1班合同研究会



日程:2000年1月28日(金)〜29日(土)
場所:アジア経済研究所(幕張新施設)


  1 「福祉党から美徳党へ: 言説のリベラル化と今後の展望
史子


 「南アフリカのアフリカーナー政治とオランダ改革派教会
牧野久美子

3 「インドネシアにおけるイスラーム政党の展開
川村晃一


 十字架と権力: ヨーロッパのキリスト教民主主義の成立と展開
水島治郎

 「『イスラーム政治』『イスラーム政党』は可能か
―比較政治学とイスラーム世界論の地平から―

小杉泰


報告:酒井啓子(アジア経済研究所)



第一報告 
「福祉党から美徳党へ: 言説のリベラル化と今後の展望」
 澤江史子(一橋大学大学院博士課程)

  トルコにおいて福祉党が成立した契機は、トルコ商工会議所連盟会頭であったエルバカンの個人的カリスマ性によるところが大きい。商工会議所連盟としてのエルバカンの役割は、輸入代替工業化政策の下で輸入割り当て・政府信用の獲得を巡り、中小企業の大企業に対する抵抗を代表するにあった。エルバカンが辞職圧力を受けたことを契機として政党結成気運が盛り上がった。同党のイデオロギー的核は1975年エルバカンが記した「ミッリー・ギョルシュ」に現れており、精神的・物質的両面での発展を主張、西欧模倣主義を批判する。党組織における指導者層は、宗教組織の指導者ではなくエルバカンに従うテクノクラート、官僚出身者で占められていた。

  同党は固定支持者7-10パーセント程度で推移したため選挙での最低得票ラインである10パーセント障壁を乗り越えられず、政党政治への参入を希望する限り新たな支持層を開拓する必要に迫られ、同時に敬虔なムスリムでタリカットのメンバーであるオザルが強い影響力を行使、プラグマティックな志向が強まった。こうした変化から福祉党は91年から都市組織化作戦を展開して貧困層、女性を対象とした草の根型の活動拡大を図った他、国政・地方自治体での行政担当経験を積み重ねることでこれまでの「公正な体制」に対する固執を緩めて現実路線に近づいた。また新たな指導者層にリベラル傾向の強いエコノミストなどが台頭してきた。

  福祉党はしかしトルコが国是とする世俗化原則に反するという理由を以って軍の圧力により解散を余儀なくされる。政党として存在していくためには、そのイデオロギーにおいても幹部構成においても刷新が必要となり、中道右派である正道党に近い層、祖国党の保守系議員などを含めて、新たに美徳党として出発した。その基本原則は民主主義・人権・自由・法治国家・発展と近代化などであり、特徴的なことはイスラーム、ないしムスリムに言及した表現が姿を消したことにある。同党においては政治的なイスラーム主義ではなく、リベラルな民主制の中でいかにムスリムの日常生活を守り成熟させるかに焦点が当てられている。こうしたリベラル民主主義への転換の中で旧来の保守派と新主流との対立・ポスト争い、或いは支持者と党幹部の間のギャップが見られる。

質疑
q.報告者は「イスラーム政党からムスリム民主への移行」を福祉党から美徳党への変化の中に見ようとしているが、その際の「イスラーム政党」とはどういうものを意味しているのか、定義が必要である。また「ムスリム民主」というタームもそれによって何を説明しようとしているのか分からない。
a.「政党活動を通じて社会をイスラーム化していく」ことを目的とする組織を「イスラーム政党」と呼ぶ。

q.これらの政党が自ら「イスラーム政党」と自称しているのか。
a.世俗主義原則からしてそれは不可能である。

c.となると福祉党から美徳党へのイデオロギー変化と見られるものは単なる政権原則に抵触しないようにレトリック上言い換えているだけなのではないか。 
c.報告で提示された党の大衆動員方法などを見ていると、かなり細かい党細胞の存在を前提にした活動が展開されているように見えるが、トルコの他の政治政党と比較し場合、福祉党に特徴的なことなのか。特にアラブ諸国で見られるような左翼政党の党細胞組織の形成パターンとの類似性が感じられる。


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第二報告
「南アフリカのアフリカーナー政治とオランダ改革派教会」
 牧野久美子(アジア経済研究所 地域研究第二部)

