第1班Bグループ研究会

2001年7月28日(土)北海道大学スラブ研究センター大会議室
7月29日(日)KKR札幌

主催:国立民族学博物館地域研究企画交流センター・
北海道大学スラブ研究センター連携研究「スラブ・ユーラシアにおける国家とエスニシティ」
共催:「イスラーム地域研究」1班bグループほか




報告要旨

文責:岡 奈津子(一部加筆:宇山 智彦)



第1報告
家田 修(北大)

「聖イシュトヴァーン王冠の復権−最近のハンガリーにおける国民意識−」
討論者:南塚 信吾(千葉大)

 本報告は、11世紀のハンガリー王朝に由来する聖イシュトヴァーン王冠を国家のシンボルとして復活させようとする動きをとりあげることによって、ハンガリーの国民意識を論じたものである。報告者は、ハンガリー現政権の中心を担う青年民主連合・ハンガリー市民党(青年市民党)が、当初リベラルな性格を打ち出していたにもかかわらずその後急速に民族主義に傾斜したとして、1999年から始まった「王冠論争」を題材に同党の「素顔」を分析した。その際、青年市民党の王冠像が単なる伝統的表象ではなく、西欧志向や「地方性」の強調と結びついていることが指摘された。
 討論者や他の参加者による討論では、青年市民党の民族・国家観が特殊であるのか否か、「ハンガリー国民」概念と「マジャール民族」概念の連関、ナショナリズムとリベラリズムの関係、旧社会主義圏に見られる西欧的価値体系への懐疑的傾向、などの点が議論された。



第2報告
佐藤 雪野(東北大)

「チェコのロマの現状−ウースチー・ナド・ラベムの「壁」問題をめぐって−」
討論者:月村 太郎(神戸大)

 本報告は、北ボヘミアにあるウースチー・ナド・ラベム市で起こった「壁」問題に焦点を当てることによって、チェコのロマをめぐる問題を考察したものである。1998年、家賃未納者(多くはロマ)の移住によって生活環境が悪化したことを不満とするチェコ系住民の要望に応え、市当局が双方を隔てる「壁」を建設する計画を立てていることがマスコミによって全国的に報道され、まもなく世界にも知られることになった。報告者は、生活環境をめぐる社会問題という側面が強かった「壁」問題が、報道を通じて現地の事情を知らない首都の政治家や人権活動家をまきこみ、「壁」という言葉の象徴性と相まってエスニックな問題に転化した点を指摘した。
 討論では、ロマ系住民の中に存在する経済的・文化的差異、チェコの中央・地方政府の少数民族政策等について質問が出されたほか、民主化が進めば人権侵害がなくなるのか、それとも市民社会の規律を強調することで排除の論理が強められるのかといった問題について議論がなされた。



第3報告
長島 大輔(東大博士課程)

「社会主義ユーゴスラヴィアの『ムスリム人』とイスラーム」
討論者:佐原 徹哉(都立大)

 本報告は、ユーゴスラヴィアのイスラーム宗教コミュニティー(IVZ)と共産党(1952年から共産主義者同盟SKJ)の関係に焦点を当てつつ、「ムスリム人」が民族として認められるに至った経緯の分析を通じ、イスラームと社会主義との関係について論じたものである。報告者はまず、19世紀後半以降のIVZの歴史と共産党政権下でのレイス・ウル・ウレマー(IVZの長)の活動を概観した。SKJは当初、ボスニア・ムスリムはやがてセルビア人ないしクロアチア人と自己規定するようになると考えていたが、分権化・非同盟政策の中で、宗教色を薄めたうえで民族として「ムスリム人」を承認した。IVZもこの方針に歩調を合わせ、社会主義の枠内でのイスラームの発展を強調したが、IVZの活動の拡大は、1970年代以降のよりラディカルな「イスラーム復興」とも無関係ではない。
 討論では、ソ連の「民族」定義とユーゴの「民族」定義の関係や、イスラーム復興がユーゴではナショナルなものとして現れたという論点が提起された。また「公式イスラーム」とイスラーム復興の関係について、他のムスリム地域との比較の視点からも議論が展開された。


第4報告
廣瀬 陽子(学振特別研究員)

「ナゴルノ・カラバフ紛争の政治的考察−ホジャル事件に見る政治性−」
討論者:北川 誠一(東北大)

