海外調査報告

高橋和夫
(1-Bグループ)




『 夜明け前のバクー』高橋和夫

1997年9月18日木曜日

満月の耿耿(こうこう)と輝く夜にトルコ航空の608便がアゼルバイジャン共和国の首都バクーに到着しました。時間は4時半、夜明け前です。トルコのイスタンブールを出発したのが深夜の11時45分ですから単純に計算すると5時間弱のフライトでした。しかし、トルコとアゼルバイジャンの間には2時間の時差がありますから、それを引けば実際には3時間ほどの飛行時間でした。そんなに距離のない両国の間に2時間もの時差があるのに驚きました。地図を見るとアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバーンとトルコは僅かながら領土を接しています。またアゼルバイジャンの本体とトルコの間には小さなアルメニアが挟(はさ)まっているだけです。ざっと目勘定で百キロ余り離れているだけです。東京から富士山くらいの距離に相当します。なのに2時間も時差があるのです。アゼルバイジャン人がモスクワと同じ時間帯で生活することを余儀なくされていたソ連時代の遺産でしょうか。支配者というものは何時の時代も時間をまず支配したがるものですから。とにもかくにも、ほんの3時間飛んだだけでバクーに着いたのです。

記憶を辿(たど)ると3時間前のイスタンブール空港の待合い室に戻れます。搭乗のアナウンスがあると、どっと乗客がゲートに殺到しました。列を作って整然と待つという文化はアゼルバイジャンに向かう人々の間にはないようです。ボーイング737機に乗り込むと大体3分の2程度席が埋まっています。週4便トルコ航空がイスタンブールとバクーの間を飛んでいます。1便を除いて他の3便はいずれも夜明け前の飛んでもない時間に到着するようになっています。アゼルバイジャン航空も何便か同区間を飛ばしていますから、両都市間にはかなりの人の流れがあることになります。イスタンブール空港から、バクーを始めかつてはソ連を構成していたイスラム教徒の共和国の首都へのフライトが出ています。歴史の流れを実感させられる事実です。本当にソ連が崩壊したのだと。イスタンブールにはソ連の崩壊以来、コーカサスや中央アジアからの買い出し客が押し寄せるようになりました。日本人の目には魅力に今一つ掛ける気のするトルコの商品ですが、それを大量に買い込んで母国で売りさばく商売が盛んになってきました。日本語の表現ですと「担ぎ屋」とか「運び屋」といった言葉が当たるのでしょうか。トルコ語では「外国人」を「ヤバンジー」と呼びます。日本人の耳には「野蛮人」のように響きます。そうした「買い出しの野蛮人」と一緒にチェック・インするとなると大変だなと思ったことがあったのですが。今や私がその羽目になったわけです。

イスタンブール空港で搭乗ゲートを抜けるとバスに乗ったのか、そのまま歩いたのかは、眠気ゆえに記憶が定かではありません。しかし実際に飛行機のタラップの付近で歩いていたのは確かです。そこには先程にチェック・インした荷物が並べてありました。自分の荷物を各自が指し示すと、それを飛行機に積み込んでいます。爆発物の入った荷物をチェック・インされて、空中で爆破さすれるのを防ぐ単純ですが効果的な対策です。かつてバクダッドに向かうイラク航空で同じことをしていたのを思い出しました。もっとも、この方法が有効な前提は犯人に死ぬつもりがないことです。犯人が自らも死ぬことを覚悟して爆発物と一緒に飛行機に乗り込んで来れば、こうした方法も役に立ちません。

さてアゼルバイジャン空港でタラップから降りるとバスが待っていました。バスに乗り移って待っていましたが、バスは動きません。代わりに皆が空港ビルの方に歩き始めました。人の流れに従って薄暗いビルに入りました。パスポート・コントロールです。ボックスが4つありましたが、実際に担当者が座っているのは2つだけです。各ボックスの前には大きな帽子そして迷彩服に身を固めた軍人らしきが立っています。ソ連赤軍がまだ生きているかのようです。恐らく制服はその儘(まま)なのでしょうか。怪しげな風情のロシア人らしきが、しきりにパスポート・コントロールを勝手に行き来しています。近頃のロシア人は、皆マフィアに見えてしまいます。約10分でパスポート・コントロールを抜けることができました。

