東南アジアと通貨危機
――イスラーム化と経済システム――

はじめに
97年7月2日のタイ・バーツの切り下げに端を発する東アジア(東南アジアを含む)の通貨経済危機以降、ほぼ3年が経過しようとしている。今回の危機はこの地域の経済的側面のみならず政治社会体制にも大きな影響を与える重要な転機となった。インドネシアではスハルト体制が打倒され、ハビビ大統領を経て、99年10月にワヒド政権を登場させた。ワヒド大統領はムスリム団体である「ナフダトゥル・ウラマー(ウラマーの復興)」の指導者であった。ワヒド大統領は、引き続く経済混乱、アチェ特別区に代表される分離主義、マラカ諸島における宗派対立などの困難な条件のなかで、経済復興の条件整備と国民和解、政治改革のために予期された以上の柔軟さで対応しようと奮闘している。マレーシアのマハティール政権にとっても通貨経済危機からの脱却の途は、従来のブミプトラ政策と高度成長政策の維持を不可欠とするなかで苦悩に満ちたものであった。97年7月以降のヘッジファンド非難と、98年9月にとった緊急避難措置、つまり固定相場制導入と一時的な外為取引の制限は、IMFなどの国際金融機関から「時代に逆行」するものとする激しい非難を受けた。
 アジア通貨経済危機の原因と対応に関してはさまざまな議論が展開されているが、大きく分けてヘッジファンドなど国際投機資本に責任があるとするものと、東アジアの経済体質(通貨の過大評価、コーポレート・ガバナンスの欠如、クローニズムなど)に責任ありとする議論と2つに分かれた。結論的に言えば前者が主因で、後者が従的な原因とみるのが妥当であろう。そのなかでマレーシアが特に注目されたのは通貨経済危機を「非正統的」あるいは非IMF的政策で危機を乗り切ろうとしたためである。今日タイ、韓国のようにIMF型緊縮政策をとったところもマレーシアのように非IMF的政策をとったところも当面の経済危機を脱却しつつある。マレーシアの景気回復は主として米国経済の順調さに大きく依存するという点で脆弱性を有するが、東アジア経済がまだ活力を有することを示すものでもあろう。
 マレーシアの経済危機への対応も一つのモデルとしてまとめられるほど単純なものではない。非IMF的危機の克服法も幸運な外的条件に助けられた面もあり、また金融システムの再編成、コーポレート・ガバナンスの問題点は、マレーシア当局者自身がよく認識しており、そこではIMF方式を採用しようとしているといってよい。また今後の発展戦略の目玉は、マルティメディア超コリドール構想(MSC)に見られるように多国籍IT資本の世界戦略に一層関わる形でのものである。
 異なった対応の背景にはイスラームとの関連もありうる。マハティール首相はソロスなどのヘッジファンドを非難した際、マレーシア・リンギ攻撃の背景にはユダヤ人(シオニズム)の政策があり、それはイスラーム諸国のなかで順調な発展のモデルをつくりたくないという思惑に基づいていると述べた。これは「暴言」として米国などで不評であったが、この発言が単に思いつきや失言の枠では捉えられない側面もある。近年マレーシア内外でマレーシアの高度成長は、イスラーム世界でも経済発展は可能であるというモデルと見られるようになっており、イスラーム世界におけるマレーシアのプレスティージは中東を含むイスラーム世界で高まっていたのである。マレー人のアイデンティティーにおけるイスラーム的価値とその再評価、さらに政治経済政策との関連が重要になっている。マレーシアでは、経済的にはグローバル化と世界資本主義に深く組み込まれつつも、他方では文化的宗教的アイデンティティーを深めつつあるという、一見相矛盾するように見える関係が存在している。
今回の調査ではマレーシア経済調査研究所(Malasian Institute of Economic Research)所長のモハメッド・アリフ氏に特にお世話になった。ブルネイまで同氏と同行し、ブルネイのエコノミストや知識人などとアジア経済危機、さらにはイスラーム化の問題に関して議論を交わすことができた。なおムハンマド・アリフ氏マレーシアを代表する優秀なエコノミストの一人であるが、同時にイスラーム経済の構築に傾けている学者でもある。なおマレーシア経済調査研究所研究所はマレーシア戦略研究センター(アブドゥル・ラザク・バギンダ所長)と並ぶマレーシアで経済分析を行っている2大シンクタンクの一つである。

(1)モデルとしてのマレーシアの経済発展
 マレーシアは東南アジアの「小国」である。人口は現在約2200万人で国民所得は日本の約50分の1に過ぎない。いわば日本の一つの平均的県に相当する経済規模ということになる。人口構成を見ると半分強がマレー人、3分の1が華人、約1割がインド系とされており、多人種国家である。この人種間の政治的経済的バランスをいかにとるかは1957年に英国から独立して以降の大きな課題であったが、69年5月にクアラルンプールで起きたマレー系と華人系の衝突はその緊急性を認識させる上で大きな意味を持った。その後71年に始める新経済計画ではマレー人と土地っ子に対する優遇措置を一層明確化したいわゆる「ブミプトラ政策」が本格的に導入された。これは株式所有、雇用面でのマレー人に対する割り当て目標、さらに教育面でのマレー人と「土地っ子」の優先政策を含むものであった。
 その後マレーシアが過去30年間にわたってかなり順調な経済発展を遂げてきた背景には、小規模国家の小回りのしやすさを利用して、開発戦略の手直しが比較的容易だったことがある。マレーシアは独立以来、概して外資に対して規制が緩やかな政策をとってきた。当初ゴム、錫、パームオイルを中心とする1次産品輸出国として出発しながら、過去ほぼ20年間の発展は輸出主導型工業化戦略のもとに外国直接投資を受け入れてきた歴史であった。1次産品の買上げ価格の協定などを柱とした60年代あるいは70年代の開発戦略と異にしていることに注目しておきたい。
