イスラーム地域研究1班合同研究会
「アフガン空爆を読み解く」


場所:東京大学(本郷)法文二号館二階 2番大教室
日時:12月12日(水曜日)

プログラム:
16:00-16:10:問題提起 酒井啓子(アジア経済研究所)

16:10-16:40:田中浩一郎
(国際開発センター、前国連アフガニスタン特別派遣団政務官)
「最近のアフガニスタン情勢」

16:40-17:10:飯塚正人(東京外国語大学AA研)
「今日のイスラーム運動におけるターリバーンとビン・ラーディンの位置」
 
17:10-17:40:松永泰行(日本大学)
「米国外交政策とイスラーム運動:対米「ジハード」出現の背景」

17:40-17:50:休憩
17:50-18:20:木村正俊(法政大学)
    「正義と報復の谷間で:米国の正戦概念とアフガン空爆」

18:20-18:50:藤原帰一(東京大学)
「国際政治におけるアフガン空爆が持つ意味」

18:50-19:50:討論



問題提起
(酒井啓子・アジア経済研究所)


  今回のセミナーを開催しようと考えた理由は、9-11事件とそれに続くアフガニスタンに対する空爆が「世界を変えた」と言われているが、実際にこの一連の事件が国際政治においていかなる意味をもっているのかを探りたいと考えたからである。地域研究者によるアフガニスタン国内の状況、あるいはイスラーム世界における政治動向は分析されているが、それが国際政治のシステムのなかでどのように位置づけられるか。国際政治を専門とする者たちとイスラーム、あるいは中東地域研究者たちの議論をかみ合わせなければ全体的な図式は見えてこない。そこで問題にしたいのは、何故イスラーム運動が国際化するのか、という点であり、何故攻撃対象として米国がターゲットになったのか、という点である。アフガニスタンでビン・ラーディンらが目指したものはただのはぐれ者の集団化だったのか、それとも米国主導のグローバリズムに対抗する別のイスラームのグローバリズムなのか。米国に対する攻撃はそのパレスチナ問題への対処に代表される中東政策という限定的なものをターゲットにしているのか、それとも抽象的価値概念としての米国的なるものに対する挑戦と考えるべきなのか。またそうだとすれば、そうした対立のあり方は何に起源をもつのか。以上の点に注目して、今回の企画を立てた。



第1報告  ターリバーンとテロリストたち
(田中浩一郎・国際開発センター、前国連アフガニスタン特別派遣団政務官)


  歴史的に「文明の十字路」と呼ばれてきたアフガニスタンが「地域的不安定要因の十字路」となるに至って久しい。そこにはテロ、麻薬、飢餓、難民、人権問題など、国際社会が懸念するあらゆる要素が交錯している。

  自分がアフガニスタンと密接に関わりあうようになったのは1998年以降であるが、同年8月にケニア、タンザニアでの米大使館爆破事件とそれに対するアメリカの対アフガニスタン報復空爆は、アフガニスタン国内の外国人義勇兵とターリバーンの力関係を左右していった。この年の対アフガン空爆に対して、これら外国人義勇兵は国連職員に対して、さらに報復襲撃を行っている。このことは、ターリバーンが国内で治安維持能力を誇っていた――国連職員に対する安全の確保も含む――だけに、国連職員としてはショックな出来事であった。これら義勇兵は形式的には難民という形を取っているが、1999年夏ごろから主客転倒したような形で国内で専横的に振舞うようになり、とりわけ2000年夏にイスマーイール・ハーンが脱走した際、これを捜索したアラブ人義勇兵――具体的には宗教警察であったが――の横暴(事務所に押し入るなど)が顕著となった。

  さらには2001年にバーミヤンの石仏の破壊行為は、アラブ義勇兵の発想のもとに行われた。すなわち、この間にターリバーンとアルカーイダなどのアラブ義勇兵の力関係は、当初後者が「客人」としての位置付けであったのが、徐々に支配的な地位を確立する形に変化したといえる。それゆえ、欧米のNGOを自然に出て行くように仕向ける政策をとったり、アラブ系イスラーム慈善団体の活動が活発化したり、突然パレスチナ問題への言及を開始する、といった変化が現れた。

