イスラーム地域研究IAS 2C「聖者信仰・スーフィズム・タリーカをめぐる研究会」第2回研究会報告

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<研究会全体について>
 今回は「サイイド」を統一テーマとし、森本、小牧、大坪の3名が報告を行った。
それぞれの報告の概要は以下のとおりであるが、当日は、様々な分野・地域を専門とする20人近い参加者を集め、「サイイド」に関する活発な議論が展開された。その結果、「サイイド」がムスリム諸社会に遍在し、同時に多様なあり方をしていること。どの分野の研究においても、常に何らかの関わりを有していることを改めて認識させられることとなった。
 しかしながら、今回は「サイイド」を統一テーマとしたために、聖者信仰・スーフィズム・タリーカとの関わりについては、かえって不明瞭なものとなった観は否めない。とはいえ、ムスリム諸社会で様々な役割を果たしてきた「サイイド」と、同様に重要な要素である聖者信仰・スーフィズム・タリーカを連関させて考察していく上での、重要な問題提起となったということはできるだろう。
(文責:森山央朗、東京大学大学院)。

第1報告:森本 一夫(東京大学東洋文化研究所)
「サイイド・シャリーフ論からの提言」
 森本氏は、これまで二次的な問題としてしか扱われてこなかったサイイド・シャリーフの問題を一次的な主題として扱うことの重要性を提言して研究活動を行ってきている研究者として知られているが、今回の発表で氏はそのサイイド・シャリーフ論をめぐる問題点を整理し、具体的な事例に言及しつつその構図を文字通り図示して解説を加えた。その中では、サイイド・シャリーフの定義といった基本的な問題をはじめ、ムスリム社会におけるサイイド・シャリーフという血統の意味、すなわちサラフとの連結やイスラーム的ファクターの象徴としての役割、また権威を伴う異者としての調停者の役割などが指摘された。しばしば問題となるシーア派との関係については、シーア派そのものの定義がある程度確立するまでサイイド・シャリーフ論における議論は保留すべきであるとした。またスーフィー教団においてもシャイフの血統が重視され、その多くがサイイド・シャリーフであったことが指摘された。最後に予定していたサイイド・シャリーフの系譜文献や「美徳もの」文献の紹介は、時間の関係で残念ながら省略された。
 討論においてはいくつかの問題が取り上げられた。例えばサイイド・シャリーフの血統が主に男系により継承されることについてはファーティマの位置付けの問題などが議論され、また ahl al-baytism とシーア派との関係については、両者の区別を自明のこととするアラブ研究者と、両者の接点を問題とするイラン研究者の間の認識の相違も浮き彫りにされた。
 氏も指摘するように本格的なサイイド・シャリーフ研究はまだ始まったばかりであるが、氏の提示したサイイド・シャリーフ論の構図は、我々が今後自らの研究対象におけるサイイド・シャリーフを扱う際に有用なモデルを提供するものと思われる。(文責:矢島洋一、京都大学大学院)

第2報告:小牧 幸代(京都大学人文科学研究所)
「北インド・ムスリム社会におけるサイヤドの社会的地位」
 本報告では、サイヤドの社会的地位の在り方をめぐって、北インドのムスリム社会での様々な事例が報告された。特に、(1)北インドにおけるサイヤドの地位をめぐる通説的理解。(2)植民地期のサイヤド。(3)人類学者の論争にあらわれるサイヤドの問題。最後に(4)小牧氏の調査地における事例報告の、4つの事例が検討された。
 (1)では、北インド社会における「サイヤド」の通説的な理解の確認が行われた。さらに、北インド・ムスリム社会を理解する上で重要な、「アシュラーフ(高貴な身分のムスリム)」と「非アシュラーフ」の問題が検討された。
 (2)は、ColeとCrookeの研究に依拠して検討された。特に、1891年帝国センサスの統計区分に現われた、サイヤドに含まれる諸社会カテゴリーが検討された。
また、植民地期のセンサスの区分の問題として、三瀬論文が取り上げられた。
 (3)では、特にDumontによるカースト社会理解に対する、 Barthとの論争が取り上げられ、検討された。
 (4)最後に小牧氏の調査地におけるサイヤドの事例として、(a)ウッタル・プラデーシュ州のC町の事例と、(b)ニューデリーのニザームッディーン廟におけるサイヤドの「系譜」の問題が取り上げられた。
 以上のように報告では、南アジア社会のコンテキストに位置付けられたサイヤドを中心としたムスリム社会の問題が、様々な事例を通して検討された。また、他の報告者や出席者との間の討論によって、南アジアにおけるその特殊性と共通性とが議
論された。今後は、このようなイスラーム世界の用語と南アジア社会に固有な用語との相互対照によって、両者にとって理解可能な記述が展望されるように思われて、興味深かった。(文責:外川昌彦、広島大学)

第3報告:大坪 玲子(上智大学アジア文化研究所)
「イエメンのサイイド:移住と定着」
本発表では、イエメンの事例が紹介された。イエメンのサイイドには、北イエメン(1990年南北イエメン統一以前の旧イエメン・アラブ共和国の範囲)の北部山岳地帯を指す上イエメンに存在するザイド派のサイイド(中世期の資料にはシャリーフと記される)と、南イエメン(旧イエメン民主主義人民共和国の範囲)の内陸部ワーディー・ハドラマウト一帯に存在するサイイド(シャーフィイー学派)の2種類がある。それそれにつき、概説と評価が示された。
北イエメンのザイド派サイイドは、第2代イマーム・ハサンの子孫であり、ザイド派ウラマーであったヤヒヤーが、9世紀末に一族のサイイドを引き連れて上イエメンの中心的都市サアダに移住し、イマームを宣言したことから始まる。このイマーム制に関しては、ザイド派の教義内容や、有力サイイドからの互選であるが特定の家系に偏ること、不在や並立の時期もあったこと、不在に際しては外部からサイイドを招いてイマームとした例もあることなどが説明され、また1962年までイマーム制及びサイイドの社会的機能が存続していたという特徴も論じられた。
南イエメンのサイイドは、第3代イマーム・フサインの子孫であるアフマドが、10世紀前半にハドラマウトに移住したことに始まり、その孫に当たるアラウィーの子孫が現在まで続いているため、バー・アラウィー(アラウィー家)と総称されている。
 前者(ザイド派サイイド)との比較では、前者が紛争の調停のために招かれた存在であるのに対し、後者は自らの意志で移住したものであること。前者は、紛争時の調停役のみならず政治的支配の要素を併せ持つものであったが、後者にそのような面はなく、その代わり聖者崇拝やタリーカと密接に結び付き、その核ともいうべき存在になったこと。さらに、後者の東南アジアとの関係などが挙げられた。
全体として有益な発表であったが、2種類のサイイドともに未だ不明な点が多く、このため発表後の議論は基礎的知識や個別的背景に関わるものが多かった。それゆえ、研究会を通して議論されたサイイド・シャリーフの「社会内他者」といったテーマに関して、イエメンの事例(たとえば、ハドラマウトのサイイドは他の事例と同じくサイイド間の婚姻が主流であるのに対し、ザイド派サイイドは在地の有力部族と積極的に婚姻を繰り返したこと等)について掘り下げた意見交換ができなかったことが残念であった。(文責:松本弘、日本国際問題研究所)