マレーシアは70年代以降、生産・貿易構造を輸出志向型に転じ、伝統的な植民地型の一次産品輸出国から世界的な電機・電子製品の生産・輸出国へと転化を遂げた。これは多国籍資本の世界戦略の展開に適応した結果であるが、その過程で技術・経営ノーハウの移転なども不十分な面も有しながら行われてきた。これは世界資本主義の再生産構造のなかに過去の一次産品中心主義の時代とは異なった産業レベルで組み込まれるプロセスであった。米日などの先進国市場への依存という脆弱な側面を有しながらも、過去30年間は2、3回の停滞期を挟みながらも高度成長を続け、産業構造の多様化に成功してきた。GDPに占める輸出と輸入の比率を見ると、1970年にはそれぞれ44%、37%であったのが、危機前年の96年にはそれぞれ89%、90%に達していた。1971−1990年のマレーシアの経済成長率は年率平均6.7%であり、しかも1991−95年、つまり90年代前半の平均成長率は8.7%と加速化されていた。この間インフレ率が3−4%に抑えられたのはマクロ経済政策としては成功とみてよい。この過程でマレーシアはアジアNIEsの一角を占めるとみなされるようになった。
マレーシアは天然ゴム、錫、パームオイル、木材、ココア、石油、天然ガスなどの1次産品の主要な生産国で輸出国であるが、その相対的比重を低下させている。ゴム、パームオイル、木材の加工産業の一定の発展もみられる。しかし今日マレーシアは世界でも主要な半導体、エアコン、オーディオ・ビジュアル製品の輸出国の一つでもある。通貨危機直前の1996年の製造業生産における電機電子産業の比重は35%、雇用労働力の比重は30%という高い比率を占めている。総輸出に占める製造業の比率ははるかに高く約8割に達し、その内3分の2が電子・電機製品である。米日などの多国籍企業を誘致し、マレーシアを主として電機電子製品の国際的輸出基地に転化させたのである。しかし資本・技術さらには部品を外部つまり輸入に依存する比率が高く、また海外輸出市場に依存する発展路線は、アジア通貨危機でその弱点を露呈したと見ることもできる。輸出増は原材料・部品の輸入依存度の高さから直ちに輸入増に結びつく傾向を持っていたからである。また主要輸出品である電子電機製品が著しく対米輸出に依存する構造は、別の脆弱性を持っていることは否定できない。国内における「裾野産業」の育成と東アジア・東南アジア内部での市場の深化が求められていることは故なしとはしない。また労働力不足から通貨危機が始まった時点では合法輸入労働者が100万人近く、不法流入労働者も100万人程であったという。他方、後述のリンギ高もあって一種の「オランダ病」もあり、農業、特に米作はその地位と役割を低下させられた。
 他方、輸出主導型戦略がマレーシアで成功した背景には、整備されたインフラ、水準が高い行政官僚制度、地理的条件、低廉な労働力などの好条件が重なっていたためである。電機電子産業を見ると60年代末までの輸入代替工業化政策期には内需用生産のために一部日系外資が入っていたに過ぎなかった。しかし70年代に入ってからの本格的な輸出志向型発展戦略のなかで、自由貿易地区の設立、保税工場が作られ、一連の優遇措置を利用した外資主導型の発展が見られるようになった。70年代半ば以降、内需用生産と輸出用生産の分業が機能し、輸出も米系の半導体、日系の電機という特徴が見られた。85年のマレーシア不況を契機とする外資優遇措置の導入とプラザ合意での円高修正が重なり、マレーシアに対する日本と台湾の投資が急増し、さらに新たな発展を見ることになった。電機電子産業の生産・雇用・輸出に占める突出的重要性が示すように、マレーシア経済の牽引力となったが、これは米日の多国籍電機電子企業の世界分業の枠組みのなかに組み込まれるなかでの発展であった。
 ところで輸出加工区を設置し外資導入に努力する国が自動的に外資を導入でき、その発展を保証されるわけではない。多くの発展途上国では輸出加工区がうまく行かないケースの方がはるかに多い。マレーシア型発展をすべての途上国のモデルにはもちろんできない。条件がそれぞれ異なるからである。また自動車産業など輸入代替的政策も業種に対応して採用しており、すべて輸出志向ということはできない。

(2)リンギが攻撃された理由
マハティール首相はバーツ危機直後の97年7月以降、ヘッジファンド攻撃の最先鋒となったことはよく知られている。アジア通貨危機の仕掛け人が国際的ヘッジファンドであり、危機の原因は単に途上国経済における弱点だけではなかったことはいうまでもない。その意味でマハティール首相の行動は経済政策の主権を維持しようとする努力を反映するものであった。しかし同時にマレーシア・リンギ(マレーシア・ドル)が攻撃された一因はタイ・バーツと同様「リンギ高」があり、それが国際的為替投機業者にねらい打ちされたのである。マレーシアのリンギが「過大評価」されたメカニズムは何であったか。
