第2班合同研究会

「イスラーム地域研究」合同シンポジウム:
「いま、なぜ市民社会なのかー現代イスラム世界における民主化の再検討」の報告書

 1997年12月13日(土)に倉敷の「国際学術交流センター」において表記シンポジウムが開催されました。市民社会の問題は中東や東南アジアだけではなく、アフリカやラテン・アメリカなど全世界に普遍的な課題になっているので多くの者の関心をよび、出席者は60名ほどになりました。こまかな議論についてはいずれ報告書の形で刊行しますが、とりあえず司会者および出席者による概要をまとめ報告いたします。また、市民 社会は、第2班の主要研究課題であるが、本課題は他班およびプロジェクト全体の研究課題とも密接に関わるので、今後も継続的に研究を行う予定です。なお、本シンポジウムの開催に関して吉備国際大学の方々に一方ならぬご援助をいただきました。お礼申し上げます。


 「イスラーム地域」は現代では中東から東南アジアまで広範囲にわたり、さらに大きく広がろうとしている。それを反映する形で、報告者・コメンテーターには中東地域・東南アジアに加え、フランス研究者のコメントもあり、参加者の専門とする地域は広範にわたった。ディシプリンも歴史学・政治学・経済学・社会学といった様々な立場から、活発な議論が行われた。今回のシンポジウムは、空間的・時間的枠組を架橋する形で意見が交換されたという意味で、非常に有意義であったといえるのではないだろうか。

[報告者]
小杉泰(国際大学)
「市民社会論をめぐる基本的問題」
 小杉氏の報告では、「市民社会」を論ずる上での基本的な問題があげられた。イスラーム的「市民社会」をイスラーム的価値基準で論ずる必要性が説かれた。「市民社会」という概念は西洋的「近代」という意味内容を内包しているが、それを取り除いた上で、個人・社会・国家の関係性のあり方を示す「市民社会」を論じるべきであるとの主張が出された。さらに、「市民社会」の概念拡張をした上で、「ウンマ」論と絡めて説かれることが提案された。

宮治一雄(恵泉女学園大学)
「マグレブ諸国における民主化と社会運動」
 宮治氏の報告では、市民社会運動の具体的事例として、アルジェリア・チュニジア・モロッコの運動があげられたマグレブ三国では、80年代から90年代の構造調整と民主化が進められる中で、国家の弱体化が進み社会運動が盛んになった。社会運動は、労働運動・学生運動・都市暴動といった形態をとっており、運動主体としては、社会開発を促進すべくNGOや地方組織が大きな役割を果たすようになった。このような動きのなかで、新たな社会運動としてイスラム運動も出て来ている。アルジェリアの例を挙げるならばベルベル運動・女性運動・人権擁護運動がこれにあたるという報告がなされた。

水野広祐(京都大学)
「インドネシアにおける市民社会運動」
  水野氏の報告では、インドネシアにおける市民社会運動についての報告が行われた。独立後のインドネシアにおけるイスラーム組織と政府の関係は、60年代末までの友好関係から、70年代の政府によるイスラーム勢力への警戒という対立関係へと移った。そして1985年に諸政治法案が成立し、イスラーム組織がパンチャシラ(建国五原則)を受け入れた結果、政府とイスラーム勢力の関係も改善されてきた。さらに90年のムスリム知識人同盟(ICMI)の結成と相前後して、内閣におけるイスラーム知識人の進出が目立つなど政府内のイスラーム化が進んだ。イスラーム知識層の改革への思考はICMIの盛衰と関わりなく広がりをもち、その影響はいっそう大きくなりまた実際的なものになると考えられる。その具体的な例として、イスラーム知識人グループが中心となった小規模事業者や貧困者向けの信用制度、バイゥタムウィル金融システムについての実態が報告された。

私市正年(上智大学)
「伝統的イスラム社会からみた市民社会論の意味」
 私市氏の報告では、現代中東社会の民主化にとって「市民社会」の性格と機能はもっとも重要な要素であり、その性格と機能を基底しているのが伝統的社会における「市民社会<的>」組織であるという提言が出された。市民社会は、民主化を促進する作用も、独裁的体制を支える機能も、またどちらにもあまり影響を与えない場合も考えられる。従って、市民社会がどのように作用するかを明らかにするためには、現代の市民社会における伝統的な市民社会「的」機能の影響のありかたを研究する必要がある。ただし、「市民社会」の概念定義は、西欧の歴史と社会をモデルとした定義である。従って、「市民社会」という概念をより価値中立化させる必要がある。そのためには、「市民社会」という用語を利用するよりも、「民衆社会」という用語をを利用することも可能ではないかという意見も出された。

[コメント及びディスカッション]
 コメンテーターとして羽田正氏(イラン史)、中野裕二氏(フランス政治)、浅見靖仁氏(タイ)より、報告者の発表に対するコメントとそれぞれの専門地域における市民社会運動の現状についての説明があった。
 引き続き行われたディスカッションの内容は以下のようなものである。