  こうした過程を分析すれば、ターリバーン政権が幕を閉じた原因が外国人義勇兵への依存体質にあったと考えられよう。なぜ外国人義勇兵に依存せざるをえなかったかと言えば、ターリバーンが北部同盟との内戦を重視してアフガニスタンの武力平定を諦めなかったからであり、その結果ターリバーンに「世直し運動」としての役割を期待して参加協力してきた部分が運動から抜け落ちていった。そのことからビン・ラーディンへの接近を強め、結果として乗っ取られることとなったのである。



第2報告  今日のイスラーム運動におけるターリバーンとビン・ラーディンの位置
(飯塚正人・東京外国語大学AA研)


  近代のムスリムが西欧近代と接するにあたり、近代化の道が模索されたが、それは世俗主義、イスラーム自体のもつ理性重視・科学推進の姿勢を取り戻すというイスラーム近代主義、シャリーアを軽視してきたイスラーム実践上の反省(ファンダメンタリズム)という三つの方向を取って現れた。

  そのなかで唯一三つ目のファンダメンタリズム的発想だけは近代以前から存在していたものであり、古くはムガル帝国におけるアフマド・スィルヒンディーにさかのぼることができる。インドでこうした運動が発生したのは、ある意味で西欧の侵略を最も早く受けた地域だからだと考えられるが、18世紀以降はイスラーム圏各地にこうした傾向が広がっていった。

  テレビや映画を否定するターリバーンの政策は、その意味ではこうした西欧近代技術を否定するファンダメンタリズムの系譜に位置している。しかし西欧列強の圧倒的な優位によって基本的にはこの流れは失敗していった。18世紀に発生したワッハーブ運動ですら、当初聖者崇拝や偶像崇拝に対して徹底的な否定を行ってきたにも関わらず、1950年代にはテレビを容認している。このような形で、社会全体ではむしろ「社会のイスラーム化」を目指す方向が主流となり、1928年にエジプトで成立したムスリム同胞団もその方向を取った。

  このように見てくると、ターリバーンとビン・ラーディンとの間に大きな質的相違が存在することがわかる。すなわちターリバーンは前者の反偶像崇拝姿勢を貫くワッハーブ的デーオバンド派への先祖帰りとも見える一派であり、これに対してビン・ラーディンは政治的道具として映像=偶像を全面的に利用している。また活動視野もターリバーンがアブカニスタンに限定しているのに対して、ビン・ラーディンはパレスチナまで含む範囲認識を持つ。

  ビン・ラーディンの「防衛ジハード」への特化は、70年代以降外国勢力の侵略に対してイスラーム主義者のみならず一般にジハードという用語が頻繁に使用されるようになった、という中東地域の政治的環境を抜きには語れない。すなわち、イスラーム主義者でなくとも問題にする「外国の侵略」が存在すること――そしてみずからの共同体が「虐殺されている」と確信していること自体が、問題の根幹にある。



第3報告  米国外交政策とイスラーム運動:対米「ジハード」出現の背景
(松永泰行・日本大学)


  今回のテロ事件を政治学的にいかに議論するか、ということに焦点を当てて論ずる。特にグローバル・ガバナンスと政治機会(運動論で論ずるところのpolitical opportunity structure)という概念を導入することによって理解できる。

  まずここで立てられる問いは、「9-11事件はいかにして可能となったか」ということである。その問いに答えるためには、米から見た視座、あるいはアラブから見た視座だけではなく、国際システムを鳥瞰する必要がある。つまりグローバル・ガバナンスをちゃんと行っていれば、未然に事件が防げたという機会をいくつか発見できるのである。そして@global, Aregional, Bgroundのレベルでのダイナミズムを見、これらがいかに交錯していったかということから、回答を模索していく。

