2-a「理性と宗教」研究会 第4回,第5回「理性と宗教」研究会報告

研究者 各位

下記の研究会を幕張セミナーハウスで開催いたしましたのでご報告申し上げます。

(1)第4回研究会
日時:3月3日(土曜日)、午後2時より4時まで
内容:F.Rosenthal, The Muslim Concept of Freedom, Leiden,1960,
"Philosophical Views on Freedom," pp.81-105.
発表者:斉藤 修(東大イスラム学)
コメント:大川 京(東大イスラム学)

(2)第5回研究会
日時:3月4日(日曜日)、午前10時より12時まで
内容:F.Rosenthal, The Muslim Concept of Freedom, Leiden,1960, "Freedom in
Metaphysical Speculation," pp.105-121.
発表者:山崎光子(東大イスラム学)
コメント:石田幸司(東大イスラム学)

参加者16名。今回でRosenthalの著書を読み終えました。次に,各発表者による要旨を掲載いたしますのでご参照ください。

(1)第4回::F.Rosenthal, The Muslim Concept of Freedom, Leiden,1960,
V. Philosophical Views on Freedom.
(a) "Freedom as an Ethical Concept,"pp.81-98,
(b) "Freedom in Political Theory,"pp.98-105.

発表者要旨:斉藤 修(東大イスラム学)
(a)著者ローゼンタールは、本章(第X章)において自由に関する哲学的観点を扱っているが、特に本節では、その中の倫理(学)的概念としての自由が論じられる。
 本節は、考察のための素材として、金言集(gnomology)や伝記類に大部分依拠している。これは、おそらく、専門的倫理学書よりも広い範囲の読者層を獲得したと思われる素材を用いることによって、イスラムにおける、より一般的・普遍的な自由概念を浮かび上がらせようとする著者の意図を反映しているのであろう。そしてそのために、pp.81-9において、まずそれらの資料が与える自由の意味(定義)が列挙される。
肯定的・否定的合わせて7つの定義が提示されるが、特に「欲求からの自由」というイスラム倫理学上極めて重要な概念に対しては、最も多くのページが割かれている。
次にpp.89-95では、自由という語の意味と、その対立概念である奴隷という語の意味が拡張されたことが論じられる。もともと、単に1つの徳目であった「自由」が、全ての道徳的概念を包括するようになり、同時に「奴隷」は、完全な不道徳と見なされるようになったという。そして、結論部、pp.95-8では、自由という概念が、後にはそれと反対に、制限的に扱われるようになったと主張される。著者によれば、「自由」と「寛大さ」という2つの語を同一的に用いることは、ギリシャ語とアラビア語の両者に共通している。だが、アラブにおいては、慣習的に「寛大さ(jud)」がより重視されていたことから、それと並立的に用いられた「自由」の意味が制限され、「寛大さ」の徳に吸収されて軽視されるようになっていった。非常に興味深い指摘ではあるが、結論部分は、多少性急な印象を受ける。客観的事実に基づいた、更なる考察が望まれよう。
 (b)は、p.101(l.15)を境目として、明確に二つの部分に分かれる。前半部分は、(ギリシャ)民主政の受容の問題、後半部分はa節でも論じられた自由と奴隷の問題を、政治学的レベルへと拡張し、展開している。
 前半部分(pp.98-101)は、主にプラトンの著作やその注釈を素材として、イスラム世界へ民主政が紹介された様子が描かれる。ただし、その民主主義は、善悪両者に転じる可能性を持つ、危険性をはらんだ制度として理解された。結論として、この政体は結局イスラムにおいては理論的考察に留まり、実行されることはなかった。なお、ファーラービーの民主政評価に関する著者のテキスト解釈には、多少の疑問点が残ると思われる。
 後半部分(pp.101-5)では、(a)と同様に、金言集を素材として自由の問題が扱われている。だが、個人倫理のレベルから政治レベルへと移行したことによって、統治者と被統治者の関係という新たな問題が発生する。そして、支配者への抵抗の模範としての知識人の役割や、思想的自由の重要性が称揚されることになる。このような考え方は元来、プラトンに代表されるギリシャ思想の中に見出されるが、本節の結論では、それと、伝統的に自主独立を尊んで来たムスリムとの共通性が主張される。ただし、ここでも引用部に疑問が残る。