  オランダからの入植者の子孫であるアフリカーナーは南ア白人の6割を占めるが、このアフリカーナーナショナリズムは白人の間での反イギリス帝国主義との色彩強く発生したものであり、最初1870年代からアフリカーンス語を定式化した言語・文化運動として始まった。1900年代には第二期展開として、ボーア人が1830年代に内陸移動を行なったグレートトレックを神話化した宗教的側面が強調されて発展、1914年に国民党結成の形で具現化された。その後プア・ホワイトとして都市労働市場においてアフリカ人と競合する、といった形での経済問題も関連し、1948年にアパルトヘイトを掲げた国民党政権が成立した。

  国民党政権はその政策を宗教的に正当化してきたが、アフリカーナーの民族教会たるオランダ改革派教会(NGK)を核として練り上げられた主要論点は、
@アパルトヘイトや分離発展は「バベルの塔」神話に示される通り神意の現れである、としてこれを正当化する「アパルトヘイト神学」、
A南アを無神論者である共産主義と戦うキリスト教国として位置づけ、反アパルトヘイト運動自体の反神性を聖書ロマ書(権威の神起源論)に求める、といったものである。

  ただしNGKと国民党が一体であったという理解は正確ではない。Poselに見られるように最近の研究においては、アパルトヘイトの意味を巡る二種―purist / pragmatist―の解釈もなされている。国民党自身は、宗教政党であるものの権力維持目的のため一定の妥協・改革路線を取るようになっていくが、1982年にこうしたボタ政権路線を裏切りとして反発、離脱分子がNGKの著名な神学者であるトロールニヒトを党首として保守党を結成した。この保守党の党政策のなかに、政党としての権力奪取目的ではなく、purist理念の実現目的を見て取ることができる。

質疑
c.オランダ改革派教会という訳は、実際にオランダに存在する教会と混同される可能性があるが、これは別組織である。
c.政党の権力追求に関して、purist / pragmatistとの分類が指摘されているが、宗教の政治への利用といわゆる「宗教政治」との違いは何か。敵に対して宗教的・道徳的用語を以って攻撃するというレトリックは、必ずしも宗教政党のみに特徴的ではなく、一般に見られることである。


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第三報告
「インドネシアにおけるイスラーム政党の展開」
 川村晃一(アジア経済研究所 地域研究第一部)

  まず政党の定義を岡沢氏の定義に従い「政治空間に浮遊するさまざまな利益・思想を吸収・動員して、その力を背景に政治過程の継続的支配権を奪取しようとする人々への集合体」とし、その目的を「全体的な政治権力の獲得・行使・維持から、(最終的に)政府を形成して立法過程の主導権を得ること」とする。この定義に即してイスラーム政党を定義すれば、「ムスリム共同体の利益実現のために政治権力を獲得すること」となる。

  インドネシアにおけるイスラーム政党の発展過程を見ると、まず1912年に、インドネシア社会全体がイスラームにのっとっていないとの危機認識からイスラーム改革派政党としてムハマディアが成立したのを嚆矢とし、ついでこれら改革派の台頭に対する伝統派の危機感を背景として1926年ナフダトゥールウラマNUが成立した。一方1910年代から中東の影響を受けた急進派、イスラーム同盟が勢力を伸張させ、共産党系と共闘したが、その後共産党系の分裂などにより弱体化していった。こうした種々の運動の萌芽は1930年代に入りインドネシア・イスラーム評議会という形で改革派・伝統派の大同団結が実現、さらに日本占領期に軍の指導による包括的イスラーム組織としてインドネシア・ムスリム最高評議会が、また独立後にはイスラーム連合政党のマシュミ党が成立するなど、いくつかの大同団結の試みが為されてきた。

  スハルト政権下においては改革派のマシュミ党、伝統派のNUが中心的なイスラーム政党として推移するが、73年イスラーム系政党は半強制的に開発統一党に統合された。同党は1983年のパンチャシラ原則の強要においてもこれを受け入れる姿勢を採ったのに対して、NUは「イスラームへの信仰」ではなく一般的に「神への信仰」を謳ったのみのパンチャシラに他する反発を見せて離脱、政治からの撤退、文化・教育分野への専念を志向し、結果政治システムから外に出た形でのイスラームの動きが活発化していった。その他現在勢力を持つイスラーム政党の多くは、1998年に成立したものが多い。

