アレクサンドル・ポポヴィッチ氏講演会

「ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるスーフィズム」
(2000年10月6日 京都大学アジア・アフリカ連関地域講座)

 フランス・パリの国立科学研究所(CNRS)に所属するアレクサンドル・ポポヴィッチ
氏はバルカンにおけるイスラーム,特にスーフィズム・タリーカ研究の第一人者であり,多くの研究成果を挙げておられる.
 講演はイントロダクションに続けて,ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける(1)スーフィズム(2)タリーカ(3)資料について紹介されるはずであったが,(3)資料については(1)の中で一部言及された以外,時間の都合で割愛された.
 
 イントロダクションでは,スーフィズムやタリーカの問題を考える際の視点が呈示された.実際にポポヴィッチ氏がこの地域の現象を研究する際に,自ら採用されている「システム」が以下の三つに分けて述べられた.すなわち,1.歴史的・地理的分布(センターとしてのテッケの地理的分布とそれがいつ創設されたのかという問題) 2.宗教的・文化的・神学的問題(主として理論的な問題) 3.経済的・社会的・政治的なバックグランドの三つである.
 
 (1)スーフィズムについて
 中世(彼がここで言う中世はオスマン朝の支配時代,1463頃〜1878年)のスーフィズムは非常に複雑で,時間内に述べることは不可能であるため,ベースとなる研究をした(している)研究者の名前を挙げた(シャチル・スィクリッチ,ジェマル・チェハイッチ,イスメト・カスモヴィッチ,フェイズッラー・ハジバイヴィッチなど)後,さらに続けて,この時代の最も著名な人物を,いくつかの作品を交えて紹介された.(ハムザ・バーリー,アリー・デデ・ボスネヴィー,アフメド・ヴァフデティー,ハサン・カーフィー・アクヒサーリー,ミュニーリー・ベルグラーディー,ヒュセイン・ラーメカーニー,シェイフ・ムスリフッディーン,アブドゥッラー・ボスネヴィー,アフメド・イブン・ムスタファ,ハサン・カーイーミー,フェヴズィー・モスタリー,イルハーミー・ババ,アブドゥッラフマーン・スィッリー,ファーディル・パシャ・シェリーフィー).
近代でも,主要なタリーカに所属した重要なシャイフはいるけれど,最も代表的な人物として上述のフェイズッラー・ハジバイヴィッチ(1913−90)を名前を挙げるにとどめた.
 
 (2)タリーカについて
 南東ヨーロッパ,バルカンにおいて,過去に存在したことが立証されたタリーカの数は11である.
これらはテッケの数から,数の多い順番に以下の3つのグループに分けられる.
1)ベクタシー,ハルヴェティー 
2)カーディリー,メラーミー(バイラミーの支教団,後ハムザヴィーと称される),メヴレヴィー,ナクシュバンディー,リファーイー,サァディー 
3)シャーズィリー,スィナーニー(ハルヴェティー教団の支教団),ティジャーニー

 しかし,ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは,サァディー,シャーズィリー,スィナーニー,ティジャーニーのテッケはまったく存在していないと考えられ,ベクタシー,リファーイーのテッケの数も少ない.それゆえ上記11のタリーカのうち,ハルヴェティー,カーディリー,メラーミー・バイラミー(ハムザヴィー),メヴレヴィー,ナクシュバンディーの5つのタリーカがこの地域での考察の対象となる.
 これら5つのうち,メラーミー・バイラミーを除く4つのタリーカは非常に「正統的」なタリーカであり,「インテレクチュアル」なタリーカであった.
 歴史的な経緯を見てみると,メラーミー・バイラミーは基本的に16世紀にだけ存在した.ハルヴェティーとメヴレヴィーはオスマン朝時代非常に重要なタリーカであり,特にハルヴェティーは17世紀までは(おそらく18世紀にも)ボスニア・ヘルツェゴヴィナで最も重要なタリーカであったけれども,その後徐々に衰退し,20世紀には姿を消した.ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいて最も重要な タリーカはナクシュバンディー,次いでカーディリー(17世紀に到来した)であり,それは今日でも 変わらない.特にナクシュバンディーは18世紀から20世紀にかけて最も重要なタリーカとなった.
 しかし,ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいてタリーカは,数十年来衰退してきている.その理由として,ムスリムの世俗化がかなりのレベルで進行していること,および地方のムスリム社会を統治するリーダーたちの敵意が考えられる.
 ポスト・オスマン朝期はオーストリア=ハンガリー帝国の支配期(1878−1918),王国時代(1918−1941),第2次世界大戦期(1941−44/45),社会主義ユーゴスラヴィアの時代(1945−1990),ポスト・チトー主義者の時代(1990−1992),内戦期(1992−1995),内戦以降(1995−)と分けられるが,1950年以降については以下のようにまとめられる.
 「活動している」テッケの数は非常に少なく,テッケにおけるデルヴィーシュの共同生活はもはや存在しない.テッケはデルヴィーシュが生活する「修道場」ではなく,一種の「クラブ」となった.

 以上,ポポヴィッチ氏の講演をまとめた.限られた時間内での概説であり,またオスマン朝下におけるスーフィズム,タリーカについての若干の知識がなければ一部理解しにくいところがあったかもしれないが,普段なかなか知る機会を得ない(バルカンの状況も含む)ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるスーフィズム・タリーカに関する基本的かつ重要な情報がコンパクトにまとめられ非常に有意義であった.またポポヴィッチ氏の語り口は非常にウィットに富んでおり,時間の経過を忘れさせるものであったことも一言申し添えておきたいと思う.

(今松泰  Yasushi IMAMATSU:神戸大学大学院)