リンギの為替レートは輸出促進の必要性と、そのための原材料・中間財をいかに安く輸入するかの相互に相反する要求のなかで決定されるものである。マレーシアは周辺諸国と同様自国通貨リンギを狭いバンドの枠内で米ドル・ペッグする政策をとってきた。ドル・ペッグは国際貿易に強く依存する経済において輸出業者を為替変動にさらさないという意味で有意味な政策ではあった。しかしペッグ政策は2つの問題点を持っていた。第1にペッグを維持するためには、国内経済政策をペッグしている相手通貨国の政策に同調させざるを得ないことである。第2に、名目為替レートがペッグレート周辺(つまりバンド内)に収まっていながら国内通貨が実質的に過大評価される事態が生じる場合が生じることである。危機以前のマレーシアにおいては、このような事態が進展していた。1990−96年の間の7年間をとると、マレーシアのM1は年率14.7%、M2は年率19.5%の増加率を見せていたのに対して、米国のM1は年率4.53%、M2は年率2.14%の増加率を見せたに過ぎなかった。このようななかでもマレーシア・リンギは名目為替レートを維持したわけで、当然ドル以外の通貨に対するリンギの過大評価現象を生み出していた。またインフレ率を考慮にいれた購買力平価(PPP)においても96年12月には12.5%リンギは過大評価されていた。
 第1に注目すべきは、電機電子産業に代表される輸出志向産業は国内経済との結びつきは弱かったことである。換言すれば輸入品が輸出に直結する中間製品あるいは原材料という構造が強まっていった。1997年の輸入の85.1%が生産目的の中間財と投資財で占められていたことは特徴的である。つまり輸出増加と輸入増加がパラレルとなる貿易構造となっていた。
第2に、国際収支におけるサービス貿易の赤字構造である。1996年をとってみると、その赤字幅は貿易収支黒字の約2倍にも相当する。そのなかで最大の赤字要因は投資収益勘定である。
タイがバーツ防衛に失敗してドルペッグから外れた後、国際投機資本はドルとペッグしているリンギのような別の通貨を攻撃し始めた。そのなかでマレーシア中央銀行(バンク・ヌガラ・マレーシア)は97年7月14日にリンギ防衛を放棄した。それまでにマレーシア中央銀行はドル売りと50%の金利引き上げでリンギ防衛を行ったが、外貨準備高の12.5%を既に減少させていた。バーツが切り下げられた以上、輸出競争力を維持する上からもリンギ切り下げは不可欠であった。

(3)マレーシアの緊急避難
 98年9月の1年間の為替取引制限措置によって嵐をほぼ乗り越えたマレーシアは、この措置が国際的為替投機家からマレーシア通貨に対する攻撃をまもり、結果としてマレーシア経済をまもったとして、一つのモデルとして提起するほどの自信を見せている*3。
アジア通貨経済危機に対してIMFがタイ、韓国、インドネシアに提示したメニューは「正統派」的な緊縮政策を通じる危機打開策であった。これはリストラを含む多くの犠牲が予想されたものであった。これに対してマレーシアが98年9月1日に導入した一時的な資本移動・為替取引の制限(選択的制限と固定為替レートの維持)は金融の自由化時代においては「非オーソドックス」な対応策であり、IMFの激しい非難を呼び起こした。マレーシア中央銀行(バンク・ヌガラ・マレーシア)が98年9月1日に発表した新政策を「金融の自由を回復するための措置」と銘打ったのは象徴的である。これはすべての貿易決済は外貨建てとし、リンギの取引を基本的に国内に限定する、つまりリンギの非国際化を達成することによって、オフショアでのリンギ取引を無意味化しようとするものであった。そのうえで、固定為替相場制導入と短期資本取引の規制に踏み切った。リンギのフロート体制からドルペッグを行うとともに、ドルとの交換レートを固定(1米ドル=3.8リンギ)させたものである。同時に保有期間12ヶ月未満のリンギ資産の国外流出を1年間にわたって停止させた。リンギ資産つまり株式などをマレーシア国内で売却することは許されるが、その売却代金は非居住者口座に預金することが義務付けられた。つまり国外に送金できないという意味である。固定為替レートを維持するためには資本・為替取引の制限は不可欠なものであった。身軽な動きをする華人による資金流出を阻止することもこの政策の主たる目的の一つであった。
 このような規制を背景としてはじめて国内金融を緩和して景気を刺激することが可能となったのである。この一方的措置に対して予期されたように各界から多くの批判と懸念が示された。マレーシア中央銀行は1年の期限切れ後の大量外為流出の危険も考慮して、99年2月9日には原則禁止措置を緩和して一定の税を支払えば送金できる制度に代えた。税率は期間に対応して30%から10%の幅に設定した。
外国直接投資と輸出に依存した発展戦略をとってきたマレーシアにとって、この政策はかなりリスクの大きい「冒険」だった。しかし他方マレーシアに対する非難の最大のものは、今後マレーシアは外国資本の信頼感を喪失し、外国直接投資が縮小し、ひいてはマレーシア経済の成長にストップがかけられるであろうということであった。何よりもIMFが掲げてきた金融の自由化とグローバライゼーションという教義に真正面から逆らったということが、マレーシアに対する感情的反発さえ引き起こしたのである。しかし当初自主的にIMF型緊縮政策をとるなど対応に試行錯誤が見られた後の措置であったこと、98年に入って実態経済面でマイナスが見られるなかで、社会不安の増大をおそれたマレーシア政府は、景気刺激策をとれる条件、つまり為替政策と国内金利政策の切り離しによる低金利政策をとる条件を確保しようとしたものであることは見逃せない。その後、国内金利は低下し、金利に引き上げによる一層の不況という事態は避けられた。