  インドネシアにおける選挙はこれまで1955、1971、1999年とあるが、99年選挙の場合は参加政党48のうち20強がイスラーム政党(綱領にイスラームの信奉を謳い、イスラームを価値基準とするもの)であった。選挙行動におけるこれらイスラーム政党の活動は、基本的にはそれぞれのイスラーム政党の支持基盤である地域をベースにしており、地域偏向性が強い。イスラーム政党間の大同団結・統一といった動きは、しばしばメンションされるもののこうした地域的バラツキの結果まとまっておらず、政治勢力として登場する可能性は少ないと言える。

質疑
c.政党の定義のあり方について。広義には上の定義で良いが、狭義には選挙行動を基本とした政党政治を舞台とするのが政党であろう。選挙制度を拒否・ボイコットするような、或いは暴力手段に訴えるのみの政治組織を政党として認識しうるのか。
c. 結語として「地域的バラツキの結果まとまっておらず、政治勢力として登場する可能性は少ない」という指摘があったが、これは当事者の間に「政治勢力として台頭するには統合が必要」といった認識があるからこういう指摘になったのか。むしろイスラーム諸政党が併存する状況こそがイスラーム政党と民主主義の相互受容性を示すという意味で、或いは複数の政治行動を認めるという意味で、一層の政治的発展としてとらえられるのではないか。
q. 中東における復興主義の成立に先立ってインドネシアでこうしたイスラーム政党の成立が見られた原因は。


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第四報告
「十字架と権力: ヨーロッパのキリスト教民主主義の成立と展開」
水島治郎(甲南大学)

  本報告の基本的な問題意識は、政治と宗教の関係を考える上で、ヨーロッパ独特の表現としての「キリスト教民主主義」というものに着目し、それを「保守主義」と理解するのか「宗教政党」と理解するのか、という点にある。キリスト教民主主義は独・伊・仏・ベネルクス三国などで政権の中核となったが、その意味は何か、そしてその後現代ヨーロッパにおいて社会民主主義政権の復活により凋落していったことを捉え、その大陸ヨーロッパ政治におけるプレゼンスを概観する。

  キリスト教と政治との関わりにおいて三つの様相が指摘でき、それは権威に対する服従、とりなし=祭司的機能、支配者に対する抵抗である。
キリスト教諸宗派と政党結成のパターンを見ると、最も政党結成しやすいのがカトリックであり、それにカルヴァン派、ルター派が続く。これに英国国教会を加えた4つはトレルチの言うところの「キルヘ型」教会で、信徒訓練や規律性が強く、政治社会的性向を持つが、英国国教会の場合は政党結成は見られない。他方メソディスト、バプティストなどの「ゼクテ (分派) 型」教会は信仰を個人のものとし、政治活動への進出は見られない。

  キリスト教民主主義政党の史的展開を要約すれば、以下の通り。1850-70年代にヨーロッパ全域で反教権主義が高まり、自由主義派が各国で政権を掌握、教会の政治的・社会的機能の削減(公教育の非宗教化、民事への教会権限の削減など)が図られた。これに対して教会側では、大衆的組織化への抵抗が見られたものの、信徒・下級聖職者を核とした大衆組織作りが活発化し、政治参加が進むにつれ、自前の党組織建設へと発展していった。ここでは司教団による統制が嫌われ、また選挙を目標にした際に教会との一体性がかえって集票にマイナスになるという要素もあり、教会組織とは緩い関係を維持するに止まった。

  キリスト教民主主義政党を社会集団との関係で見ると、まず資本主義発展の過程で社会問題の発生に伴い、各階層でコミュニティを基本とする宗派系組織が結成されていったのに対して、キリスト教民主主義政党がこれを糾合して政治的代表となった。ここでキリスト教民主主義政党は自由主義の個人主義、社会主義の集産主義と異なり連帯主義を基本とする職能身分秩序を提示した。これをもとに階級横断的な系列組織に加えて宗派学校やメディア、農民団体など社会各層に張り巡らされたネットワークを利用して資源配分を行ない、党員・候補者の補給と動員対象としてこれらの社会集団を基盤としている。

