期間:2001年7月14―28日
 調査地:ウズベキスタン共和国 

 今回の調査は、研究班1の中央アジア研究ネットワークで2年来展開しているフェルガナ・プロジェクトの一環として行った。このプロジェクトは、過去1世紀間のフェルガナ地方における社会、経済、生態的な変化を地理情報システムを用いて解析し、今後の地域研究に有用なデータベースを構築することを目的としているが、この作業を進める上で現地調査は欠かすことができないからである。

 調査期間の前半は、タシュケントの科学アカデミー東洋学研究所で20世紀初頭にフェルガナ地方のムスリム知識人が書いた史書を中心に写本史料の閲覧にあたった。なかでも興味深かったのは『アズィーズィー史』であり、ここには、1898年のアンディジャン蜂起に関するかなり詳細な記述がみられた。著者は、ロシアのフェルガナ州当局に仕えていたムスリム知識人であるが、蜂起の指導者ドゥクチ・イシャーンについては、これを本来有徳の士として評価しているところに特徴がある。同時代の中央アジア・ムスリムの間では、ドゥクチ・イシャーンの「無謀なジハードがムスリムに多大の災厄をもたらした」という評価がまさっていたことを想起すると、著者の評価はきわめて独自であることがわかる。これは、過去1世紀間のアンディジャン蜂起に関する言説の展開の中で考察する必要があるだろう。

 この間、科学アカデミー歴史研究所を訪問したが、ここでは『ウズベキスタン新史』(全3巻、)をはじめとして、ペレストロイカ以来の歴史の見直しの成果を集約した通史やモノグラフ、ならびに研究所の機関誌『ウズベキスタン史』の刊行が進められていた。全体としてみると、ここでは近現代史の研究に重点がおかれているようにみえる。また、フランスの中央アジア研究所も活発な活動を展開しており、西欧の研究者のみならず、ウズベキスタンの研究者にも得難い研究環境を提供している。なお同研究所は、最近カザフスタンのアルマトゥにも支部を開設したという。

 調査期間の後半は、研究協力者の湯浅剛氏(防衛研究所研究員)とともに、ウズベキスタンの研究者の協力を得て、フェルガナ地方の諸都市、コーカンド、アンディジャン、ナマンガン、カーサーン・サイを回った。この調査によってフェルガナ地方の自然環境、土地利用、人口の周密度などについて具体的な情報を得るとともに、各市のウラマーからは、フェルガナ地方におけるイスラーム復興にかんする貴重な情報を得ることができた。フェルガナの諸都市では、金曜日の集団礼拝時に一万を越える信者を集めるモスクもまれではなく、また伝統的なハナフィー学派のウラマーたちの信者への影響力は相当に大きいことが確認された。フェルガナのイスラームを語るにあたって、過激な復興主義者、いわゆるワッハービーばかりに注意を向けるのは正しくないように思われる。

 走行中の自動車からの観察ではあるが、人口の周密度の高さは一見して明らかであり、とりわけコーカンド近郊では街道に沿って延々と家屋が連なり、都市と農村の区別はきわめて困難だった。下に掲げる地図は、1988年の20万分の1地図をもとに後藤寛氏が作成されたコーカンド付近の集落分布図であるが、実際には、これ以上に家屋が切れ目無く続いているように見えた。ある研究者は、フェルガナ地方におけるイスラームの伝統の根強さを都市と農村の別なく大きく拡大した緊密な共同体の存在に求めているが、この解釈は検討に値するだろう。

 今回の調査の成果は、10月の国際シンポジウム The Dynamism of Muslim Societiesでも報告したいと思う。最後に、われわれの調査に協力を惜しまなかったウズベキスタンの研究者、とりわけフェルガナの友人達に感謝を申し上げたい。

                                             小松 久男

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