2-c「イラン概念」第1回研究会

10月4日に開催された、第1回「イラン概念」研究会で、以下のことが決まりましたので、ご報告いたします。

  1. 研究会の名称について
    各方面からのご意見などを参照し、以下の通りとします。
    イラン研究動向分析−「イラン」概念をめぐって−
    (略称;イラン概念研究会)
    なお、英語名称については現在調整中で、近日中にホームページに掲載予定の研究会要旨報告の英語版に載せる予定です。
  2. 次回研究会について
    第2回研究会は、以下の予定で行います。
    [日時]1998年1月10日(土)午後2時より
    [場所]上智大学四ッ谷キャンパス
    [発表者]山岸智子氏、近藤信彰氏
  3. 参加ご希望の方は、小牧まで。
    詳細について、改めてメールでお知らせいたします。


[研究発表]『ハーネ・クーチとドウラトハーネ〜非常時におけるサファヴィー朝宮廷ハレムびとの都市移送事例分析の試み〜』

平野 豊 (明治大学大学院)

 ハーネ・クーチ(khane-kuch)とは宮廷の女性成員に子供たちを含めたハレムびとの集団を、また、ドウラトハーネ(Dowlatkhane)とは統治の場、すなわち王都やその他地方都市所在の宮殿を意味する用語である。本発表では、この二つのキー・ワードを基に、16世紀におけるサファヴィー朝宮廷とイラン諸都市との関わり具合について再検討した。
 建国直後から領土拡張に乗り出し、十年以上も王都タブリーズを不在にしていたサファヴィー朝宮廷であったが、チャルデラーンの戦い(1514年) でオスマン朝遠征軍に完敗してからは、平時には概ね王都で冬営を行なうようになった。一方、遠征などの非常時には、非戦闘要員であるハーネ・クーチを行宮から切り離し、コムやエスファハーンなど特に信頼できる地方都市にあらかじめ避難させるという興味深い慣例がみられた。これについては、ハーネ・クーチ移送役(Mir-e Ordu)にイーシーク・アーガースィー・バーシー(Ishik-aqasi-bashi)などのハレム護衛責任者が任じられた事例が目立つことから、上記の諸都市に整備されていた離宮=ドウラトハーネ付設のハレムサライが最終的な移送先であったと想定することもできる。(特にコムの場合)
 ただし、ガズヴィーン遷都後には、宮廷冬営地としてだけでなくハーネ・クーチ避難先としても新王都が利用されるようになった。特にアマスィアの講和(1555年) 後は、しばらくの間宮廷が王都に常駐したこともあり、必然的に地方都市所在のドウラトハーネは廃れていった。四半世紀後、両国間の和平が失効すると、再び内憂外患の時代に逆戻りしたが、かつてのようにハーネ・クーチを地方都市に避難させることは少なくなった。遠征に際しては、王都に残したり、あるいは宮廷に同行させたケースが増える。また、この時期、旧都タブリーズやホラーサーン地方諸都市に新たなドウラトハーネの存在が確認できるが、これらは亡くなった名士の豪邸を召し上げた一過性の「王の座所」に過ぎず、新たな地方拠点としての離宮の機能をそこに見い出すことはできない。
 結論としては、本発表での考察期間(1501-1587年) において、特にガズヴィーン遷都以後、王都は単なる宮廷冬営地から、宮廷に関連する活動全般の中心地として一大拠点化してゆく傾向にあったことが指摘できる。他方、宮廷と地方都市との関わりには当初からかなりの片寄りがみられた。領域北部ではカーシャーンなどが、中南部ではシーラーズ、ヤズド、ケルマーンなどの主要都市が宮廷の重点領域から明らかに外れていたのは意外な発見であった。
 今後はエスファハーン遷都までの残る十年間の事例を集め、本発表で得られた成果と比較してどのような変化が現われるか詳細に調べてみるつもりである。


[書評]Abbas Amanat, Pivot of the Universe: Nasir al-Din Shah Qajar and the Iranian Monarchy, 1831-1896, University of California Press, Berkeley Los Angeles, 1997 .