  90年代からキリスト教民主主義政党は各国において選挙で大敗し社会民主主義政権が成立するようになるが、それはキリスト教系労組などの系列団体が系列離れを起こしていったことや、EU通貨統合が進んでいったことで各国ともに財政赤字の削減を進めた結果キリスト教民主主義政党の動員資源が枯渇したこと、キリスト教民主主義政党の福祉政策が、スウェーデンでの対失業者職業訓練重視政策などと異なり手当て面の重視に偏向したため労働市場への再統合が進まなかったこと、経済がグローバル化したことにより農民、旧中間層などの支持基盤を直撃したこと、などが理由としてあげられる。

  こうしたキリスト教民主主義政党の意義と限界をまとめれば、以下のようになる。第一に、19-20世紀初頭の大衆政治開花期における信徒層の政治体制への統合を促進したこと。第二に、中道=かなめ政党として政治的安定に貢献したこと(ただしクライエンティリズムや汚職の温床と化するという問題点あり)、第三にコーポラティズム的な団体を包摂して先進国の経済社会における統合原理を提供したこと(ただし旧来の利益団体のもつ既得権益に左右されるという問題あり)、第四にヨーロッパ統合を主導したこと。こうした展開を踏まえて、果たしてキリスト教民主主義政党の歴史的使命が終わったと考えるべきなのかどうか。

質疑
q.キリスト教民主主義政党は宗教政党と認識できるかどうか。
a.Clarical party=宗教教義にのっとる教会のpolitical wingという意味での宗教政党ではないと言えるが、それなりにキリスト教に立脚する独自の理念を持ち、世俗政党ではないと言える。

c.宗教政党に関して、宗教イデオロギーを教会が独占している場合には、宗教思想が宗教の枠内でしか語れないが、市民革命後の世俗としての「宗教政党」はそれとは性質を異とする。教会のpolitical wingということは現代においては教会が直接指示するという前近代的状況とは同じではないのではないか。
c. キリスト教民主主義政党が日本であまり研究対象となっていないと思うが、これは日本で近代政治モデルとしてセキュラリズム信奉があるからではないのか。

q. 西欧社会において、キリスト教民主主義政党に対して「政教分離ではない」との批判はないのか。
a.ヨーロッパでは市民革命を経て王権の解体、教権主義への反対を経験しており、ともに一旦解体されたという前提があったからこそ、キリスト教民主主義政党が生まれてきたと見るべきである。


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第五報告
「『イスラーム政治』『イスラーム政党』は可能か
――比較政治学とイスラーム世界論の地平から――」
小杉泰 (京都大学)

  本報告がまず問題とするのは、中東地域を政治分析の対象とする上で「政治学」のベースがないという点と比較政治研究の分野において中東地域が研究対象からすっぽりと抜け落ちているということ――いわばディシプリンと地域研究をいかに有効に連関させるかということにある。その問題意識に立って、「宗教と政治」を論じる――すなわち「宗教と政治」の関係性を最も鮮烈に示すものとしてのイスラームを研究対象として比較政治の俎上に乗せる試みが、本報告である。

  まずここで論ずるイスラーム政党とは、イスラーム復興を前提とする。すなわちもともと存在したイスラーム社会が一旦西欧化の波に洗われてイスラームを外在化する過程をたどり、さらにその上で「再」イスラーム化した、という流れを踏まえたものである。さらに言えばグローバル化を含めて、イスラーム政党の要素として「再イスラーム化/現代化=近代的政党制度/グローバル化=民主化」の三つをあげておくことができる。また再イスラーム化は、世俗主義化や世俗国家の採用などといった「脱イスラーム化」と近似値としても理解でき、世俗政治へのアンチテーゼとしてのイスラーム政治という対立軸を設定することができる。