 マレーシアが危機に際して当初IMFなきIMF路線をとった。97年9月にはアンワル蔵相主導でいくつかのメガプロジェクトの延期、歳出の2%削減、12月には上級公務員の給与凍結、さらに98年予算に関して歳出の18%の削減を打ち出した。しかし当時いわゆるファンダメンタルは他のアジア諸国と比較すれば良好であった。なぜリンギ危機を引き起こしたかについては、マハティール首相が97年7月の段階からソロスなどヘッジファンドを激しく攻撃する発言を繰り返し、また歳出削減などの措置をとったため心理的にリンギに対する不安がむしろ醸成され、その結果リンギ危機が起きたとする見方が多い。このようななかでマハティールの危機対応策は98年8月のアンワル副首相解任と「非正統的」な経済政策の採用であった。その政策は結果的には概して成功といってよいが、マハティールのヘッジファンド非難発言が不必要な危機を生み出したとする見方は相変わらずくすぶっている。つまり過剰反応が通貨危機を助長したというものであり、もっと慎重な対応があれば望ましかったというわけである。しかし、筆者にとって、マハティール首相の反応が何か突発的な非合理的なものであったとする見方には賛同できない。
 結果論からすれば、マレーシアは「非オーソドックス」な方法で経済危機をほぼ脱することに成功した。マレーシアの経済成長率は1985年の不況は別として過去20年間8%以上の高度成長を実現し、96年の成長率は8.6%であったが97年のそれは7.7%でとどまった。しかし98年にはマイナス7.5%を記録し、経済活動水準は96年のレベルにまで低下した。しかし99年第2四半期には前年同期比で4.1%の成長を達成し、再度成長軌道に乗った。成長を引っ張ったのは輸出、特に対米向けの電子機器部品と半導体である。前述のようにマレーシアの輸出は約8割が製造品、そのうち約3分の2が電子電機製品で構成されている。そのため主たる輸出先である米国の景気動向は回復基調をつくるのに大きく貢献した。米経済の堅調さと同時に、リンギと米ドルの固定相場が結果としてリンギ安になり、輸出を支えたのである。産業界によっては固定相場制により中期計画を立てやすくなったとする声も聞かれる。98年はマイナス成長であったが、貿易収支、経常収支の黒字は大幅に増加し、外貨準備高も急増した。国内実態経済は建設業を除き急速に回復しつつある。製造業も電子関係を中心に輸出が急速に回復することにより復活しつつある。99年の景気回復の実績はIMFや世界銀行のマレーシア経済に対する評価を部分的に変える役割を果たしている。
マレーシアは高度成長の過程で労働力輸入国となった。しかし制限的であり、1995年にプランテーション、建設業、製造業における外国人労働者に対する制限が課された。景気回復を示すものとして今年2月28日に外国人に対する新規労働力の全面的輸入禁止の解除が挙げられる。しかし138(音楽家、自動車工など)の業種はマレーシア人によって占められることが義務づけられている。今年年頭に登録されている(合法)外国人労働者は、69万7219人であり、その内訳はインドネシア人が51万7766人、バングラデシュから12万9千人、フィリピーンから3万500人、パキスタンから3280人、タイから2888人となっている。現実にはこれに相当する非合法流入外国人労働者がいるといわれる。マレーシア人がシンガポールに入国するに際してはパスポートを必要とせずアイデンティティ・カードで十分である。これはシンガポールがマレーシア人のなかで有能な労働力や低廉な労働力を適宜利用することを目的としている制度である。なお2000年4月、マレーシアと北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)は労働者の派遣に道を開く滞在ビザの一部免除協定に調印した。
 マレーシア経済をはかる重要な時期は99年9月1日に何が起こるかであった。それは98年9月からの1年間の暫定措置が切れ、保有期間1年を過ぎたリンギ資産の外貨への転換と送金が可能となったからであり、多額の資本逃避が急激に起きる可能性があったからである。しかし最初の2週間で国外流出した外貨は8億8000万ドルに過ぎず、マレーシア中央銀行が予期していた50億ドルよりはるかに低い水準に留まった。なお同年9月21日に投資期間にかかわらず対外送金に課せられる税率は送金額の10%に一本化され、そのまま今日に至っている。この送金課税以外は国際為替取り引きはほとんど制限がない。しかし外国資本の対マレーシア直接投資は98年、99年年と連続して減少するなど否定的な影響が出ていることも否めない。これは他のアセアン諸国でもみられる傾向である。
マレーシアにおける経済危機は政治的にアンワル副首相兼蔵相の解任に伴う政治的混乱を引き起こした。アンワル解任の一因は経済危機に対する対応を巡る意見の対立であったと思われる。マハティール首相にとってブミプトラ政策の堅持によるマレー人優遇政策の継続はいぜんとして重要な課題であり、同時に種族間対立を生み出さないためには高度成長政策が不可欠であった。IMF路線による緊縮財政の政治的影響を強く懸念したのは当然である。アンワルは事実上IMF路線をとる方向に向かったが、これはマハティールにとっての自らの政治的基盤を掘り崩すことを意味していた。もっともブミプトラ政策といっても具体的なプロジェクトでみれば、一貫して追求されている政策であるとは必ずしも言えない。マルチメディア・スーパー・コリドール(MSC)は労働市場・資本におけるブミプトラ政策から解放される点にも重要な特徴を有する最優先プロジェクトとなっている。

(4)IMF的政策 不良債権処理と銀行の整理統合
 「非正統派」的経済政策によって危機を乗り越えたマレーシア経済も、不良債権の処理、銀行改革、コーポレート・ガバナンスなど改善すべき課題を抱えている。
