IAS 2班海外出張報告

第2班研究代表  私市正年(上智大学)


筆者は2001年8月1日より27日まで、主としてエジプトのカイロを拠点にしてブルハーミー教団の調査を行った。その調査結果の概要は以下の通りである。なお滞在日程は8月2日から19日がカイロ、19日から26日がフランスである。

1.現代エジプトのスーフィー教団の概要
エジプトは他のアラブ諸国のどこよりも早くから国家が組織的にスーフィー教団を管理、統括してきた国であり、それはムハンマド・アリー時代の1812ないし13年まで遡る。バクリー家の者がこの年にスーフィー教団総シャイフの地位に就任し、同家は1946年までこの地位を独占した。常にではないが、バクリー家はナキーブ・アル=アシュラーフ(ムハンマドの血を引く一族の長の地位)も兼ねていた。いずれにせよスーフィー教団は国家の監督下に置かれていたといってよい。
 しかし、バクリー家のこの職・地位は公式の役職ではなかったので、それを公式のものにし、教団の組織をより体系的に整備するためにマジュリス・アッスーフィー(スーフィー評議会)を1895年に設立する。これがスーフィー教団の運営の最高機関になるのであるが、このマジュリスはシャイフ・マシャーイフ・アットゥルク・スーフィーヤ(全スーフィー教団総長)と4人のシャイフ(教団長)の5人で構成された。バクリー家が公式に全スーフィー教団総長に任命されるのは1903年である。実は、このときにできた機構がほぼ今日まで(ナセル時代にも大きな変化なく)継承されている。
 今日のエジプトのスーフィー教団の運営組織は1976年に制定された法令(第118条)にほぼ従っている。それによれば、マジュリスのメンバーは、全スーフィー教団総長、全スーフィー教団から選ばれた10人のシャイフ、アズハルのシャイフの代理人、ワクフ省大臣の代理人、内務省大臣の代理人、文化省大臣の代理人、地方行政省大臣の代理人の計16人で構成される。
 スーフィー教団の数は変動があり、現在は73教団が公認教団であるが、1958年は60、1964年は64教団であった。また、全スーフィー教団から10人の代理人(シャイフ)を選出する選挙は、カイロのマジュリス・アッシャアビ(人民議会)の議会場で行われ、1999年に行われた選挙には18人のシャイフが立候補し、選挙で上位10人が選ばれている。

2.ブルハーミー教団の歴史的概観
 教祖イブラーヒーム・ドゥスーキーはアイユーブ朝末期からマムルーク朝の初期のころにナイル・デルタ地方のマルクスという村で生れで、生涯の殆どをマルクスに近いドゥスークという村(現在は町)で過ごした。彼の生没年については諸説あるが、633/1235-36年に生まれ、696/1296-97年に亡くなったという説が教団では採用されている。彼はドゥスーク村で亡くなり、同地に埋葬され、死後墓廟(ザーウィヤ)が建てられた。マムルーク朝時代の最も有名な歴史家であるマクリーズィー(1442没)はごく簡単な言及しかしていないが、イブン・イヤース(1524没)の史料には1497年スルタン、カーイト・ベイがイブラーヒーム・ドゥスーキーの墓参りをしたという記述がある。そしてシャアラーニー(1493−1565)という学者の伝記集の中には他のだれよりも長い記述がさかれているが、それはブルハーミー教団が教団として組織化されていく過程を示すと考えられる。シャイフの地位は、実はイブラーヒームの弟のムーサーに継承され、その子孫によって教団は発展していく。
 ジャバルティー(1753−1825)という歴史家はエジプトにおける4つの強大な教団(彼はアクターブ=軸と呼んでいる)として、リファーイー教団、カーディリー教団、アフマディー教団、ブルハーミー教団をあげている。これは18―19世紀にはブルハーミー教団がエジプトを代表する大教団になっていたことを示すのであろう。19世紀後半にはエジプト統治者、ヘディーブ・イスマーイールはこのザーウィヤの増築を行い、また1293/1876年イブラーヒーム・パシャはザーウィヤに新しいキスワ(墓を被う絹布)を献呈している。