 本報告は、ナゴルノ・カラバフにあるホジャル村で起きた住民虐殺事件の分析を通じて、紛争の政治的考察を試みた。ナゴルノ・カラバフは法的にはアゼルバイジャンに属する自治州だが、多数派のアルメニア系住民がソ連末期にアルメニアへの帰属替えを要求したことから武力紛争が起こり、ソ連崩壊後は両国間の戦争に発展した。ホジャルでは1992年、アルメニア兵による攻撃の際にアゼリ人1000人近くが虐殺されたとされるが、虐殺を行ったのが誰なのかについて、アルメニア側とアゼルバイジャン側の間だけでなく、アゼルバイジャン人の中でも全く異なった見解が存在する。報告者は、ムタリボフ大統領(当時)がこの事件を権力闘争に利用した可能性を示唆するとともに、事件の背後にあるモスクワの役割についても考察した。そして、プロパガンダばかりが目立ち事実の確定が難しく、その難しさが和平のネックになっていると結論した。
 討論では、事件がアゼルバイジャンの人々にとって持つ象徴的意味について質問が出されたほか、ムタリボフ陰謀説に走るのではなく、アゼルバイジャン人民戦線とムタリボフの力関係や、ロシアの対カフカス政策を分析する中で事件の政治性を考察するべきではないか、というコメントもなされた。



第5報告
李 愛俐娥(学振特別研究員)

「カザフスタンにおける少数民族の状況−ドイツ人と朝鮮人を中心に−」
討論者:岡 奈津子(アジア経済研究所)

 本報告は、カザフスタンにおける少数民族のうち、ともにソ連時代に強制移住させられた朝鮮人とドイツ人をとりあげ、その現状を明らかにすることを試みたものである。報告者は、おもに最近実施したフィールドワークの成果に基づき、ドイツ政府による在カザフスタン・ドイツ人に対する政策(移民受け入れおよび経済援助)の詳細、カザフスタン独立後に朝鮮人が置かれた経済・社会状況とその変化について分析し、カザフスタン政府が少数民族に配慮する必要性を指摘した。
 討論では、インタビューやアンケート調査を実施する場合の注意点、先行研究との関係、カザフスタン政府の民族政策を調べる必要性、カザフ人など他の民族が置かれた状況との比較、「民族差別」を論じる場合の問題点などが指摘された。またドイツ人の移住や、朝鮮人が行っている「コボンジル」(請負出稼ぎ農業)などについて質問が出された。



第6報告
高倉 浩樹(東北大)

「サハ民族主義の系譜と文化復興運動」
討論者:佐々木 史郎(国立民族学博物館)

 本報告は、サハ(ヤクート)人の民族主義について、19世紀末以来の歴史的経緯をふまえつつ現代にいたる動きを追ったものである。ロシア連邦内の自治共和国であったサハでは、ペレストロイカ期にはじまった政治・文化運動(自治共和国から連邦離脱権を含む共和国への格上げ要求、サハ語の共和国語化やサハ語・民族文化教育の推進など)が、ソ連邦崩壊後、統治機構の「サハ化」(行政・立法機関におけるサハ人の割合の増大、国章・国旗の採択)へと発展した。報告者はなかでも、シャマニズムやテングリ信仰への関心の高まりと「民族宗教」創設の動きに注目し、「創られる伝統」の一例を示した。ソ連時代の可視的な文化の強調から、不可視な信仰に目が向けられたのは大きな変化だが、宗教的世界観さえ図式的・劇場的に表象する傾向がある。国章はテュルク的要素を強調しているものの、サハは古代テュルクにしか関心がなく、ムスリムのテュルク諸民族とは隔たりがある。
 討論では、サハの「面従腹背」的な政治感覚、周辺のより小さな民族との関係、現在の文化復興と社会主義時代の公定「民族文化」との連続性、他の民族や地域との比較の必要性などが議論された。



総括討論 司会:林 忠行(北大)

 総括討論では、ナショナリズムが生む暴力や排除の論理を統制するメカニズムについての地域間比較、「人の移動」や「ディアスポラ」をキーワードにした研究の可能性、「民族解放」の史学からの脱却の必要性、「民族」を創造・操作する存在としての「国家」により注目する必要性、「エスニシティ」という用語の問題、イスラーム復興とマルクス主義・ソ連体制の関連、などをめぐって、活発かつ率直な議論が展開された。中東を専門とする新プロ関係者からのコメントも、比較研究の視点を考えるうえで有益だった。




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