新プロ「イスラーム地域研究」第1班a

「シーア派イスラーム法学とモダニティ」
発表者:Dr.Robert M.GLEAVE(英国ブリストル大学)

日時:2000年1月17日

会場:京都大学大学院
アジア・アフリカ地域研究研究科
連関地域論講座 講義室


報告:中村明日香
(京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科)


 本研究会は、イスラーム地域研究懇話会との合同で行われた。報告者のグリーヴ博士は、イランにおけるイスラーム法学と政治を専門に研究している。発表の要旨は以下の通り。

 1978年のイスラーム革命後、その指導者であったルーホッラー・ホメイニーの『法学者の統治』は、国家の政治の基本方針となった。これは、一イスラーム法学者の法学的見解が、国家的なレベルにまで発展したという意味で、非常に特異な現象であった。このような国家権力と精神世界の権力の関係はジハードの法的プロセスに顕著にあらわれるが、その根はカージャール朝期に遡ることができる。

 シーア派においては、ジハードの宣言はイマームのみに許されているとされてきた。この解釈によって、シーア派では18世紀までジハードと認定された戦争が存在しなかった。この国家とジハードを巡る問題に関して、重要な転機をもたらした法学者がシェイフ・ジャアッファル・ナジャフィー(d.1913)である。シェイフ・ジャアッファルは、イマーム不在の場合はムジュタヒドがジハードを認定し、宣言することができるとした。この場合のジハードは防衛戦のみに限定されるが、当時のカージャール朝のファトフ・アリー・シャー(1797〜1834)は、北部イランを占領していたロシアと対戦しようとしていたのである。

 これはシーア派ウラマーによってジハードが認定された最初の事象であると共に、これを可能とするのが1人のムジュタヒドである、いう点で注目に値する。シェイフ・ジャアッファルは、漠然と「ムジュタヒド」がジハードを定めることが出来るとしたのではなく、「最高の」ムジュタヒドとされる者でなければならないとしている。ここにこそ、イスラーム革命との密接な関連性を認めることができる。『法学者の統治』でも、最高のムジュタヒドに従うことが述べられていた。

 シェイフ・ジャアッファルは、ロシアとの戦争に際して、イマームの代理として行動する正統性を特別に国家へ付与したが、それは自らのような「最高」のムジュタヒドの見解を通して、イマームの許可として与えられると考えた。

 ホメイニーは、このような法学的見解を継いでシャーの国家に妥協することがなかった。また『法学者の統治』の中で、彼は聖職者が率いる国家を主張したのみではなく、一人の法学者が国家を率いて、他の聖職者を排除する権限があるとも言っている。このようなイスラーム共和国憲法のイデオロギー的源は、シェイフ・ジャッファルの見解にあると考えられる。

 以上のようなグリーヴ博士の見解に対して、イスラーム研究者やイラン人知識人から、法学と国家の問題、あるいはマルジャやムジュタヒドの意味に関する質問等が発され、終わることのない議論が交わされた。