 マレーシア中央銀行は金融システムの脆弱性を自覚しており、その改善は重要な課題の一つとなった。東南アジアの通貨経済危機の一因は金融部門の脆弱性のなかに集中的に示されたからである。通貨危機が直ちに金融危機に転化し、さらに全面的な経済危機に発展するというプロセスを経た。十分な担保を確保しない無原則的な過剰貸し付けは不良債権を累積させるとともに資本不足を露呈させた。銀行の倒産やその結果として実物経済面での大きな犠牲が続いた。マレーシアの金融部門が今回の危機に対して抵抗力を見せ、それを比較的軽微な被害で乗り越えたと見られる背景には、中央銀行の商業銀行に対する監査・指導が有効に機能していたことや、その危機が1985年のそれと比較すればまだ軽微だったからである。貸付総額に対する不良債権比率は1985年には33%に達したが今回はその半分に過ぎなかった。しかしマレーシア政府と中央銀行は、金融機関が金融自由化に対応できるだけの力を持っていないことを痛感することになった。
マレーシア政府は不良債権対策として二つの機構、ダナハルタ(Danaharta)とダナモダル(Danamodal)を創設した。ダナハルタは不良債権を担保とともに買い取るもので、ダナモダルは不良債権売却で損失を蒙った銀行に公的資金を投入したものであった。前者には150億リンギ、後者のためには160億リンギが準備された。前者が購入した不良債権の名目価格は280億リンギ、後者から投入された額は62億リンギで一応十分なものであったと見られている。しかし今年3月末現在の不良債権は相変わらず解決すべき大きな課題となっており、ダナハルタに売却した不良債権を除外しても総貸し付け残高の16%を占めている。ダナハルタに売却した分を含めると29%に達するといわれる。
 マレーシアの銀行改革は不良債権の処理あるいは弱小金融機関に対する再融資にとどまらず、銀行の合併による体質強化の課題をクローズアップさせている。中央銀行は当初57の商業銀行を最終的には10行に絞っていく計画を立てた。これはWTOに約束した2003年に実施される金融自由化に対抗できる体質強化をめざすものである。経済危機が始まってから中央銀行は金融会社を39社から25社にまで減少させた。第1位のマラヤン・バンキングを除く第2クラスに位置する銀行の地盤は脆弱であるといわれる。マラヤン・バンキング(又はメイバンク)は経営基盤もよく再優良貸付先に対する金利を6.8%から6.5%まで低下させている。政府の命令に従えば年末まで同行は6金融機関を統合することになっている。またRHB銀行はシメ(SIME)銀行を吸収し、バンク・ブミプトラとバンク・オブ・コマースは合併してブミプトラ・コマース銀行となった。99年末現在、マレーシアには商業銀行21行、金融会社25社、マーチャント・バンク12行もあり、吸収統合の必要性が指摘されている。今年5月初頭、マレーシア中央銀行総裁にゼティ・アフタル・アジーズ女史が就任したが、彼女は現行の54金融機関を10行に統合する計画を再確認すると同時に、そのプロセスを加速化させると言明した。もともとのタイムリミットである年末である12月よりも3ヶ月早い達成目標である。中央銀行は99年9月を目途に、事実上銀行間の合併を「命令」した。これはマレーシア法人として設立された外銀を除き、6行体制をめざすものである。この思想は強力な銀行(「アンカー銀行」)を核として、他の金融機関を吸収合併せしめるものであり、それによって競争力を強化させることを目的としている。この「アンカー銀行」と指名された6行とは、メーバンクのほかブミプトラ・コマース銀行、RHB銀行、アラブ・マレーシア銀行、パブリック・バンクの多目的銀行の6行であり、その預金高シェアはそれぞれ6ー11%となっている。なお外銀はこの動きからは除外されている。
 次のクラスのEON銀行、サザン・バンク、ペルウィラ・アフィン・バンク、ホン・レオン・バンクの預金高シェアはそれぞれ3ー4%に過ぎない。一部では銀行合併は急速に回復に向かうマレーシア経済にとって必要な融資活動を減速させる危険性があるとして懸念する声も聞かれる。資産の現在価格低下により処理が難航しているからである。銀行は合併しても2年間は強制解雇を禁止しているので、コスト削減効果が出るには時間が必要であるとする議論である。
中央銀行は年間融資額増加率8%の目標を撤廃した。マレーシア経済が激動に見舞われた98年、99年にはそれぞれマイナス1.8%とプラス0.3%で到底目標には到達しなかった。今年3月末の金融機関の貸付残高は前年同期と比較して2.7%減となっている。融資額増加の目標を達することは、景気回復に伴い過去の返済を行う企業も増えているなかで容易ではない。マレーシアの対外債務は対GDP比で大きくはないが、対内債務の規模は対GDP比で145%という桁外れの大きさを見せていることは注視する必要がある。またコーポレート・ガバナンスの問題は銀行部門のみならず一般企業部門でも見られる。

(5)ITを主導産業に
経済危機を経てもマレーシアの産業発展戦略は基本的に変わっていない。それはマルチメディア・スーパーコリダー(MSC)構想の積極的推進である。MSCは1995年8月にマハティール首相によって提起されたもので、約110億ドルを投資してクアラルンプールからスパングの国際空港までに広がる広大な地域を国際的な情報技術産業の拠点にしようとする野心的な計画である。この構想はマレーシアをアジアのIT産業センター、さらに世界のITセンターに位置づけている。この構想の大きな特長の一つは対象地域内では、マレーシア国内法の多くが適用除外となり、特に資本、労働面での制約のほか、市民権の分野までの大幅な規制緩和を予期していることである。通貨経済危機後においても、MSC構想が積極的に促進されるべきことが再確認されている。しかしこの大プロジェクトにとっての問題は、予期されたペースで外資が投資参入を行っていないことである。