やれやれです。これで一応はアゼルバイジャンに入国できそうです。アゼルバイジャンへの入国の方法に関しては諸説が東京で流布していました。一つは、査証(ビザ)なしでもとにかく行けば入れてくれるという説でした。その場合には3通りの場面があるとの情報とも噂ともデマとも判然としない話しを耳にしました。まず第一説は空港で入国時に何の問題もなくビザが取れる。第二説はビザは取れるのだが、若干の賄賂を要求される。第三説は、パスポートを取り上げられて仮の入国が許され、指定のホテルに泊められて、その後に外務省にビザを押したパスポートを取りに行く。実は3年前にイスタンブール空港でバクー行きのゲートの前でばったり東京外国語大学のトルコ語の教員に出くわした事がありました。そこで問い合わせたところ、彼は仮入国組みでした。

上記のようなビザ無しの渡航は、いずれも気持の良いものではないと思いました。それで事前にビザを取得する方法を調べてみました。どうも周辺国で取得できるようです。たとえばトルコのイスタンブールにあるアゼルバイジャンの領事館では5日待てばビザが出るようです。実際に今回の旅行ではバクーで上智大学の大学院生に会いましたが、彼はイスタンブールで5日待ってビザを取って入ってきたそうでした。しかし5日もイスタンブールでビザ待ちをする時間的余裕がこちらにはありませんでした。日本にアゼルバイジャンの大使館が開設されるようになるまでは、こうした不便が続きそうです。

こうなれば、もう苦しい時の商社頼みしかありません。伊藤忠商事の知り合いに電話して尋ねると、現地から招待状 (invitation letter)を取り寄せ、それで入国できることが分りました。結局この手しかないと決めました。そこでバクーの伊藤忠石油開発の支店から招待状をファックスしてもらい、そのコピーをもって来たのでした。ファックスのコピーで大丈夫だろうかとの一抹の不安がありましたが、無事にパスポート・コントロールを「突破」することができました。同石油開発の支店からはアゼルバイジャン外務省向けに招待状を出したとの通知が出され、それと照合してパスポート・コントロールの担当者が入国を許可するという仕組みのようです。これもビザ無し入国の変種でしょうか。しかし入国したといっても、まだ不安が残ります。それは、その際にパスポートを取り上げられてしまうからです。確か48時間後でしたでしょうか、ビザが押されたパスポートを外務省に取りに行くと言う作業がまだ残っています。もしパスポートが戻ってこなければ以降の旅行に差し障りがあります。たとえ悪意は無くとも、あの薄暗い空港の床にでも係官が落としてたりなどすれば永遠にパスポートと巡り合えないのではないかと心配です。しかも外務省に取りに来いと言われても言葉も事情も分らない身ではどうしようもありません。ここで告白をすれば、実は同石油開発の現地社員の一人が外務省まで出向いてパスポートを回収してくれるとのことでした。ですから、ここで書いているほど不安で胸が引き裂かれていたわけではありません。苦しい時の商社頼みのパート・ツーでした。しかし、夜明けのあの薄暗いバクー空港に生まれて初めて一人でたたずめば明るい気持ちになんかなれっこありません。