(2)第5回:F.Rosenthal, The Muslim Concept of Freedom, Leiden,1960,
“Freedom in Metaphysical Speculation,”pp.105-121.

発表者要旨:山崎光子(東大イスラム学)
 「自由」の形而上学的側面としてスーフィズムに見られる思考形態がテーマの中心であった。基本的に Rosenthal の「自由」理解に適合するような観念を紹介するという形式を取っているため、核心となる議論が存在せず、発表も列記的なものとなった。
 先ず、肉体と霊魂の二元論に基づき現世を霊魂にとっての牢獄、来世を霊魂にとっての解放と看做すという、ギリシャ哲学に典型的とされるモデルがイスラム世界へ流入し、当該モデルが多様に展開していったことが議論の導入として指摘された。その上で前半は Qushayri による「自由」概念の解釈が議論の中心となっていた。そこでは、霊魂は現世のみならず来世をも超越すべきであり、また「自由」とは主たる神に対し真に奴隷的たる状態を実現してこそ得られるとするなどの見解が示され、先のギリシャ哲学的モデルより高次に発展した内容を持つ「自由」観が存在したことが窺われる。
 後半では Ibn ‘Arabi による議論が扱われていたが、「自由」そのものを措定した上でそれを否定し、神と被造物に対し根本的に性格の異なる「自由」を規定するという抽象度の高い内容であったといえよう。その結果、神という端的に「自由」な在り方と、その存在を神に拠っている人間の飽くまで制限された「自由」が対比的に示されたのである。尚、著者は Ibn ‘Arabi の「自由」理論を Qushayri に大きく影響されたものと看做しているが、根拠に乏しく、かつ概念内容自体にかなりの相違が見られることから考えても実証性は薄いと思われる。
 最後にスーフィズムにおける「自由」に関連して、シャリーア遵守に否定的な態度と迫害という社会学的な観点に触れて議論は終了している。
 以上のような内容に対し、 Qushayri と Ibn ‘Arabi に対象が絞られている理由として、コメンテーターの石田幸司氏から,現代のスーフィズム研究に於ける古典的な二分法の存在が背景にあると推測されることが指摘された。また、スーフィズムにおいては,神との関係で「自由」が前面に出されることは少なく、従って著者の議論の有効性は疑問視されるものの、仮に著者のごとき立場に立てば、テキスト上の表現の定型化が「自由」な表現を阻害していったという形での「自由」を論ずる余地もあるとのコメントが述べられた。尚、このような現象が生じた理由は明らかではないが、政治的社会的要素にその原因を求めるというのが現代の研究の流れである。
 また、 Qushayri の説く「自由」が神との一対一の関係によって成立する個人に定位した自由であるに比して、 Ibn ‘Arabi のそれはより普遍的な視点から論じられたものであるとの構造的把握に基づき、現代的「自由」に対する両者の対称性を見い出す見解も提起され、議論は新たな展開の可能性に含みを残しつつ終えられることとなった。
 蛇足ながら付言すれば、議論を終えた上で感じたのは,やはり予め規定された主題を論じることの危うさであった。このようなテキストの内部秩序の埒外での議論を有効にするためには、当該主題を特に取り上げる目的を明確にした上で、その目的に沿うように主題の枠組みを限定し、かつ目的を達成するために最も妥当と思われる方法論を選ぶなど、厳密な前提的手続きが要請されるように思う。主題先行型の研究を行うに当たっての注意を喚起された思いであった。

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