3.現代のブルハーミー教団
 19世紀末以降のシャイフの地位は、アリー・ムハンマド・アーシュール(1890年ころの生まれ)→ムハンマド・ムハンマド・アーシュール(在1948-1966/3/20)→アリー・ムハンマド・アーシュール(在1966/3/20-1975/11/11)→(現シャイフ)ムハンマド・アリー・ムハンマド・アーシュール(在1975/11/11-)のように継承されている。
 現在のシャイフ、ムハンマド氏は1957年10月24日カイロで生まれ、市内の公立小学校、中学校、高校で学んだ。
 ここで興味深いのは、祖父、父、兄弟等がみなアズハルの出身なのに、現シャイフだけはアイン・シャムス大の商学部を卒業していることである。アズハルは言うまでもなくイスラーム学の世界最高峰の大学であり、イスラームの神学、法学、コーラン学、アラビア語学などを学ぶために全世界から学生が集まる。事実彼の弟、アシュラフ氏はアズハル大学のアラビア語科の出身であり、学校の校長をするかたわら、副教団長(ワキール)の地位にある。またシィフの姉のザイナブもアイン・シャムス大学の獣医学部の卒業である。ところが彼はアイン・シャムス大学の商学部に進んだ。彼は後述するように教団のシャイフであるとともに、商社の外商部長をもつとめている。またコンピュータをも使用し、2年くらい前から教団員名簿の管理をパソコンで行うようになっている。アイン・シャムス大学の商学部に進んだのは本人の希望選択であったとのことだが、その選択とビジネスマンとしての仕事の中に教団の姿勢の新しさ、現代社会への柔軟な対応がうかがえる。

