インドネシアのイスラーム「改革派」再考

<第1部>
歴史のなかの「改革派」 デリアール・ヌールのムハマディヤー研究
報告者: 大形里美(九州国際大学)
テキスト: Deliar Noer, The Modernist Muslim Movement in Indonesia, 1900-1942.
Kuala Lumpur: Oxford University, 1973.
討論者: 利光正文(別府大学)

 本報告は東南アジアのイスラームに関する基本文献をとりあげる書評研究会の第三回目として行われた。
デリアール・ヌールは北スマトラ、メダンの出身で、インドネシアの代表的なイスラーム研究者であると同時に、現在は近代派イスラーム系政党PUIを率いる活動家でもある。

独立以降、現代に至るまで、インドネシアのイスラーム組織は対立、分裂、混乱をくり返してきた。報告者は本書が扱った1900-42年の近代派イスラーム運動の歴史をインドネシアにおけるイスラームの現在を映しだす鏡であるととらえている。報告ではインドネシアにおける近代派イスラーム組織の発展の歴史と、宗教中立的(世俗派)ナショナリストであるスカルノと、ヌールの師であったイスラーム民主主義を掲げるナッシールの間におきた論争について、両者の見解を中心として本書の内容に関するくわしい紹介があった。

そして、報告者は本書の内容と現在のインドネシアとの関連において、現在のインドネシアは、国家のアイデンティティーとイスラームをめぐる問題の解決の糸口を、近代派・伝統派の枠を超えたネオ・モダニズムに見い出そうとしているのではないかと分析した。ワヒド大統領自身、伝統派出身の代表的ネオ・モダニストであり、その思想は多元主義に根ざし、政治権力としてのイスラームやイスラーム国家を否定し、パンチャシラを理想とする。また民主主義社会の実現をめざし、異教徒との連帯を積極的に進める点にその特徴が見られる。近代派出身者にもネオ・モダニストとされる人物はいるが、政治的に見れば、近代派出身のネオ・モダニスト(ムハマディヤー現会長のシャフィイ・マアリフ)は伝統派出身者より大衆的人気に欠ける。ワヒド大統領への支持の背景には、超越したカリスマ性をもつ伝統派イスラーム指導者に対する国民の敬意があると言及した。

利光氏は、ムハマディーヤ運動の展開、ムハマディヤーの組織、ムハマディヤー学校のカリキュラムなどについて、具体的な情報を含む報告を行い、ムハマディヤー運動が地域主義の克服に貢献したことを評価した。また、ムハマディヤー運動の下部組織で、ムスリム女性の啓蒙や教育を目的とした「アイシャー運動」についても言及し、カルティニとは異なる、イスラーム系の女性解放運動が存在したことを指摘した。

その後、出席者からいくつか質問、コメントがなされた。その一部を紹介したい。

パンチャシラの定義も定着していなかった1950年代インドネシアにおけるイスラームと国家の関係を考える時、いかなる状態をもってイスラームを基礎とする国家とみなすのか、という質問が出された。

本書におけるヌールの主旨は、ナショナリストの役割が強調されがちであったインドネシア独立運動期において、近代主義ムスリムがいかに健闘したかということの論証であった。著者は、「近代的」組織形態、「近代的」解釈に基づく(フィクフ=イスラーム法学ではなく)イスラームの教義の2点を以て、運動を「近代主義」であるか否か定義した。その強引な定義によって、「伝統主義」であるNUの役割は軽視され、イスラーム同盟初期の共産党の存在についての記述がなされていない。

ヌールは、1950年代末から60年代にかけて米国のコーネル大学で研究を行っている。ゆえに当時、米国の社会科学において支配的であった「近代化論」の影響を強くうけており、この枠組みでインドネシアをみていると思われる。

(文責:早山万里:上智大学大学院)

<第2部>
インドネシアにおけるイスラーム改革運動と女子教育:現状を中心に
報告者:服部美奈(岐阜聖徳学園大学)

2000年9月9日開催の2-a研究会「インドネシアのイスラーム「改革派」再考」研究会では、第2部として岐阜聖徳学園大学の服部美奈氏より「インドネシアにおけるイスラーム改革運動と女子教育:現状を中心に」と題する報告が行われた。
本報告で服部氏は、インドネシアのイスラームにおける女性と教育の歴史的展開について概観し、西スマトラの女子プサントレンDiniyyah Puteriを具体例として取り上げ、イスラーム女子教育の現状について論じた。
 インドネシアでは20世紀初頭のイスラーム改革運動とともに、1910年代から近代的イスラーム教育が始まり、キターブの意味を理解することの重視、普通科目の導入、女性への教育機会の提供など、旧来の女性および教育に対する認識の転換がなされた。そこでのイスラーム女子教育の理念は、男女の平等、両性の役割・生得的性質の違いの確認を二つの柱とするものであった。
 独立後は、公立普通学校の普及と女子の就学率の向上が見られたが、特にスハルト体制下で普通学校で宗教教育が拡充されたこともあって、次第に普通学校とイスラーム学校の境界が薄れてくることとなった。1975年には普通学校とイスラーム学校、両系統間の移行・進学が可能になり、1991年には公立の普通学校でジルバブの着用が認められ、敬虔な親も子供を普通学校に進ませる傾向にある。
また、スハルト体制の下では「ダルマ・ワニタ」などの官製女性組織によって女性の動員・組織化が図られ、女性を開発に組み入れる政策が採られた。この政策を支えるイデオロギーは、開発に参加しかつ家庭を守るという二重の役割を女性に負わせるものであった。
服部氏は続いて、インドネシアのイスラーム女子教育の現状として、インドネシア初の女子プサントレンであるDinyyah Peteri を例に、カリキュラムや寮規則の内容、卒業生の進路の実際を紹介した。厳しい寮規則によって世俗社会から隔絶した寮生活を送りながらも、卒業後は様々な社会活動に参加し草の根的な動きの重要な担い手となるプサントレン生徒の姿が明らかにされた。
最後にまとめとして、イスラーム女子教育における基本理念は、20世紀初頭以来変化していないが、これは、その当時のイスラーム改革思想が現在にも通用する開かれたものであるため、変化をもはや必要としないと意味づけることができる、すなわち、クルアーンやハディースの様々な再解釈の可能性が開かれており、基本理念は変化していないにも関わらず多様な生き方とイスラーム解釈が存在していることが強調された。他面、厳しい寮規則に見られるように、世俗的社会からの悪影響を排除するということが、生徒を社会から遠ざける結果にもなっていることが指摘された。
討論では、女性の「家庭人としての役割」イメージとイスラーム思想との関連について多くの議論がなされた。スハルト体制の説く良妻賢母的イメージは独立前の女子プサントレンで説かれていたものと同じだが、ねらいが違うのではないか、良妻賢母的女性像は特にイスラームと結びつくのではなく、支配層の抱きがちなイデオロギーということではないか、「家庭を守る」理想の妻のイメージは都市中間層の理想像ではないか、との提起があり、イスラーム法学からすれば育児や家事は妻の役割として期待されてはいない、というコメントがなされた。また、西スマトラのミナンカバウ地方の慣習法とシャリーアとの齟齬については、確かに慣習法との間に摩擦はあるが、プサントレンではシャリーアしか教授しないとのことであった。

(文責:石澤 武:東京大学大学院)