 マレーシアはMSCのためにマルチメディア開発公社を設立した。マハティール首相自身がMSC委員会の議長を務めている。MSC関連プロジェクトにおいては免税や補助金を含むさまざまな優遇措置がとられている。さまざまな優遇措置のなかで注目されるのは、MSC関係で雇用される外国人労働者には5年間の労働ビザが与えられる点である。知的あるいは熟練労働者不足に悩むマレーシアは外国人労働力の積極的導入を考えているのである。これはMSCにおいてはブミプトラ政策の制約がかからないことを意味している。またマレーシア法人であれば100%外資企業も参入が認められる。またMSCステータスを与えられた企業に対しては如何なる為替規制から解放されることになっている。すでにマルチメディア大学も開校している。まだNTTなど一部企業が進出し始めている段階であるが、その後が続いておらず、アジア経済危機、さらにマレーシア通貨危機の影響は否定しがたい。MSC構想が成功する条件は、多国籍資本がこれに積極的に呼応するかどうかである。これは各多国籍資本がその世界戦略を考慮に入れて決定されることであり、マレーシア側と多国籍企業の利益の一致が不可欠である。
もうひとつ重要な要素は、現在マレーシアが1996年から2005年の間の第2次工業マスター・プラン期にあることである。このIPM2は、それが開始された直後に通貨経済危機に直面したわけである。この計画は工業化そのものというよりサービス産業を含むいわゆる「すそ野産業」の育成を目的としている。これは経済産業連関を重視して、競争力ある企業を育成しようとするものである。換言すればネットワークと産業間の有機的関係の育成を重視するものである。これは各「結集体(クラスター)」を基礎とする発展であり、工業的クラスター、付加価値・価値連関、主要なサプライヤーなどを基礎とする発展である。これは輸出志向型工業を核とするもので、その周辺部分は下請け企業、物的インフラ、教育・訓練などで支えられる。
 具体的にはまず第1に多国籍企業を軸とするクラスターで電気電子、繊維・アパレル産業が該当する。第2に資源を基礎とするクラスターで木材・ゴム・パームオイル・石油を基礎とする産業群である。第3に、政策型クラスターで自動車・航空宇宙産業がこれに相当する。いうまでもなく現在のマレーシアにおいては電機電子産業グループが最も重要である。
 電機電子産業において労働市場の問題が集中的に現れる。熟練労働力あるいは技能労働力の不足が見られ、本来ならばマレー系で埋め合わせることが望ましいが、ミスマッチが見られる。他方、マレーシア経済は急成長の過程で労働力不足問題に直面し、労働力の輸入が大きな問題となった。危機直前には合法・非合法を併せて約200万人、つまりマレーシア人口の10%に相当する外国人労働力の流入が見られた。重要なことは外国人労働者はほぼ全員が労働人口を構成しており、マレーシアの約20%の労働力が外国人ということになる。これは主としてマレー人が就業しない分野への流入であり、未熟練労働市場である。バングラデシュ、インドネシアなどが多い。それには地理的近接性、所得格差と宗教的同質性が意味を持っているといえよう。しかし一部ではTI分野でインド人などの輸入技能労働者も見られ、ブミプトラ政策の方向を満たしていない。マレーシアが電機電子産業でレベルアップするためには技能労働力不足をどのような形で埋めるのか、輸入か国内での育成かという選択の課題がある。現在の方向では技術移転が間に合わず労働力輸入で満たさざるを得ないという選択であろう。
 半島部の発展と比較して東マレーシアは別の経済圏を作っている。東マレーシアはボルネオ島北部のサバ・サラワク両州を指すが、エスニック構成からして半島部とは著しく異なっている。ブミプトラの意味もマレー系のみに限定されていない。またサラワク州内にブルネイを抱えているほか、ボルネオ島南部にはインドネシア領のカリマンタン州が位置している。ロペス前フィリピン大統領が提唱した東アセアン成長地帯(EAGA)は、この地理的条件を背景にしたものである。EAEGは94年3月に発足し、フィリピンのミンダナオ島、マレーシアのサバ、サラワク両州、ブルネイ、インドネシアの東・西カリマンタン、北スラウェシ州を含む地域で、新たな開発フロンティアとなることが期待されている。この地域は「成長の三角地帯」とされるシンガポール、マレーシアのジョホール・バル、インドネシアのバラム島と比較すると、工業基盤が弱く、具体的な展望はまだまだである。特に今年に入ってミンダナオ島を拠点とするアブ・サイヤフ率いるモロ解放戦線が中央政府に反対して武力攻勢を展開しており、ミンダナオ島のモロとの和解が不安定になると、政治的にも経済発展の条件は悪化している。フィリピンなどからの不法移民の流入が地域的な不安定要因を構成している。

(6)東南アジアとマレーシアのイスラーム管見
 1)ムスリム・アイデンティティ
 東南アジアのムスリム圏においてもイスラーム復興の流れのなかで、いくつかの意味でイスラームと経済発展の問題が関連している。一つはマレーシアの経済発展はイスラーム世界全体で持ったモデル的意味があり、マハティール首相がリンギ攻撃をする国際的投機資本とユダヤ系の関わりに言及したのは、必ずしも突発的な発言ではない。第2に、政府批判もイスラームの論理を媒介に展開されていることである。第3に、経済のイスラーム化、特に金融面でのそれが従来以上に議論されていることである。第4に、グローバル化とイスラーム・アイデンティティーの強化が並行して進んでおり、相互の関係が重視されることである。第5に、インドネシアなどで「民主化」がイスラーム化を支える構造が生まれていることである。イスラームの果たすべき役割は、状況によるものであり、一義的には規定することはできない。