笹嶋 建 (東北大学大学院)

 本書は1848年から1871年までのNasir al-Din Shah Qajar(1831-1896)の生涯と時に焦点をあてている。いかにして君主,すなわち古代の政治秩序のセンターピースが国内外で近代の挑戦に抵抗し適用したのか。本書は伝統的君主制の強化における一パターンを探ろうとしたものである。
 カージャール朝後半において君主制は古代のペルシア王権の伝統、および近代的要素に影響されたが、19世紀半ばまでに王の権威には4つの次元がある。王権の前イスラム的伝統、ペルシア的王権のイスラーム的政治的権力概念への調和、権力やリーダーシップの遊牧民的概念、近代西洋の政府モデルとヨーロッパ王権の例である。
 ナーセロッディーン・シャーはその幼少期を父親と母親の関係の悪さから不遇のうちに過ごし、君主としての教育も貧弱であった。その後、1848年に王位に達すると最初の宰相ミールザー・タキー・ハーン・アミーレ・キャビールのもと政治的知識を身につけ、君主としての在り方を学んだ。さてアミーレ・キャビールが失脚した1851年11月から58年8月の時期は君主、宮廷、宰相、外国公使の間の相互作用によって強調される時期であった。この時期、バーブ教徒によるシャー暗殺未遂事件が発生し、バーブ教徒の弾圧が始まった。シャーは「真の宗教の保護」を強める。それによってウラマーとの関係が密になる。同時期、後継問題・王権問題が未解決であったが、王弟アッバース・ミールザーをバーブ教徒との連座の嫌疑でバグダードに追放した。王位への脅威であったアッバース・ミールザーの追放でシャーは安楽を得た。対外的にはヘラート奪還と、オスマン朝との抗争がいずれもイギリスの干渉によって果たせず、シャーは次第に反英感情を高め、王の名誉を傷つける外国公使館の保護権問題も絡んで対英戦争へとつながった。
 またこの時期は改革派官僚ミールザー・マルコム・ハーンの影響力が増えていた。彼は国内改革を訴え、絶対主義的君主の理念を説き、シャーの支配に影響を与えた。一方、彼からの影響以外に、イスラームへの共感が顕著であり、「シーア派のスルタン」としての義務を強調した。共通のアイデンティティと国民の結合の源としてシーア派を見ていたことを反映している。
 対英戦争後、ミールザー・アーガー・ハーン・ヌーリーが失脚したが、これはカーエム・マカーム以来続いてきた宰相権力の25年間の終りであった。しかしこの間に中央政府の力は強まり、その「守られる王国」へのより直接的支配に成功していた。シャー自身の直接統治、業務分割への転換は彼の治世のターニングポイントであった。しかしシャーはその初期の改革への熱情にもかかわらず、保守派を組み入れることで政府内の権力バランスを保とうとし、その後、次第にシャーは保守的な宮廷の忠告者で自分の周りを固めていった。その一方で直接統治のためその失政への民衆の不満を直接シャーが受けることになった。その後、1860年代半ばまでにシャーは政治の近代化の理念を捨て、保守派の台頭を許し、自らその虜となっていった。そして自分も伝統的な王に逆戻りした。1865年にはモハンマド・ハーン・カージャールを宰相に等しい職セパフサーラール・アザムに任官し、政府は保守派で固められる。シャーが保守派の望みに屈したことは明らかである。結局、官僚勢力は多くの改革指導者を殺し、古い宰相職を破壊し、シャーの「国王大権」に制限をひいたのである。
 電信の国内への導入のようなナーセロッディーンの努力で、辺境の勢力や遊牧民その他が中央政府の存在に挑戦するに十分強力になることはなく、シャーは相対的な安定を獲得することに成功し、自分自身の宇宙の中心に生き残ることが保証された。政府や国家が頼ったのは制度的な装置というよりはむしろシャー個人であり、彼の個人的な行為と判断こそが政府と国民の微妙なバランスを維持したのであった。最終的に立憲革命がこの君主制に伝統的に象徴される宇宙的体制を閉ざした。
 本書は書簡などあるいは外文書などを非常に多用し、また、ペルシア語資料も数多く使用し、細部にわたった描写をしている点が評価できる。その一方で論拠がないにもかかわらず、論を進めているところがあり、残念であった。イランをめぐる国内外の諸状況を多くおさえているものの、改革派・保守派・ウラマーの関係の諸事において何か新しい知見が加えられていなく、さらに保守派に関してはその記述が少なかったことは残念である。また本書の対象時期が1871年までとされているので、軽くは触れられているものの、その後のミールザー・ホセイン・ハーン・モシーロッドウレの改革、タバコ・ボイコット運動など、ナーセロッディーンの治世後半の重要な部分まで論が進んでいないことは残念であった。いずれにしても本書において不十分な部分が補われることでさらに当時の時代像が明らかになることを期待する。