  1. 「市民社会」という概念の捉え方が参加者の間でも二分された。
  2. イスラームと「市民社会」の関係性
 イスラーム社会がとかく「特別なもの」として議論の発展が阻まれることが多いなか、他の地域の現状を聞くことで、互いの類似性・相似性を見出すきっかけとなったのではないだろうか。今後は徹底した比較という手法がとられると、面白いのではないかと思う。
しかし、「市民社会」という枠組を利用するにあたり、互いの「市民社会」という概念の捉え方を明確化した上で、議論をすることが今後の課題ではないだろうか。


[司会者としてコメント]
三浦 徹(第6班)
 今回のシンポジウムは、「市民社会」という概念を、欧米型のそれ(大文字のCivil Society)から、国家と個人の中間項としての社会(小文字のcivil society)へと拡大することによって、アジアやアフリカの諸地域との比較、あるいは、伝統的社会と現代との架橋を意図した。ディスカッションのなかで、佐藤次高代表から、「市民社会というテーマ(概念)が、ムスリム社会の機能の理解についてどのように有効であるのか」「イデオロギー的概念ではないか」という疑問が提出され、これに対する答えとして、次のような意見が出された。

  1. 欧米諸国が、中東などの諸国に対して、民主化要求(議会制、自由選挙など)を掲げ、成熟した市民社会がないという非難を浴びせ、これを外交手段としている現実があるのであるから、中東などの地域を専攻する我々研究者はこれに答える必要がある。(後藤明、第5班)
  2. 地域研究は、固有の学問領域をもっており、そこでは、多様なものが存在するとしても、現在の当該地域がかかえる問題にこそ研究上のプライオリティがあり、どんな問題であれ、研究者はこれに関わる義務がある。(私市正年、第2班)
 両者の意見は、現在の問題に研究者が取り組む必要を説くものであるが、佐藤氏の提起は、それぞれの社会で、それぞれのタームで呼ばれている社会組織を、「市民社会」という外来の概念で把握することの有効性を問題にしているのであり、この点では、議論がすれ違ってしまっている。私市氏の意見は、地域研究の定義から説いているが、今回のイスラーム地域研究は、従来は地域研究と無縁と考えられていたディシプリンや分野も含め、「新しい」地域研究を模索するものであり、既成の定義から始めるのであれば、これに参加する人を狭めてしまうことになりはしないだろうか。
 佐藤氏の問いに関して、私見を述べれば、市民社会という概念は、歴史研究にとっても有効性をもつと考える。現地で使われる原語を用いたとしても、イクターにせよ、マムルークにせよ、ワクフにせよ、実際の歴史資料における用語は一律ではなく、それ自体もまた抽象化をへた概念や学術上の用語である。とすれば、抽象度の差の問題であり、歴史研究においても、通時的な、あるいは地域間の比較検討を行う際に、「国家」「官僚」「都市」というような抽象度の高い概念が使われていることはいうまでもない。第二は、当該地域にとって外来の概念・用語を使うことのマイナスとプラスであろう。プラスに面については、他地域との意識的な比較・対照を行うことによって、相互の社会の相違点(特性)の発見につながる可能性をもつ。但しこの比較を行う際に、シンポジウムで指摘されたように、西欧の「市民社会」概念を基準として、中東での市民社会の不在を指摘し、さらにはそれを「未成熟」とするような立場は、学問的に無意味であり、また、イデオロギー的なものとならざるをえない。そこで概念を拡張し、当該世界において、市民社会的機能を果たしているものを探すことによって、共通の土台にのった比較が可能となるように思われる。ただし、市民社会という用語に抵抗感があるのは、どうしても西欧社会の色や価値観がついてまわり、ニュートラルな用語になりにくい点である。私市氏が「市民的社会」と呼んだものは、「中間団体」「社会的ネットワーク」のような用語で表現することも可能であろう。 このような概念の拡張を行う際の問題は、中間的諸団体が存在する(すなわち市民社会が存在する)という発見で終わってはいけないということである。問題はその先にある。中間的諸団体が併存するとすれば、その相互の関係は何によって律せられていたのか、あるいは国家との緊張関係はどのように展開されるのか?という問題である。そこで、それぞれの社会の、歴史的地域的固有性が問題となる。その意味で、西欧の(大文字の)市民社会は、国家と個人の双方を律する原理として「市民」という概念が機能しているのであり、そのような秩序の原理に踏み込んでこそ、対等な比較が可能になると思われる。単に、中間団体の併存の指摘に終わるとすれば、小杉氏が紹介されたような「市民社会(中間団体)が強すぎて国家が脆弱で民主主義が育たない」というネオ・オリエンタリズムの議論に陥ってしまうだろう。