第2班aグループ「理性と宗教」研究会報告:ファーティマ・メルニーシー「イスラームと民主主義」書評会


2001年3月3日に行われた第2班aグループ「理性と宗教」研究会では、昨年11月に邦訳が出版されたファーティマ・メルニーシー「イスラームと民主主義」(私市正年・ラトクリフ川政祥子訳、平凡社刊)の書評会が催された。
 まず、石澤 武(東京大学大学院博士課程・第2班事務局)よりインドネシアにおけるファーティマ・メルニーシーの受容について報告があった。メルニーシーの著作のインドネシア語訳は、本書「イスラームと民主主義」を含め5冊が出版されているが、インドネシアでの彼女の思想に対する評判は、インターネットで見る限り、フェミニストを除けば冷淡な姿勢が多いことが指摘された。これは、インドネシアのムスリムでインターネットを駆使している部分は、いわゆるイスラム右派が少なくないことにもよるであろうが、インドネシアのイスラム・フェミニズムが未だ大衆的な基盤を得ていないことが大きい。インドネシアのムスリム女性の状況は、中東諸国と比べれば抑圧の程度が軽いと認識されており、インドネシアでのイスラム・フェミニズムの展開には固有の困難がある。また、同地でのイスラム・フェミニズムの参考資料として「イスラム・フェミニズムについて」(月刊フォーラム1995年11月号)が配布された。
 本書「イスラームと民主主義」に対する感想として、石澤からは「メルニーシーは西欧近代の啓蒙家として振る舞っているが、近代の超克といった問題意識はないのか、原理主義に対して西欧近代の理念を対置させて対抗できるだろうか」「本書ではアラブ・ナショナリズムとイスラームとの関係を前者による後者の利用という形で捉えており、またアラブ社会主義についてはほとんど検討していないが、ナショナリズムとイスラームは(インドネシアでそうだったように)もっと緊張関係に満ちたものではなかったのか」「彼女がアラビア語で書かないのはどういう理由からなのか」といった疑問が出された。

 続いて、清水和裕氏(京都大学)より、歴史学(初期イスラーム史)の立場からのコメントがなされた。清水氏は、メルニーシーの歴史記述の誤り(例えば、「伝統的なイマームは弱く攻撃されやすい存在」という彼女の議論は歴史的なイマームの実像と理論的なイマーム論の混同であること、ムータジラ派の合理主義者としての側面を過大視するのは19世紀のオリエンタリスト以来の誤りであること、ハワーリジュ派を暴力的な直接行動主義と捉えるのは非常に平面的であること、また、公的歴史=宮廷で編纂された歴史、シャリーア=宮廷イスラムという理解はウラマーの立場を捨象したものであること、など)を列挙しながらも、こうした「現代からの過去の再構成」という歴史受容自体はサラフ主義者と変わりがないが、現代ムスリマ知識人たる彼女が何故、どのようにして歴史を再構成しているかという問題として考察すべきと論じた。さらに、彼女が英仏語で発信する意味は何なのか、いかなる読者を想定しているのかを問い、知識人ならばフランス語で用が足りるモロッコ・チュニジアの特殊性を指摘した。

  小林春夫氏(東京学芸大学)のコメントは、思想史的理解としては本書には誤りが多いとしつつも、問題は現代のムスリム知識人が過去をいかに構成しているかを問うことであると強調した。そして、1.公式イスラーム(カリフ、ウラマーによる)、2.戦闘的イスラーム(ハワーリジュ派による)、3.民主主義的イスラーム(ムータジラ派による)という三分法の妥当性と、現在はどういう勢力をもって3番目の民主主義的イスラームを代表させうるのかを問うた。また、なぜアラビア語で書かないのかという問題についてアルジェリアのムハンマド・アルクンの例を挙げ、アルクンもフランス語でしか書かないが、現代思想についての語彙がアラビア語ではまだ整備されていないからではないかと述べた。さらに、小林氏から参考文献としてRichard C Martin, Mark R Woodward, Dwi S Atmaja編 "Defenders of Reason in Islam: Mutazilism from Medieval School to Modern Symbol" (Oneworld, Oxford)所収の"The Discourse against Islamic Irrationalism: Fatima Mernissi's Critique of Tradition"が配布された。

 これらのコメントに続き、訳者の私市正年氏(上智大学)から発言を受けた。私市氏は、本書が古典を材料に現代の課題を論じており、歴史・思想研究者と地域研究者の議論に橋を架けるものであるとして本書の意義を述べた。モロッコにおけるファーティマ・メルニーシーの評判は、学生からは絶大な人気があるが、知識人からは、英仏語でしか書かないことについて、ターゲットが西欧におかれているのではないかという批判が強いことを指摘した上で、彼女の立場は何よりもヒューマニストであって、西欧とかイスラームとかの限定を超えて人間は根元的に自由な存在であること、それを西欧のものとして拒否する欺瞞に対抗し、自由を普遍的なものとして受け入れることから始めるべきだという彼女の姿勢が説かれた。
 本書については懇親会の席でも議論が続けられ、彼女のジャーヒリヤ時代の賞揚やシルク概念の捉え直しは興味深いが、これがムスリムに受け入れられ得るだろうかといった疑問が提起され、また、アラビア語で書くことをめぐってフスハーとアンミーヤの二重性やマグレブにおけるフランス語の位置などが話題に上った。
 今回の書評会はイスラム思想・歴史の専門家から率直な意見がうかがえた点で意義が大きかったと思われる。本書の議論は荒削りといえるかもしれないが、その提起する問題は大きい。近代啓蒙の意義が問われ続けており、また丸山真男の読み直しなども論点に上がっている今日の日本で、本書はより広い文脈で読まれるべきといえよう。

(文責:石澤 武:東京大学大学院博士課程)

なお、石澤の執筆になる本書の書評が、平凡社の「デジタル月刊百科」2001年4月号に掲載されております。以下がアドレスです。

イスラームの伝統の中から〈自由〉への道を

http://ys.hbi.ne.jp/@67@AU4AAACxgKEEEQEAB2d1ZXN0AQALyiDXVwEADGDpLgKric_csrgxNVGMRZDSxJiLAQAMTQXVHvcGG3c3SnkHbTi_OAAA/netencyhome/zenbun.asp?Word1=%83t%83F%83%7E%83j%83Y%83%80