  分析作業を進める上で諸用語を定義すれば、以下のようになる。「**政治」をruleに基づいて定義すれば「**的なルールに立脚した政治」となるがこれをsubstanceに基づけば「**に立脚しその実現を目指すアクターたちが行なう政治」ということとなる。イスラーム政治の場合は**にイスラームが入るわけだが、この場合のイスラームは上に指摘したように再イスラーム化した「復興イスラーム」と理解しなければならない。一方政党を定義すれば、現代政治学小辞典に典拠して「メンバー間の何らかの程度の政治的志向の一致に基づいて結成され」とあるところを細分化の基準とし、宗教政党について「メンバー間の何らかの程度の宗教に立脚する政治的志向の一致」と定義できよう。つまりイスラーム政党は「イスラームの理念に立脚しその実現を目指す政党」(定義1)と規定できる。ただしこれは、さらに@イスラーム的な政治認識に相当程度規定された政治、またはAイスラーム的な政治文化を前提としてイスラーム的な座標軸上に展開する争点を巡って展開される政治、と修正することも可能であろう。また政治文化論からアプローチすれば「イスラーム的政治文化を有する社会において、その文化に特徴づけられた政治(定義2)」をイスラーム政治と呼ぶこともできよう。こうした定義づけは地域ごとの分析において個々に実態と照らし合わせて検討を進めていく必要がある。

  さて「宗教と政治」の関連において「政教一元」か「政教二元」かといった議論については、西洋型の「政教二元=水平分化(国家と教会が別々の実態)」とイスラームの「政教一元=垂直分化」と大きく分類できるが、そこに法−政関係の次元を加えてイスラームの政教一元のもとでの「法政一致=イスラーム国家」、「法政分離=世俗主義」という分類を設定できる。ここで問題になるのは、上のイスラーム政党に関して、「イスラームの理念に立脚してその実現」という点を「法政一致」を目指すものとして理解してよいかどうか、ということである。定義2による「イスラーム的政治文化」という観点からすれば、法政分離型の世俗主義もこれに含めることも可能であろうが、実態概念とずれることとなるのではなかろうか。

  ところで、本報告はイスラーム政党という分析概念が重要であるとの認識のもとでの立論であるが、「政党」たることを問題にする理由として以下の点に注意しておきたい。第一は、権力追求を悪とするイスラーム側の伝統的統治概念であり、否定的意味を持つ「党派」的表現を回避する諸現象が見られること。第二は政党外政治諸組織(イスラーム協会、イスラーム運動、イスラーム団体など主としてイスラーム政党に先立ち存在した組織)との対比をどう扱うかという点である。第三は民主主義との関係である。

  イスラームの民主主義に対する立場としては大きく4つの立場に分類できる。
すなわち
@西洋起源としてこれを否定、
Aシューラーなどの存在を以ってイスラームが民主的であるとする、
BAの立場でありかつ西欧システムを道具として利用可、
C西洋民主主義を適用、の4類型である。

  さらに枠組みを広げて中東における対民主主義スタンスという形で分類すれば、
@形式的選挙を公権力に利用、
Aリベラリスト的立場、
Bアラブ社会主義者、
Cイスラーム主義者、
Dイスラーム民主主義者となるが、
ここでDという類型を設けたのは、ABが民主化を戦略的にしか要求しないのに対しての対置概念としてである。その意味で民主化の進展の過程においてはAのリベラル・デモクラシーとDのイスラーム民主主義が二大潮流となるのではないか。

質疑
q.イスラーム的政治文化に浸っている社会での特徴的政治をイスラーム政治と呼ぶ、といった指摘はトートロジーではないか。「イスラーム的」とは何かをまず定義しないことには議論にならないのではないか。
a.それこそが各地域においていかなる状態・事象が「イスラーム的」とされているのか、実証で積み上げていくしかないのではないか。例えば「アメリカ的」といった表現があるがその場合の「アメリカ」を定義しても意味がないわけで、「アメリカ的」といった表現で何が問題にされているかを議論するための分析概念を置かなければ、捉え切れないものがある。

c. 最後のイスラーム主義者とイスラーム民主主義者の区別が不明確
c. 世俗主義についてコメント。世俗主義は西欧において共和主義が成立した際に平民、その後プロレタリアートといった形で参加が増大したことの産物である。また宗教と倫理の関係について、近代政治は倫理から政治が独立したことによって成立したと言える。すなわち悪徳と善の対立という単一の世界観しか認めない倫理が政治に入り込む(すなわち世界観政党)と政治そのものが成り立たない。