4.教団員の増加
 全スーフィー教団総長のシンナーウィー氏に最初に会ったのは1999年2月14日である。カイロのフサイン・モスクの先、通りをはさんでアズハル・モスクの前にある事務所でいろいろと話を伺った。彼の話によればエジプト全体のスーフィー教団員数は1100万人かそれ以上とのこと。エジプトの人口が6500万とすると15から16%のエジプト人が何れかの教団に属していることになる。またブルハーミー教団のシャイフによれば、ブルハーミー教団員数は100万だという。私の調査結果からすると、どちらもかなり誇張された数字と思われる。
 スーフィー教団は毎年、教団員数と簡単な教団活動を記録した用紙をスーフィー評議会に提出することが義務付けられている。ブルハーミー教団が1995年5月にスーフィー評議会に提出した書類を見ると、ムリード(見習信徒)の85000人を含めた合計数は17万3700人である。私はこの数字は実態からそれ程離れた数字ではないと考えている。私は4冊のダフタルを調べたところ、教団員数は18250人である。これは1976年から1999年5月までに登録された正規教団員数である。16歳未満の男子および教団員としての一定の修行が終えない成人男性はムリードとして扱われ、ダフタルに登録されない。それを考慮すると、ムリードを含めたブルハーミー教団員は5万人程度で、おそらく10万人以下というのが妥当な数字を推測される。全ての女性と16歳未満の男子が正規教団員に含まれない事を考えれば、この推計数字はエジプト社会で大きな役割を果たすに十分なものといえよう。
 シャイフ、ムハンマド氏によればダフタル制度(教団員名簿)がエジプトに導入されたのは1930年代から40年代であった。このことによって教団員の管理が組織的になされるようになったが、初めは十分には機能していなかった。ダフタルを整備し、教団員をきちんと把握したのは、現シャイフ、ムハンマド氏の功績である。彼は教団シャイフの地位につくと直ぐにダフタルの整備にとりかかった。さらに1981年にはそれまでは県ごとにダフタルが分かれていたものを、全エジプトの教団員を1冊に統一名簿に登録させる。
 現シャイフのムハンマド氏の代になって作成された4冊のダフタル(旧1、新3)をめくって、年ごとに入会者を数えてみると、毎年600人から1000人の登録がなされていることがわかる。ムハンマド氏の話によれば、父親の代、あるいは祖父の代のダフタルへの登録者は合計でもせいぜい400人から500人に過ぎないという。そうだとすれば、現シャイフの1976年以後になって、教団と教団員の組織化、近代的な体系的整備が行われたことを確認できる。
 これに関連してカルネ制度に注目したい。カルネ(教団員身分証明書)は、二つの意味でとても重要だからである。第一に教団員の帰属意識の強化、第二に教団の財源確保。
 カルネは、ハリーファ以上の正規教団員に与えられる。ムリードはビターカという別の種類の身分証明書を持っている。教団が宗教的、社会的に大きな権威を有する社会であれば、そのシャイフが支給する身分証明書はメンバーに一定の社会的な安全を保証し、さらに教団員同士の連帯意識の強化にも役立っているはずである。私は教団員がシャイフからカルネを受け取るときに、いかにもうれしそうな顔をみせるのを何度も目撃した。
 第二の財源問題は、スーフィー評議会がイシュティラカート(会費)の徴収を認めていないということと関係している。私は、シャイフに教団員から会費を徴収しているのか否かを質問したが、彼は会費徴収をきっぱりと否定し、その理由はスーフィー評議会が会費徴収を禁止しているからだと説明した。
 では、もしそうならば、教団は財源問題をどうやって解決するのか?カルネは原則として毎年、更新することになっている。私が観察した限りでは、たいていの教団員はカルネを受け取るときにいくらかのお金をシャイフに渡す。シャイフの話によれば、それはマジュフード・ザーティ(自由意志のお布施)であり、義務的な寄付ではないという。渡し方は直接の手渡しであり、渡すと共に教団員はシャイフの手に口付けをし、シャイフはそのお金を机の中に入れてしまう。現金の授受は見えないようになされる。何人かの者に金額をこっそりと聞いたところ、15から20ポンド(400円から600円)であった。カルネは原則として1年間しか有効ではないので、毎年新しいカルネの受け取り時にこうした教団へ寄進が行われることになる。もちろん全員がカルネを更新しているとは思えない。またムリードはビターカの更新の必要はなく、ムリードである間は同じものを所有する。シャイフ、ムハンマド氏の話によればカルネ制度は彼の曽祖父によって1950年代に導入された。カルネの色はシャイフの代ごとに変えられ、現シャイフは青色、先代のシャイフは赤色のカルネを使用した。
 このように教団員のダフタルへの登録者数は、現シャイフの代になって急増した。シャイフはその様子を1960年ころはおよそ3万人、70年ころが10万人、80年ころが25万人、90年ころが50万人、そして1999年が100万人というように急カーブの右肩上がりのグラフで示してくれた。既に正規教団員数は5万人程度が妥当な推計値と述べたように、シャイフがあげた100万人という数字はあまりに誇張されたものであり、これをそのまま信じるわけにはいかないが、現シャイフの代になってから(1976年以降)教団が著しい発展を遂げたことは間違いなかろう。
 この背後には、分派のブルハーニー教団(スーダンで勢力を拡大)との激しい内部闘争があったことも確かだが、これについては別稿で検討したい。

