国際政治史研究の
史料収集

石田憲

(千葉大学法経学部・助教授)

期間 1999年7月23日〜9月5日
訪問地  ローマ、ウィーン、ロンドン

  今回のイタリア、オーストリア、イギリスにおける海外出張における調査の概要は、以下の通りである。

  日程は、ローマ7月23日〜31日、ウィーン8月1日〜7日、 ロンドン8月8日〜9月5日で、文書館と大学が主たる活動場所であった。調査は、1930年代における国際政治史研究の史料収集を目的として行われ、外交文書の閲覧と複写が活動の中心となった。とりわけ、1935−36年のエチオピア戦争に関する文書が今回の収集対象であった。

  エチオピア戦争は、旧来の植民地獲得戦争としては20世紀史上最後となるもので 、地中海、アフリカ地域に限らず、その国際社会に与えた影響は大きなものであった。 植民地下にあった周辺のイスラーム地域でも、多くの反応がわき起こった。かつてはイスラームの海に浮かぶキリスト教帝国と見なされていたエチオピアも、反帝国主義という意味では、有色人種における希望の星と見なされたのである。

  エチオピア戦争は、同時にファシズムの問題を分析する際、重要な意味を有している。イタリア・ファシズムは、ドイツ・ナチズムとは異なり、人種主義的側面を持たな いという議論が存在するが、リビア、エチオピアに着目する限り、明確な人種主義が際立つことになる。仮に反ユダヤ主義的傾向がドイツより少なかったとしても、そのことは人種主義の希薄さを意味しない。またムッソリーニは、中東諸国に対して、イスラームの守護者として自らを任じていたが、これに伴ってパレスチナでの反ユダヤ主義宣伝も展開されていた。しかし、イスラームに訴えた宣伝は、エチオピア戦争においても、ムスリムの支持を得るまでには至らなかったのである。また、ファシズムを一般的に論じていくことは、現在のイスラーム地域における強権的支配体制比較に、様々な視座を提供し得ると思われる。

  今回の調査における副産物として、2000年1月26日に「丸山眞男とレンツォ・デ・フェリーチェ:二つのファ シズム論」の報告を行い、ファシズム研究の展開を考察した。以下が、ファシズム論をめぐる報告の要旨である。

  両者のファシズム論を分析する場合、まず共通性、相互補完性、そして異質性の三点に着目して議論することが可能である。まず第一に、共通点として、両者はそれぞれの国で 、ファシズム論に同時代の啓蒙的役割を担わせていた。このため、日伊両国の歴史 ・政治的背景が、これらファシズム論に色濃く反映している。加えて、両者は、方法的にはマルクス主義的分析を取らず、過程論的な文脈の分析を重視した。同時に、ファシズムを日伊両国の近代史における逸脱と単純には位置づけず、ドイツ・ナチズムとの比較を行なうことで、その独自性を強調したのである。

  第二に、両者は、ドイツを引証基準として日伊両国の特徴を浮き彫りにしたこと で、ファシズム論全体を相互に補完した。丸山は、日本に見られた積極的目標の欠如した強制的同質化から、反革命性をファシズム定義の中心に置いた。他方、デ・フェリーチェ は、ジャコバン独裁にファシズムの起源を見出し、ファシズムの半革命性に注目した。両者の議論は、日独伊三国におけるファシズムの多様性を提示しただけでなく、ファシズム概念全体を豊かにしていったのである。

  第三に、両者の議論は、日伊両国における戦中・戦後状況の相違から、著しく異なる方向性を示すことになった。アメリカに「解放してもらった」日本では、マルクス主義の影響は学問的分野に限定され、逆コースの中で丸山が最も問題とした新たなファシズム論の問題は、マッカーシズムであった。これに対し、イタリアは左翼を中心とする抵抗運動で自らを解放しており、共産党の政治的影響力は強かった。実際、デ・フェリーチェ自身も、イタリア共産党に接近しており、ハンガリー事件を契機に、非・反マルクス主義性を強めていったのである。両者のファシズム論の共通性、補完性、異質性を検討することで、日伊両国を代表する ファシズム論の比較のみならず、ファシズム体制及び戦後政治の諸特徴が浮かび上がってくるものと考えられる。

  なお、今回収集してきた文書による実証的な研究成果については、来年度中に論文の公刊が予定されている。


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