  まず国際システムが変化した決定的な年はいつか、と考えれば、それは1989年である。湾岸戦争の発生した1990/1ではないのか、という疑問があるかと思うが、湾岸戦争はむしろ89年の変化の帰結であって原因ではない。1989年の変化とは、まずBのレベルから見れば東西冷戦構造の終焉への大きな動きがあった。アフガンからのソ連の撤退である。Aレベルではイ・イ戦争が終わり、ホメイニーが死に、湾岸戦争に至る前のさまざまな地域再編志向が渦巻いた年であった。Bレベルではアフガンからのソ連撤退でアフガニスタンに結集していた外国人義勇兵が帰国していく、という再編要因があった。つまりアフガニスタンにおける国内勢力間の権力抗争が振り出しに戻ったのである。以上、三つのレベルそれぞれにおいて地域権力構造が再編に向かっていたのがこの年である。

  ところで、79-89年の第一次アフガン戦争をどう総括すべきか。これは東西冷戦の代理戦争という側面と同時にextra-regionalな主体が参加したものであった。またregionalなレベルでは防衛ジハードだったと言えよう。ground levelでは抗ソ運動ということで一致していたものの、各部族、勢力の間で抗争が続いていた。これら全てのレベルで、抗争を抑止する要因が皆無だったのである。こうした状況に、70-80年代のイスラーム運動の活発化という政治機会の増大が重なった。

  一方89年から現在までの期間に行われた戦闘は第二次アフガン戦争と位置づけられるが、@東西融和、A地域大国間の再編状況のもとで、アラブのムジャーヒディーンがアフガニスタンに帰ってくる。ここでの特徴は、本国で革命が成就できないと認識した各国のムジャーヒディーンが、アフガニスタンで「革命のジハード」を行うために結集した、いわば政治機会がアフガニスタンに開けたがゆえの行動であったといえる。そしてそれぞれの出身地の現地政府を倒すことができないとの認識が、96年に攻撃対象をアメリカにシフトさせることとなった。このように、今回のテロ事件を可能にした要因は、アフガニスタンにムジャーヒディーンが結集してイスラーム国家の建設という目的に向かって行動するための機会が存在していたということと、アフガニスタンを巡る国際情勢の中でこれに対してガバナンスが欠如していた、ということにある、と結論づけられる。



第四報告  正義と報復の谷間で:米国の正戦概念とアフガン空爆
(木村正俊・法政大学)


  今回の米国の「テロに対する戦争」には「不朽の自由」作戦と名づけられ、「自由と民主主義」を守る戦いと位置づけられた。「正義のために闘う」という言い方が頻繁になされるが、伝統的正戦概念は「正義のための戦い」という意味ではない。聖戦holy warが神のために戦うことであるのに対して、正戦just warは正しい戦争を正しいやり方で行うという、戦争を減らすための概念であった。

  聖戦は古代オリエント起源であるが、圧倒的な力を持った異教徒に対して戦う場合に殲滅される危険が発生し、その結果多くは聖戦概念を棚上げにして神がそのうちメシアを遣わす、というメシア志向に変わっていったという傾向がある。他方正戦論はローマ起源で、その後中世ヨーロッパにおいて暴力の行使をいかに制限していくか、という観点から、コンセンサスができてくる。それは「戦争のための法」という観点と「戦争における法」というふたつの観点からなりたつ。前者は正しい戦争と不正な戦争の区別を意味し、正しい理由としての正統性、つまり正当性の付与が法王によってなされるか世俗権力によってなされるか、といった点や、軍事力が最後の手段となっているか、必要以上の軍事力が行使されていないか、ということが問題となった。後者の法は、交戦時における正しい戦い方の規定で、戦時における非戦闘員の扱いなどが問題となった。例えば十字軍は、イスラームが財産を奪ったという点をもって、正戦とみなされた。