5.教団の財源
 教団の財源は、問題が微妙なだけに不透明な点が多い。私は教団の予算についてシャイフに何度か質問したが、具体的なデータは入手できなかった。ブルハーミー教団の本部はダッラーサという庶民的な地区にあり、部屋も質素である。シャイフがドゥスークに訪れたときに滞在する家はシャイフの妻の母親(ハーッジャ・ファーティマ)の家であるが、これも普通の家である。そうすると教団は財政的に富裕ではない、と判断していおのだろうか?この問題については今のところ結論は保留しておきたい。なぜならこのような大きな組織が財政的に貧しいとは考えにくいからである。実際にシャイフは車を所有し、1979年(22歳)から毎年メッカ巡礼(かなりの出費)に出かけている。貧しくては不可能であろう。またスーフィーは外見的な派手さを好まないということも考慮しておくことが必要である。
 おそらく三つの財源が考えられる。第一がマジュフード・ザーティ(自由意志のお布施)。これは、特別の祈願(ドゥアー)をせずに教団や宗教施設になされる寄付である。上述のカルネ受け取り時に渡すお金はこれに属する。第二はヌズールと呼ばれ、結婚、出産、病気治しなどの際に祈願をしつつ、なされるお布施である。第三はマウリド(教団の聖者祭)などの行事に対し、政府が行う助成である。カルネ受け取り時に渡すお金が事実上のイシュティラカートになっているので、第一の財源が最大と思われる。なお前近代のスーフィー教団にとってワクフ財(宗教的寄進財産)は重要な財源であったが、エジプト政府は1960年代にスーフィー教団がワクフ財を所有することを禁止したので、現在ではスーフィー教団はワクフ財を所有していない。
 財源問題に関連してたいへん興味深いことが教団とビジネスとの関係である。カイロの空港に近いヘリオポリス地区に商社がある。事務所は比較的新しいビルの2階にある。私が1999年にシャイフから聞いた話によると、取引はエジプト国内だけでなく、サウディアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンなどのアラブ諸国、マリ、ナイジェリア、エチオピアなどのアフリカ諸国にまで及び、商品としては衣類、野菜・果実、電気製品(これは主としてアフリカ諸国向け)が扱われている。しかし2001年8月、私がこの会社を訪問し、財務部長に会って話を聞いたところ、会社は1996年に創設され、資本金は1000万エジプト・ポンド(約3億円)、取引は国内だけであり、取引品目も肉、野菜、魚とのことであった。またアレキサンドリアの東に400フェダーンの土地(農地?)を所有しているとのことであった。この話の食い違いは会社が再建されたことを物語っているのかもしれない。
 それよりも面白いのは、私が財務部長に会社と教団との関係を尋ねると、一切関係ない、と断言したことである。それでもしつこく関係を問うと、全く無関係あると何度も答え、ついには「あなたは会社について知りたいのか、スーフィー教団について知りたいのか」と逆に私に質問を返してきた。私が「スーフィー教団について調べている」と答えると、彼は「それならば、教団に行きなさい。私たちは教団とは一切関係はないのだから」とやや不快そうな表情を浮かべて言った。しかし社長を初め400人ほどの従業員全員がブルハーミー教団員であり、教団のシャイフも外商部長であって、会社と教団が無関係だというのはどう考えても理解しがたい。おそらく財務部長が示した不快な表情は、財政問題を詮索されたくないという事情を物語っているのだろう。この会社は教団に直接、あるいは間接的に財政支援をしていると考えるのがごく自然であろう。

6.教団員の職業分布
 おそらくダフタル(教団員名簿)を分析した研究はないだろう。まさかダフタルを見ることができるとは思わなかった。だからそれに目を通したときの興奮は今でも忘れない。教団本部にあり、そこから持ち出しは許されなかったので小型のいわゆるバカチョン・カメラで撮影したが、なんとか判読できた。ダフタルには、登録日、名前、職業、住所、国に登録された身分証明書番号、身分証明書の発行地、アンム(叔父)の名前が書かれている。ナーイブとハリーファ・アル=フラファーの場合は彼らの所属する管轄地が記載されている。私が調べたのは、1981年3月18日から1983年2月15日までに登録されたダフタルに登録された800人である。内訳はハリーファが720人、ハリーファ・アル=フラファーが40人、ナーイブが40人である。存命中の者が多いので調査結果を発表するのにも慎重な配慮が必要である。
 それでは教団員はどのような職業,階層に広がっているのか。分析結果から明らかなことは、この教団が大衆層ないしは庶民層を基盤としていることである。教団員の多くは農民、単純労働者、職人、運転手などである。彼らはいわゆる下層階層の出身者である。ムワッザフは公務員や給与生活者であり、多くの者はいわゆるホワイト・カラーに属していると考えられる。全体の75%(600人)以上が大衆層に属していると推測できる。他方、知識人や富裕層はごく少数である。それは知識人や富裕層をかかえているカイロやアレキサンドリアといった大都市の居住者がその巨大人口に比べて、教団員数が少ないことにも表れている。