 第1に、一般的な教育の普及が、イスラームへのアプローチを多様化したことである。モスク付属の宗教学校(インドネシアのプサントレンなど)を通じてイスラームだけではなく、直接書籍を通じてイスラームを知る機会が増えてきた。マレーシアの一般書店で宗教書、特にイスラームの解説を行っている「タフシール」が極めて多い。市場の広さを意識してインドネシア語での記述が多いと言われるが、もちろんマレーシア人でもアプローチが可能である。2月末に立ち寄った、クアラ・トレンガヌ(トレンガヌ州の州都)の空港での書店はかなりの本を売っていたが、ほぼすべてが宗教書であった。「タフシール」はさまざまなイスラーム理解の方法を伝えてくる。第2に、中東イスラーム諸国の大学へのマレーシア、インドネシアからの留学生が決して少なくないことである。第3に、各種イスラーム運動の指導者の間に中東帰り、つまりカイロのアズハル大学の卒業生などが増えていることである。このような動きは、東南アジアのイスラームをアニミズムとヒンドゥーイズムの伝統の上にオーバーラップしたイスラームという理解の修正を迫りつつあるように思われる。第4に、イスラームのイデオロギー的役割は、むしろ大きくなっていることである。ブルネイでは90年代に入って、いわゆるグローバル化あるいは開放化の流れを予期しながら、他方では上からのイスラーム化政策が強まっている。公的教育と並行して行われているイスラーム宗教学校での教育に、ほとんどのマレー系の家庭が子弟をおくっているが、最近では非ムスリムである華人の一部が、イスラームを知っておいた方が良いとして子弟を宗教学校に入学するケースさえ伝えられている。
そのなかで東南アジア・ムスリム特にマレー系の間で微妙なアイデンティティーの揺らぎが見られる。2月末から3月初頭にかけて訪問したブルネイのエリート間で以下のような会話を聞く機会があった。マレー人のキリスト教徒と中国人(華人)のムスリムを比較した場合、マレー人にどちらが近いのか、という論争のなかで、やや躊躇した後、中国人のムスリムの方がより近いという答えが大勢だったことである。もちろん、一つの例だけで普遍化することは慎重に避けなければならないが、このような例があること自体、アイデンティティーの揺れが見られるといってよい。
 2)イスラームと経済発展
経済危機のなかであらためて注目されたのはイスラームと経済発展との関係である。マレーシア経済調査研究所所長モハメッド・アリフ氏は東南アジアとイスラームについて次のように記している。「イスラームは東南アジアにとって決して新しいものではない。(中略)ムスリムの定住地は11世紀にはすでに存在しており、15世紀までにイスラームはこの地域で深い根を張っていた。イスラームは学問と商業を激励する新たな価値体系をもたらした。イスラームの導入はこの地域の発展の新時代の始まりを画するものであった。西側の考え方と異なって、イスラームは開発を抑制してきた力ではなかった。なぜならばイスラームの価値体系は学問、研究、勤勉を励ますものであり、経済進歩を促すものである。植民地主義の影響の下で初めて、この地域のムスリム共同体はこれらすべての積極的価値を引き下げ、深刻な外的脅威と見なされるものに直面して内向き志向の途を選んだのである。その結果、東南アジアのイスラームは儀式の宗教となり、かつてこの地域でムスリムを高い境地に導いたダイナミックな力であることを止めたのある。植民地主義の時代が終*4わり、独立した民族国家の台頭に伴い、イスラームは再度考慮に入れるべき力として登場したのである」。この発言のなかに、イスラーム復興と経済社会進歩を結びつけて考えようとする知識人の一つの方向を窺うことができる。また経済政策の底流としての価値観をイスラームのそれと重ねてみることができる。マレーシアの知識人のなかにはモハメッド・アリフや K.S.ジョモ(マラヤ大学経済学部教授)のように、独立後のマレーシアにおけるイスラーム復興を極めて重視する者が多いことに注視する必要があろう。マレー系の価値観を根底から支え意識の深層を支配するイスラームが新たな自己表現を求めているといってよい。現在の流行用語を使えば、ポスト・コロニアリズムの現象の一つである。なおモハメッド・アリフは90年代初頭、「東南アジアのイスラームと経済発展」に関する研究書を3巻編纂しており*5、イスラーム・アイデンティティーと経済発展の関係に深い関心を見せてきた代表的な研究者である。
3)北部マレーシア
 マレーシアにおいては99年11月の総選挙で北部を中心にイスラーム政党である全マレーシア・イスラーム党(PAS)が8議席から27議席へと3倍以上に躍進した。与党連合の民族戦線(Barisan Nasioal)は総議席の3分の2以上を占めており絶対多数であるが、それにもかかわらず、マハティール政権にとって最も気になる動きである。選挙後PASの機関誌「ハラカ」に対する規制の動きが強まっている。
マレーシアの北部地方、東海岸(クランタン州とトレンガヌ州)と西海岸(クダー州とプルリス州)は伝統的にイスラームの影響力が強いところであるが、タイ南部の4州とも地理的に接している。トレンガヌ州だけは直接タイ国境と接してはいないが、歴史的には4州ともタイとの関係が深いところである。クダー、ペルリス、クランタン各州は米穀地帯であり、またマレー・イスラーム文化の中心地と自負している地域である。
