカなどの社会主義・共産主義者に関するものが目立つ。特にインドネシア共産党(PKI)員であったタン・マラカの著作『MADILOG』(物質主義、弁証法と論理学)は1年あまりで2万冊を超える売り上げを記録していた。チェ・ゲバラはTシャツが売れるなどいわばファッション化したが、南米カトリックの「解放の神学」やグラムシ、デリダなど比較的「地味」な思想を紹介する本も短期間でそれぞれ初版の二千部程度は売り上げており、学生やNGO活動家に幅広い左派思想への関心が見られる。特徴的なのは左派が反宗教的ではなく、むしろイスラームと相容れることを強調する書籍が少なくないことである。タン・マラカのイスラーム性を強調した『MADILOGの中に見られるイスラーム』や、PKI党員ハッサン・リードの自伝『共産主義ムスリム』といった本が発行されている。後者はNUの青年グループによって出版されたが、彼らの一部は1965年の共産党虐殺の被害者家族と和解の運動を始めており、寛容なイスラームの言説を広める大衆向けの冊子を毎週金曜日の集団礼拝向けに4万5千部発行している。
またイスラーム主義者と見られていた学生団体HMI-MPO(注)は共産主義者とも言われる民主人民党(PRD)と『宗教的社会主義:第四の道?』と題する本を発行した(アンソニー・ギデンズの『第三の道』=社民主義に由来)。明らかにイスラーム主義的な『イマームの噴水percikan Imam』誌でも労働者の特集が組まれていた。同誌は「もしイスラーム共同体が労働者に宣教(ダーワ)をしたくなければ、他の勢力の利益になる間違いを犯す」と巻頭に記し、あからさまに左派に対抗する姿勢を示している。少なくとも後者は左派の台頭へ警戒感を示して、イスラーム主義による大衆動員の必要性を訴えている。
南スラウェシ州では5つのプサントレン(イスラーム学校)の他、二つのイスラーム系NGO、さらにイスラーム法執行準備委員会(KPPSI)を訪問した。KPPSIは南スラウェシ州にイスラーム法を執行させるべく運動を展開しており、すでに州議会の全会派の賛成を得て国会に要望を提出している。プサントレンのウラマー(宗教教師)を含め、個別のインタビューではイスラーム関係者でも必ずしもイスラーム法執行について意見は一致しておらず、むしろ刑法の厳罰化や個人の領域と思われることまで宗教が介入することへの反発も大きい。しかし、スハルト体制後の地方分権化の流れの中で、イスラーム法執行は南スラウェシ州の「特別州」化と一つのセットになっており、地方主義や新たな利権の発生も睨んだエリートの支持を得ているようである。またイスラーム法の執行に反対することは反イスラームやPKIの汚名を負うことにもなりかねないので表だった反対はない。
私見では、1950年代以降これまで社会的分裂を彩ってきたアリランと呼ばれる政治・社会・宗教的潮流を越えて、特定のイデオロギーを持つ政党が新しい集合意識を作り出していくことが、民主化の定着に欠かせない歩みである。その点で、イスラーム主義者はすでに一定の成功を収めている。1980年代前半からエジプトのムスリム同胞団をモデルに拡大してきた学生の宗教運動は1998年にムスリム学生行動連盟(KAMMI)として組織化、1999年選挙に参加した正義党は140万以上の票を獲得した。NU青年層を中心とした「イスラーム左派」は都市部では「世俗的」と見られがちな左派学生運動やNGOかなりの部分を占めている。イスラーム主義者のような組織化はなされていないが一部では新たな政党設立の動きもある。NUは東ジャワを中心にした団体であるし、正義党支持者でもジャカルタ周辺部を中心としたジャワ島の都市部に限られている。いずれにしろ、大学やNGOに限らない「大衆」や、ジャワ島外にこうした運動をいかに浸透させていくかが、長期的な民主化の趨勢を左右するだろう。なお、メガワティが大統領に就任した翌日から、左派の学生運動やNUに対する軍や警察の介入が頻発した。紛争解決を議会や明確な法的な枠組みのなかで解決することが民主化定着の条件であることは言うまでもない。

(注):HMI-MPOとは、インドネシア最大のイスラーム系学生団体HMI(インドネシア学生同盟)から分裂した組織。1983年以降、スハルト体制が国家五原則「パンチャシラ」をすべての政治・社会団体の「組織原則」として採用するよう強要し、HMIがこれを受諾したことに反対して分裂した。MPOとは「組織救済委員会Majelis Penyelamat Organisasi」の略称。1950年代のマシュミ党の後継者を自称する月星党幹部の庇護を受けている。

*旅程と主な訪問先

7月24日〜8月7日/8月14日〜16日 
ジャカルタとその周辺地域  Nahdlatul Ulama(NU)、民族覚醒党、インドネシア科学院(LIPI)、アジア財団、LP3ES(社会経済調査および教育情報機関)、Telpok Press(出版社)、P3M(プサントレンと社会発展協会)、ISAI(情報流通研究機関)、デサンタラ(NGO)、Gema Insani Press(出版社)。

8月7日〜9日 ジョグジャカルタLKiS(イスラームと社会研究機関)、Bentang Budaya(出版社)、サナタ・ダルマ大学、INSIST(NGO・出版社)。

8月10日〜13日 ウジュンパンダン(スラウェシ島)
  南スラウェシ州のプサントレン(Pondok Pesantren Darud Da'wah wal Irsyad Mangkoso, Pondok Pesantren Darud Da'wah Parepare, Pondok Pesantren Putri As'adiyah Sengkang, Yayasan As'adiyah, Pondok Pesantren Modern Biru, Pondok Pesantren Annahdlah Layang)。イスラーム法執行準備委員会(Komite Persiapan Penegakan Syariat Islam)、 大衆の子どもの教育アドボカシー組織(Lembaga Advokasi Pendidikan Anak Rakyat)。