パスポート・コントロールを抜けると、やはり同社に手配を依頼していた運転手が私の名前のプラカードを持って待っていました。名前はティムール、かつての中央アジアの征服者と同じ名前です。余り英語が流暢な雰囲気はありませんが、誠意だけは伝わる風貌の持ち主です。やれやれ、この「征服者」の車でホテルまでは行き着けそうです。しかし荷物がなかなか出てきません。スーツ・ケースの出てくる小さなベルト・コンベアーが二つありますが、どちらも止まったままです。荷物を受け取る部屋は、日本の地方空港ほどのスペースもありません。宅急便の配送所の荷物の引き受け口程度でしょうか。暇に任せて狭い部屋の広告を見回しました。バクーには、もっと言えばアゼルバイジャン全体でも国際水準のホテルは2軒だけだそうですが、その2軒が広告を出しています。ハイヤット・リージェンシーとヨーロッパ・ホテルです。どちらのホテルにもカジノが付いているようです。バクーの石油ブームに引かれて押し寄せる石油関係者でどちらも満室状態が続いており、ハイアットの方は開業から1年半で建設費を回収したとの話さえ耳にしました。コカ・コーラやハミガキのコルゲートなどのようにアメリカ資本が日常の消費物資の面では早速入り込んでいるようです。また韓国の大宇自動車の広告もありました。韓国資本の中央アジアとコーカサスへの進出は素早いものがあるようです。かつてはソ連の国民であった朝鮮族がスターリンによって極東から中央アジアへ強制的に移住させられました。そのため、この地域に韓国企業は親近感を覚えるのでしょうか。人的な繋がりがこの地域への進出に寄与していることは間違い無いでしょう。韓国企業の果敢な進出振りに目を見張ります。サッカーのワールド・カップの予選の訪れた日本チームをスタジアムで迎えたのは韓国企業の広告であったとの報道もうなずけます。スポーツ新聞を見ても国際政治が学べる瞬間もあるものです。

広告を何回見てもまだ荷物は出てきません。この時間を利用して、そもそもなぜバクー訪問を思い立ったかを説明いたしましょう。そもそもコーカサスや中央アジアへの憧れは私のようにイランを勉強した人間には自然に芽生えるものだと思います。と言うのはイランと中央アジアやコーカサス地方は、長い期間に渡って共通の文化を享受してきたからです。たとえば中央アジアのサマルカンドやボハラのような諸都市が、ペルシア文学でしきりに言及されています。日本文学が奈良や京都について語るようにです。現在のアゼルバイジャン共和国の地も19世紀まではペルシア帝国の一部でした。1980年代末から、この地方を訪問したいと思う気持ちを常に持っていました。しかしながら、1980年から1988年のイラン・イラク戦争、1989年のアヤトラ・ホメイニの逝去、1990年の湾岸危機、1991年の湾岸戦争などなど余りにも忙しく、中央アジアやコーカサスまで足を伸ばす機会は訪れませんでした。そんなもどかしさを覚えているうちにソ連が崩壊してしまいました。中央アジアやコーカサスがイスラム世界に戻ってくる。そんな感動を覚えました。

そして思い立って今年の4月よりトルコ語の勉強を遅まきながら始めました。トルコを通してコーカサスへ、そして中央アジアへ入って行こう。そんな気持ちの反映でした。カスピや中央アジアのエネルギー資源を巡る国際政治を、これまで勉強してきたイランの視点から、そしてトルコの視角から理解したい。そんな感情が湧き起こってきました。そんな意識がバクーまで私を連れてきました。

広告を何回も何回も見た後にやっと荷物が出てきました。時計を見ると5時です。飛行機が着陸して30分後にパスポート・コントロールを抜け、自らのスーツケースと再会することができました。先進国並の通関とは参りませんが、なかなかの水準です。その後10月にイランを訪問する機会がありました。飛行機が多数到着する時間に私の便も到着したという不運もあり、またこうした状況で旨く立ち回れないと言う私の不手際もあり、パスポート・コントロールを通過するのにやはり夜中のテヘラン空港でたっぷり1時間は並んでしまいました。それに比べるとアゼルバイジャンでは半分の時間で済んだわけです。テヘランの空港より通関が楽だというのは余り自慢にはならないかも知れません。しかしバクー空港が世界最悪でないことも事実です。入国時には荷物の検査はありませんでした。これもイランよりは格段上です。そのまま薄暗い空港ビルを脱出して、もっと薄暗いバクーの外気の中に入りました。アゼルバイジャンに入国したのです。夜明け前のバクーでした。

(高橋和夫・放送大学)1997年10月17日(金)記

“Baku before the Dawn”






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