 トレンガヌ州では99年末にPASと民族戦線の州連合政権が成立し、PAS副総裁のアブドゥル・ハディが州首相に就任した。今までクランタン州ではPAS系が州政権を握っていたが、野党州が2つになったことを意味する。マレーシアは周知のように連邦制であり各州の自律性が高く北部4州にはいずれもスルタンがいる。この地域はマレーシアの他の地域とは異なって銀行・学校などの休日は金曜日であることに示されるように独自のシステムをとっている。99年のPASの躍進を与党連合の核であるUMNOに対する批判票の増加で説明する向きがあるが、それは確かであるが、それだけでは事態を掌握するのに不十分であると思われる。単なる伝統的イスラームの復興という枠で考えられない、PAS指導部の変化、国際的なイスラーム復興の影響、さらに情勢の発展のなかで若年層の参加など新たな要因がつけ加わっている可能性が高い。
PAS内部では80年代に「クーデター」があり、アズハリ留学組が指導権を握った。この「青年トルコ党」はもともとPASの奨学金によってエジプトに留学した者たちで、アズハル大学に属しながら必ずしも体制派イスラームだけを学んだだけではなく、さまざまなイスラーム諸潮流と積極的に関わってきた者たちであるとされる。エジプトのイフワーン・ムスリミーン(ムスリム同胞団)も含む政治的イスラームを唱えるグループと接触してきた可能性が高い。このようにアズハリ留学組だからといってPAS指導部を保守派とのみ規定することは不十分である。PASには南アジアにおける政治的イスラームの急先鋒であるジャマーティ・イスラーミー(イスラーム協会)の創設者であるマウドゥーディーの影響も入っているようである。一般的に東南アジアのイスラーム運動をムハンマド・アブドゥと結び付けてみる見方が多い。しかし今日の政治的イスラームにつながるシリア人の思想家ラシード・リダーの影響を重視すべきであるとする見方もある。

(7)一連のマハティール発言の位置づけ
 先に述べたマハティール首相の国際通貨投機家の非難を単なる一時的思いつきと見ることはできない。マレーシアは過去20年間、イスラーム世界のなかで唯一といってよいほど順調な経済発展を経てきた。これはイスラーム世界内外から高い評価を得ている。そのなかで突如襲ったリンギに対する攻撃はタイの通貨危機の連動面があるにせよ、マハティールにとって単に経済問題の視点だけで考えることができなかった。これはイスラーム世界の発展を許さないユダヤ人の陰謀、さらには「シオニストの陰謀」を見ようとしたのは決して唐突ではない。ちなみにマレーシア、インドネシア、ブルネイはイスラエルを承認しておらず、当然のことながら国交がない。これは環アジア太平洋世界の経済発展の恩恵に浴しようとするイスラエルにとって、大きな障害の1つと認識されてきた。イスラエル経済界は91年末以降の「中東和平プロセス」への期待のなかで、マレーシア・インドネシアの反イスラエル感情を緩和し、イスラエルがアジア太平洋市場に進出し易くなることを挙げていたことは印象深い。確かに現実的には民間レベルで経済交流は進んでいるが、本格的な交流にはまだ障碍があることは事実である。マレーシアがIT革命に乗ることを大きな開発戦略としてマルチメディア・スーパー・コリダー(MSC)計画を最優先している現在、ソフトウェア産業では一層発展を見せているイスラエルの動きは十分気になるところである。イスラエルとは開発戦略の次元でも意識せざるを得ない存在になってきているのである。
マレーシア外交を見ていて、時々気になるのは「イスラーム・ファクター」の突出性である。1984年にパキスタンのペシャワールでアフガニスタン・ムジャヒディーンの亡命政府が結成された時、その承認国は4カ国であった。パキスタン、サウディアラビア、バハレーンとマレーシアである。マレーシア以外は比較的説明可能であるが、マレーシアの突出的行動は目立った。これについての分析は今まで目にしたことがないので注意を促したい。筆者の推測に過ぎないが、この動きはマレーシア国内でのイスラーム「原理主義」の高まり、つまりダッワ(Dakwa)に対する政府の対応の一つで、政府の「イスラーム性」を国内的にアッピールするシンボル操作であったのではないかと思っている。クアラルンプールには1982年に設立された国際イスラーム大学があり、またイスラーム金融機関の設立にも先駆的な役割を果たしている。1983年にはバンク・イスラム・マレーシアが設立されたが、翌84年にはイスラーム保険会社が設立されている。
今回のマレーシアの経済危機に対する対応策、固定為替レートと外貨送金規制などは、もちろんイスラームとは直接の関連はない。しかしクルアーンが特に強調している利子の禁止には不労所得の排除の思想が根幹にあり、ヘッジファンドによる為替差益取得行動は極めて反イスラーム的なものとして見なされるもので、ムスリムの間に強い反発があっても不思議ではない。
マレーシアは90年代に南々協力あるいはイスラーム圏の連帯を旗印に、中央アジアのウズベキスタンなどに比較的活発な対外投資が行われた。しかし中央アジアへの投資は失敗したケースも多い。対外投資の誘因はリンギの過大評価にも起因するが、このリンギ高を是正するプロセスが進み、それまでの対外投資に対する考え方は経済危機のなかで修正された。
マハティール首相はイスラームをマレーシア、特にマレー系を結集するものと見ているが、同時にPASに代表される反体制的イスラーム運動を抑制しなければならない。PASの機関誌の発行回数、内容に神経を尖らせると同時に、国内のイスラームを行政的にも統制下に置こうとしている。国内約5000といわれるモスクに対する政府の直接統制を導入しようとしていると言われる。そのなかでマハティール首相はイスラームを従来以上に強調するとともに、政治的イスラームを抑えるという難しい綱渡りを強いられている。