  ところが中世の国家体系から近代の主権国家体系に移行したことによって、主権国家の行う戦争はすべて正統性をもつ正しい戦争である、という考え方から、正戦論は不要となった。しかし正戦論が復活するのは、19世紀において科学技術の発達から戦争行為の残虐性、非戦闘員と戦闘員の不可分性といった事象が出現したことによる。つまりこの段階で出現した正戦は伝統的概念とは性格を異にしている。

  この新しい正戦は全体戦争/全面戦争という存在と密接な関係を持つが、ここでは戦争の正当な理由として集団の何らかの基本的価値、すなわち抽象的価値を守ることが掲げられ、戦争に対して集団のメンバーが全面的な支援を行い、集団の人的物的資源が最大限動員され、戦闘における慣習的、法的、道義的抑制が無視される、という特徴を持つ。
こうしたことを踏まえて米国の外交を見てみよう。米国の伝統的な外交政策としての孤立主義と対外コミットメントは、一見して相互矛盾するようであるが、国家建設理念を掲げる米国は国内をその理念に近づけるために孤立主義をとるが、結局国外にもその理念=自由と民主主義を拡大すれば国内の理念維持が可能になる、という点から国外へのコミットメントを行う、と考えれば、それは矛盾しない。いわば「一国自由・民主主義」はありえない、ということで国際的な働きかけをするのである。



第五報告  国際政治におけるアフガン空爆の意味
(藤原帰一・東京大学)


  まず9-11事件が発生した際に、日本の対応を見ていてたいへん衝撃的だったのは、日本ではこの事件で亡くなった方々に対する追悼の意の表出がほとんど見られなかったということである。他方顕著な反応は、対米協力派も反戦派もいずれもが「すぐに戦争になる」ということを前提として反応していたことが特徴的である。死者に対して、同じ人間が殺されたという実感は、認識されていない。

  この事件および戦争を見る上で、西欧が非西欧にどのように関わっていくか、ということが改めて焦点となった。国際政治のルールは基本的には西欧起源であるが、植民地支配期以降、西欧社会においては出先の戦争が本国の戦争を惹起する、というパターンが確立された。つまり宣教師や商人などの個人レベルの在外での行動が国家の行動に発展していく過程で、在外での行動に関連した権力闘争が国内での対立を招くようになっていく。この終局的パターンが冷戦構造の確立である。キューバという地域的に限定された場での対立は、それが核を保有する超大国間の対立を惹起する可能性をもつという理由によって、抑止されるわけであり、その意味では冷戦構造は地域紛争の抑制要因になっていた。

  対照的に湾岸戦争は、冷戦構造の崩壊期に発生したということで、いくらイラクを攻撃してもソ連が登場する可能性がなく、その戦闘に抑止要因がなかったといえる。このように冷戦期は核のよる抑止ということで武力によらない自由の拡大が可能であった。

  それが冷戦が終結したことで、米国による一方的抑止というパターンができる。米国は基本的には通常の戦争の実施については厳しい制約を課しているが、自由のための戦争、という点になると、制約がかなり緩むという性質を持っている。こうしたなかで、基本的にはいずれの地域社会においてもその多くが米軍の力による平和・秩序の維持に依存しているのであり、米国が国外に出て行かず内向きになってしまうことは、こうした地域社会が最も危惧することである。ただ、アフガニスタンで取られた手法と米国内で取られる手法は全く異なるという、冷戦後の政治権力が不平等であるという問題はある。

  冷戦後の10年間は、実際には米国が地域紛争から撤退していった期間であった。国連などによる人道的介入が前面に打ち出されたのはそうした米国の撤退を埋める試みであろう。問題は西欧世界と非西欧世界のかかわりにおいて、大国と各国の間に大きな隙間が空いているということである。EUなどが米軍と距離を置いているのは、米軍が必要ではあるが自らの社会においては少なくとも米軍に依存しなくともすむ構造を作ろうとしている、と考えられる。こうした地域的再編の試みは、東南アジアなどでも可能であろう。

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