海外調査報告

石田 憲
(1-Bグループ)




石田 憲「イギリス派遣報告」
1997年7月〜8月

 

1997年7月より8月にかけて、研究プロジェクトの支援を受けて約1ヶ月間、ロンドンのキューにあるイギリス公文書館とボンの外務省文書館へ、史料調査に行って参りました。今回は、主として1935年から1936年のエチオピア戦争に関する文書を閲覧し、英独両国の視点から見たエチオピア戦争の諸相を確認してきました。エチオピアは、当時の国際環境の中では、数少ないアフリカ大陸における独立国家であり、しかも周囲をイスラム世界に囲まれながら、3000年のキリスト教帝国を標榜していました。

エチオピアは、1930年代における「黒人独立」のシンボルであり、また数少ない世界に残された「帝国」でありました。エチオピア戦争においては、旧ロシア帝国、旧オーストリア=ハンガリー帝国、旧オスマン帝国といった各地の旧帝国軍人が、かつての自分たちの帝国に対する郷愁の念も含め、エチオピア帝国に義勇兵として参加しています。とりわけ旧ロシア帝国は、正教会を共有しているということもあり、白衛軍の将軍が、軍事アドヴァイザーとしてエチオピア軍に参加していました。

このため、イスラム教徒よりキリスト教徒の方が、即ち近隣地域より遠隔地から義勇兵の申し込みがもたらされていました。またバチカンも、ファシスト・イタリアがエチオピアを侵略することについては、「文明化」の使命を認める以上に積極的な支持を与えることはできなかったのです。これは1936年に勃発したスペイン内戦に対する態度とは好対照をなしています。バチカンは、この内戦介入については「反共十字軍」として、共和国を激しく攻撃したからです。他方、ファシスト・イタリアは、大半がイスラム教徒であるリビアやエリトリアの「黒人兵団」を組織していました。このことについては、先発帝国主義国の英仏両国でさえ、植民地解放の契機になることを恐れ、警戒の姿勢を強めていました。皮肉なことにバチカンは、ファシスト・イタリアの「アスカリ」やナショナリスト・スペインの「ムーア人」のようなイスラム教徒が主力である部隊を有する陣営に、好意的姿勢をとり続けたことになります。

その後イタリアの同盟国となる独日両国は、イタリアのアフリカへの軍事的冒険に親密な態度をとることはありませんでした。ドイツは、エチオピア戦争が長引いて、自らの企図するヨーロッパへの膨張に利用することを主たる関心事としており、イタリアが早期に勝利することへ消極的な姿勢さえとっていました。また、日本も反西欧ナショナリズムの影響から、非白人の帝国であるエチオピアに対する同情が多かったのです。とりわけ、ハイレセラシエ皇帝の一族と黒田男爵の娘の婚姻が進められていた時期であっただけに、反伊感情は右翼の側からも起こっていました。逆に、イギリスやドイツの文書の中には、日本のエチオピアに対する影響力が強化されているのではないかという疑念を示す報告が見出されます。

今回の調査によって、エチオピア戦争に関する様々な視点が確認され、伊エ二国間関係にとどまらない幅広い国際政治史の文脈が明らかになってきました。今後は、収集した史料を元に、多角的な分析に基づく論考を準備していく予定です。




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