おわりに
 イスラーム政治運動組織とスーフィー教団とのメンバー数を比較したとき、後者が前者を圧倒的に上回っていたことは確かだろう。1970年代にムスリム同胞団に代表されるイスラーム政治運動がサダトの開放政策によって勢力を拡大していったが、そのときスーフィー教団はどのような状況にあったのだろうか。
 ここで私たちはイスラーム政治運動内における政治に対する姿勢の違いに先ず注目しなくてはならないだろう。メンバー数では最大の、イスラーム政治運動組織のムスリム同胞団は、政府に対ししばしば批判的、攻撃的姿勢をとるが、基本的に非暴力を主張している。ムスリム同胞団は社会の中に急速に支持を拡大したが、その厚い基盤をもつムスリム同胞団と一定の関係(批判、対立、影響、協力)を持ちつつ、ムスリム団、ジハード団、イスラーム団など暴力をも辞さない組織が出現してくる。これらの暴力的なイスラーム運動が目立つようになるのは1980年代以降である。スーフィー教団は−少なくとも目に見える形では−政治からは距離をおき、政府に協調的である。ということは、少なくとも1970年代のイスラーム復興について言えば、ムスリム同胞団とスーフィー教団はその台頭の背景に極めて類似性があるといえる。ところが1981年のサダト暗殺に見られるような暴力的なイスラーム政治運動がムスリム同胞団に代わって政治の舞台に登場すると、政治的舞台ではイスラーム政治運動が目立ち、スーフィー教団はほとんど見えなくなった。そして政治的、社会的変革ということでは、前者は重要な役割をはたすが、後者はささいな役割しかはたさないという印象を私たちに与えている。さらに多くの現代政治の研究者たちはイスラーム政治運動に関心をよせ、スーフィー教団を無視していることも付け加えなければならない。
 私は、両者はその支持基盤こそ異なっているが、1970年代に同時に、並行しながら台頭してきたと考えている。イスラーム政治運動は、主として比較的若く、学歴も高い都市のドロップアウト層から支持者を得ていた。これに対し、スーフィー教団は比較的年齢が高く、教育程度も低い、農村の農民や都市下層民から支持を得ていた。しかしどちらも過度の西欧化や物質主義を批判し、イスラーム的価値観や倫理観を説くという点では一致していた。
 さらにイスラーム的価値を社会や個人の中にいかに広めていくかという方法と手段においても、ムスリム同胞団とスーフィー教団の間には共通性がある。どちらも個人の道徳改革を重視し、個人の改革を通じて社会を変えようとする。個人が変われば、必然的に社会は変わるはずであると考える。しかし暴力的なイスラーム運動は反対の方法をとった。彼らは個人の変革よりも社会の変革を重視し、社会の変革を通じて個人を変えようとする。社会が変われば、個人の変革は必然的にそれについてくると考える。
 今日、イスラーム政治運動はスーフィー教団よりもはるかに多くの注目を集めている。前者は後者を迷信的、堕落したイスラームとしてしばしば批判している。しかし政治の表で目立つ暴力的なイスラーム運動もその背後に非暴力的なムスリム同胞団の運動の影響を受けながら育ってきたし、暴力的なイスラーム運動が存続していくには非暴力的なムスリム同胞団の存在は不可欠である。すでに述べたようにムスリス同胞団とスーフィー教団との間には極めて類似の関係がみられる。両者は互いに対立しているようにいわれる。しかし社会変革を、イスラーム的価値観の社会の中への浸透という意味で理解したとき、両者は対立的というよりも、相互依存的であると考えるのが正しいだろう。少なくともブルハーミー教団の分析からはそう言えそうである。

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